No.352
ここのところ映画館に行っていません。仕事のスケジュールがタイトだったこと、豪雨災害でそれどころではなかったこともありますが、何よりも観たい映画が公開されていなかったことが最大の理由です。そんな中、2016年のイタリア映画「ある天文学者の恋文」をDVDで鑑賞しました。
ヤフー映画の「解説」には、以下のように書かれています。
「『ニュー・シネマ・パラダイス』『鑑定士と顔のない依頼人』などのジュゼッペ・トルナトーレ監督が放つ、ミステリードラマ。死んだはずの恋人から手紙やプレゼントが届き続ける女性が、その謎を解く姿を彼女の秘めた過去を絡めながら追う。『運命の逆転』などのジェレミー・アイアンズが天文学者である恋人を、『007/慰めの報酬』などのオルガ・キュリレンコがヒロインを力演。深い謎と、舞台となるエディンバラやサン・ジュリオ島の美しい風景に魅せられる」
また、ヤフー映画の「あらすじ」には、以下のように書かれています。
「天文学者エド(ジェレミー・アイアンズ)と、教え子のエイミー(オルガ・キュリレンコ)は、愛し合っていた。だが、エイミーのもとにエドが亡くなったという知らせが飛び込む。悲しみと混乱の中、死んだはずのエドからのメール、手紙、プレゼントが次々と届く。不思議に思ったエイミーは、その謎を解くためにエドの暮らしていたエディンバラや、二人の思い出の地サン・ジュリオ島などを訪れる。やがて、エドが彼女の秘めた過去を秘密裏に調べていたことがわかり・・・・・・」
『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)
この映画、じつは「出版寅さん」こと内海準二さんのおススメ映画でした。
内海さんは出版業界きっての映画通で、拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)も編集して下さいました。同書は2016年9月に発売されましたが、ちょうどその頃に日本公開された映画が「ある天文学者の恋文」だったのです。この作品を衛星放送で最近観たという内海さんが「グリーフケアがテーマだと思うが、一条真也がどのような感想を抱くかに興味がある」と言ってくれたのです。なんでも、内海さんの重要関係人の方と感想が正反対であったとか。それでDVDを購入して自宅で観た次第です。
その感想を正直に述べれば、非常に不快指数の高い映画でした。ひと言でいえば、「キモい!」ですね。まず、大学教授と女子学生の不倫というのが許せません。不倫そのものが悪いなどと野暮なことは言いませんが、大学教授と女子学生はいけない。いろんな意味でアウトです。
わたしも、北陸大、九州国際大、上智大と、これまで10年以上も大学の客員教授を務めてきましたが、女子大生を異性として意識したことなど一度もありません。そこでモラルハザードが起きると、もう大学なんてものは根底から崩壊するのではないでしょうか。(怒)
その大学教授のエドが初老の男性であるというのも不愉快です。
この映画館でも紹介した「ファントム・スレッド」もそうですが、老人と若い女性の恋愛物語というのは、どうにもわたしには気味が悪くて仕方がありません。谷崎潤一郎のように、自身を変態だと自覚して若い娘に溺れるのならまだしも、ジジイとネエちゃんが普通にキラキラ恋愛をしてはいけませんな。自然の摂理に反しています。こういう映画に感動する人というのは、「若い女と付き合いたい」と密かに思っている老人が多いのではないでしょうか。逆に映画のラストで若い男性がエイミーをデートに誘う場面は美しいです。なぜなら、自然の摂理に適っているからです。
そもそも、老人相手に恋愛する若い女性にはファザコンが多いとされていますが、この映画のヒロインであるエイミーも例に漏れません。
このエイミーという女もわたしには腹立たしい存在でした。何よりもスマホ中毒者であることが嫌ですし、SkypeやLineといったわたしの大嫌いな通信技術を駆使している点も気に入らないです。だいたい、Lineなんてベッキーの不倫騒動のときに下火になるかと思っていたのに、その後も流行が衰えません。わが家でも、わたし以外の妻と長女と次女が3人でLineをやっており、どうも面白くない!(怒)
娘といえば、この映画で不倫関係にあるエドとエイミーですが、なんとエドの長女とエイミーが同年齢なのです。こんなインモラルな話はありません。ちなみに、わたしは長女の年齢以下の女性を異性として意識したことは金輪際ありませんよ!(怒)そもそも、このエドという男、「死を前にして、愛人のネエちゃんを驚かせる以外にすることはないんかい?」と思うほど、遺されるエイミーにサプライズを仕掛けまくります。
そんなことをするより、家族と一緒の時間を過ごすとか、お世話になった人々に会いに行くとか、最後に超弩級の学術論文を書くとか、遺言としての著作を書くとか、いろいろすることはあると思うのですが、とにかく考えるのは愛人のことばかり・・・・・・それも、死後ずっとエイミーを束縛する手紙やメールやビデオ・レターを送り続け、その姿は「永遠のストーカー」でも呼びたくなるほどです。まったくもって醜い精神の持ち主です。(怒)そのストーカーぶりには、正直ゾッとします。(怖)
この映画、グリーフケア映画の仮面はかぶっていますが、じつはグリーフケアでも何でもない変態映画で、ある意味、ホラー映画の域にまで近づいています。まあ、エド本人からすれば、エイミーにいろんなイタズラを仕掛けることで死の不安や恐怖から逃れたかったのではないでしょうか。サングラスがあれば不可視の太陽を直視できるように、愛する者がいれば不可視の死も直視できるというのは「サングラス理論」などと呼んでいる自説です。しかし、エドの場合は、「愛で死を乗り越える」といったようなロマンティックなものではなく、非常にエゴイスティックなものを感じてしまいます。
こんなトンデモ映画を作ったジュゼッペ・トルナトーレとはいかなる人物か?
1956年イタリア・シチリア島のバゲリーア出身の映画監督で、自身で脚本も手がけることもあるそうです。この映画館でも紹介した「ニュー・シネマ・パラダイス」や「鑑定士と顔のない依頼人」で紹介した映画は世界的に高い評価を得ましたが、わたしには単なる変態映画としか思えませんでした。
ジュゼッペ・トルナトーレの代表作である「ニュー・シネマ・パラダイス」は、89年のカンヌ国際映画祭審査員特別賞および同年のアカデミー外国語映画賞を受賞しています。日本における初公開は、1989年12月でした。東京・銀座4丁目にある「シネスイッチ銀座」で40週にわたって連続上映されました。わずか200席の劇場で動員数約27万人、売上げ3億6900万円という驚くべき興行成績を収めました。この記録は、単一映画館における興行成績としては、現在に至るまで未だ破られていません。映画史上に残る感動作などとされているようです。
しかし、わたしは、「ニュー・シネマ・パラダイス」にまったく感動しませんでした。まず、主人公のサルヴァトーレが30年も故郷に帰らなかったというのが納得いきませんでした。親類縁者が皆無というのならまだしも、故郷には年老いた母親が住んでおり、しかも彼女は息子の帰りをずっと待っていたのです。それでも主人公が帰郷しなかったのは、映写技師をしていた老人アルフレードから「絶対に帰ってくるな」と言われていたからです。アルフレードは、サルヴァトーレの母親が息子を呼び戻そうとしたとき、彼女を叱ったそうです。わたしは、サルヴァトーレの母親が可哀想で仕方がありませんでした。彼女は戦争未亡人なのですが、女手ひとつで苦労しながら2人の子どもを育て上げたのです。そんな母親を30年も放置しておくとは、わたしには到底理解できません。
「長い時間を置いてから帰れば、故郷はお前を温かく迎えてくれる」というアルフレードの言葉も気に入りません。たしかに映画監督としての名声を得たサルヴァトーレは故郷の人々から成功者として迎えられました。
しかし、故郷とは賞賛されるために帰る場所ではないでしょう。
第一、サルヴァトーレが映画の世界で成功することができたのも、母親やアルフレードや劇場で働く人々のおかげではないでしょうか。
サルヴァトーレは、「血縁」も「地縁」も捨てた人間です。そんな人間が大都会に出て、少しばかり成功したからといって何になるのでしょうか。わたしは、このような映画が日本で大ヒットを記録した1989年頃から「血縁」と「地縁」が日本で希薄化していき、「無縁社会」化の現象が始まったような気がしてなりません。
「ニュー・シネマ・パラダイス」の映画のラストシーンは、あまりにも有名です。サルヴァトーレは、アルフレード老人の未亡人から形見としてフィルムを受け取ります。葬儀の後、ローマに戻ったサルヴァトーレは、試写室で老人の残したフィルムを鑑賞するのですが、それは、昔、映画館でカットしていたラブシーン、特にキスシーンを繋ぎ合わせたものでした。このシーンは映画史に残る感動の場面として知られていますが、中には「あんなことして何が面白い」「老人の変態度がわかる」といった意見もあるそうです。
「ニュー・シネマ・パラダイス」のラストシーンでの変態性は、「鑑定士と顔のない依頼人」での肖像画の部屋のシーンに明らかに通じています。美女の肖像画だらけの部屋ですが、映画では、この部屋がある変化が起こります。これは、主人公(監督?)の妄想が解除され、現実に引き戻されたとも言えるでしょう。その奥底には異性へのセクシャルな欲望が潜んでおり、その意味で「鑑定士と顔のない依頼人」は非常にフロイト的な映画でした。
それにしても、一連の監督作品を鑑賞する限りでは、ジュゼッペ・トルナトーレは何かネジが数本欠けているように思えます。徹底して宗教心を感じさせないところも気になりますが、イタリア人であることを考えれば、カトリックに反発しているというか、特殊な宗教観の持ち主なのかもしれませんね。
最後に、「ある天文学者の恋文」の主人公エイミーはオルガ・キュリレンコが演じました。このとき、彼女は36歳でしたが、女子大生役を堂々と演じています。なかなかの美人ですが、この映画には合わないようにも感じました。ちなみに彼女はウクライナ出身ですが、その謎めいた美貌は、やはりボンド・ガールがお似合いですね。