ホラー映画について

●フリードキン監督が選ぶ13本

 何を隠そう、わたしは三度の飯よりも、ホラー映画が好きです。あらゆるジャンルのホラー映画のDVDやVHSをコレクションしていますが、特に心霊系のホラーを好みます。冠婚葬祭業の経営者が心霊ホラー好きなどというと、あらぬ誤解を受けるのではないかと心配した時期もありました。しかし、今では「死者との交流」というフレームの中で葬儀と同根のテーマだと思っています。
 ホラー映画の金字塔とも呼ぶべき「エクソシスト」(73)のウィリアム・フリードキン監督は、「見るたびに悪夢にうなされたような気分になれる」と太鼓判を押した作品が13本あるそうです。
 彼がよく見る悪夢とは、「誰かが自分を殺そうと追いかけてくる」というリアルなものだとか。どうやら怖い映画のラインナップも、その悪夢を反映していそうですが、次のような作品を挙げています。

1.「謎の下宿人」(44)ジョン・ブラーム監督
2.「らせん階段」(46)ロバート・シオドマク監督
3.「悪魔のような女」(55)アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督
4.「サイコ」(60)アルフレッド・ヒッチコック監督
5.「鬼婆」(64)新藤兼人監督
6.「ローズマリーの赤ちゃん」(68)ロマン・ポランスキー監督
7.「肉屋」(70)クロード・シャブロル監督
8.「悪魔のいけにえ」(74)トビー・フーパー監督
9&10.「サスペリア」(77)、「サスペリア2」(75)ダリオ・アルジェント監督
11.「エイリアン」(79)リドリー・スコット監督
12.「ファニーゲーム」(97)ミヒャエル・ハネケ監督
13.「THEM/ゼム」(06)ダビッド・モロー&グザビエ・パリュ監督

 このラインナップを見ると、たしかに怖い映画が多いです。わたしは、どうしてもDVDが入手できない「謎の下宿人」を除いては全作品を観ました。中でも、「悪魔のような女」「サイコ」「ローズマリーの赤ちゃん」「サスペリア」1・2はやはり怖かった。
 それ以外では、三島由紀夫も評価した「顔のない眼」(59)とか「血を吸うカメラ」(60)、「回転」(61)、「雨の午後の降霊祭」(65)、「ウィッカーマン」(73)、「ピクニック・アット・ハンギングロック」(75)、「シャイニング」(80)などが個人的には忘れられません。
 あと、オムニバス映画「世にも怪奇な物語」(67)の第三話「死神の子守唄」も良かったですね。フェリーニ監督の作品です。
 比較的最近の作品では、「シックス・センス」(99)や「アザーズ」(01)などの、ひねりを加えた心霊モノが好きです。
 それにしても唯一の日本映画としてフリードキンに選ばれた「鬼婆」はすごいですね。 「鬼婆」以外の日本映画では、中川信夫の「東海道四谷怪談」(59)と「地獄」(60)がまず思い浮かびます。
 それに「雨の午後の降霊祭」をリメイクした黒沢清の「降霊」(01)が秀逸です。黒沢清では、「CURE」(98)や「回路」(00)もいい。落合正幸が監督して稲垣吾郎と菅野美穂が主演の「催眠」(99)も良かった。他に、Jホラーでは清水祟の「呪怨」(03)や「輪廻」(06)も怖かったですね。

●澁澤龍彦のお誘い

 フリードキン監督以外で、わたしが信頼しているホラー映画の目利きが二人います。しかも、二人とも日本人です。
 一人目は、87年に亡くなった小説家・フランス文学者・評論家の澁澤龍彦です。
 『澁澤龍彦映画論集成』(河出文庫)では、冒頭からいきなり「恐怖映画の誘い」というエッセイが出てきて、わたしを狂喜させてくれます。
 澁澤は、恐怖映画を大きく三つのジャンルに類別します。第一は、心理主義ないしサスペンス・ドラマ。第二は、グラン・ギニョルないしショック映画。第三は、怪人ないし怪物映画(SF映画をふくむ)。
 そして、澁澤は次のように書いています。
「そもそも出発当時から、映画は物語であり、同時に見世物であったから、幻想映画あるいは恐怖映画と呼ばれる種類のそれもまた、当然、古来の怪談あるいは幻想文学のすべてのモティーフを利用すると同時に、さらにスペクタクルの要素、つまり、多かれ少なかれ血みどろのグラン・ギニョル趣味を利用せざるを得なかった。したがって、もし恐怖映画をモティーフ別の観点からのみ分類するとすれば、それは昔からよく行われてきた怪奇小説の分類法と、ほとんど変わらない結果を示すことになるであろう」
 澁澤の言う第一の恐怖映画は、ヒッチコックの「サイコ」とか「白い恐怖」などの諸作品、あるいは「何がジェーンに起こったか」や「回転」などが代表的です。
 第二は、アンリ・クルーゾーの「悪魔のような女」とジョルジェ・フランジュの「顔のない眼」を筆頭に、「生血を吸う女」「骸骨面」「ギロチンの二人」などの作品ですね。
 グラン・ギニョルというのは、19世紀末のパリの浅草みたいなモンマルトルに創立された恐怖芝居の小屋です。日本でいえば因果物めかした鶴屋南北とか、血みどろの無残絵で知られる月岡芳年などのテイストです。
 第三の分類に属する怪物映画で主演を演じた俳優たち、すなわち、ロン・チャニー、ボリス・カーロフ、ベラ・ルゴシ、ピーター・ローレ、クリストファー・リー、ピーター・カッシングなどの著名な怪奇映画スターたちに澁澤は限りない賞賛を贈ります。
 そして、彼らが演じたフランケンシュタイン博士、フランケンシュタインのモンスター、ドラキュラ伯爵、ヴァン・ヘルシング教授、あるいはジキル博士とハイド氏、カリガリ博士などの怪人たちへの共感を語ります。
 さて、『澁澤龍彦 映画論集成』の中でも「ドラキュラはなぜこわい? 恐怖についての試論」というエッセイが特に秀逸です。冒頭で、いきなり澁澤はこう述べます。
「あえて極言するならば、文化も宗教も、狂気も夢も、すべて人間の不安の投影でしかなく、恐怖による虚無からの創造物だと称することができよう。恐怖こそ、すべての人間の上部構造の原因なのである。」
 わたしは、人間が言語の習得とともに抱えてしまった「死の恐怖」こそが宗教も芸術も哲学も生んだのだと日頃から言っていますので、澁澤説には大いに共感しました。
 シネマトグラフィー(映画)は、誕生したとき、「第七芸術」と呼ばれました。その新芸術が、すでに19世紀の文学が捨てて顧みなくなった人類の強迫観念ともいうべき、もろもろの恐怖を蘇生させ、しかも、これに新しい表現形式を与えたわけです。
 澁澤は、「スクリーンの上に生きて動き出すようになった吸血鬼も、フランケンシュタインも、狼男も、ゴジラのごとき巨大な怪獣も、すべて非合理的であるがゆえに現実的な、古くてしかも新しい、人類の強迫観念の視覚化にほかならなかった」と断じ、さらには「吸血鬼ドラキュラはなぜこわいのか?」という問いに対して、次のように答えます。
「この答えは簡単である。もっとも本質的な恐怖は死の恐怖だからである。ドラキュラは死んでも死にきれず、夜間、墓地から抜け出してきて、村人たちの血を吸う。死を忌むべきもの、危険なものと見なした古代人にとって、これ以上の恐怖は考えられなかったであろう。」
 澁澤が一目置いたフランスの思想家ジョルジュ・バタイユは、「死者は、残されている者にとって危険なのである」と書きました。
 さらにバタイユは、「もしも彼らが死者を埋葬しなければならないとすれば、それは死者を保護するためよりも、死の伝染性から彼ら自身が退避するためなのである」と述べています。
 澁澤は、このバタイユの言葉を引用して、「このような信仰は、現在でも、わたしたちの潜在意識の奥底に残存しているのではなかろうか」と書いています。
 たしかに、葬式が「村八分」の例外とされた原因を「死因が伝染病であった場合、埋葬しないと伝染するから」と見る意見があります。ちなみに葬式とともに「村八分」の例外とされた火事についても、「消化しないと隣家に燃え移るから」というのが原因だったという見方もあります。
 しかしながら、わたしは、やはり「生者の命を救うこと」と「死者を弔うこと」の二つだけは村八分などを超えた不変の「人の道」であったと思っているのですが。
 そして、かくも恐怖映画を愛した澁澤にとって、一番こわい映画とは何か。 それは、「吸血鬼ドラキュラ」でも「フランケンシュタイン」でも「エクソシスト」でもなく、中川信夫監督の「東海道四谷怪談」でした。
 こういうところも、澁澤龍彦がなかなか油断できない人物であることを示していますね。

●荒木登呂彦が選ぶ20選

 澁澤龍彦に次ぐ日本人のホラー映画の目利きは、荒木登呂彦氏です。荒木氏は、日本を代表する人気漫画家で、代表作『ジョジョの奇妙な冒険』はコミックでシリーズ総計100巻以上という大作です。わたしも70巻近くは持ってはいるのですが、読む時間がなかなか取れません。正直言って、老後の楽しみに置いてあるような現状です。
 『荒木登呂彦の奇妙なホラー映画論』(集英社新書)は、ホラー映画には一家言あるという著者が1970年代以降のモダンホラー映画について大いに語った偏愛的映画論です。
 著者が最初にホラー映画の魅力に取り憑かれたのは、中学生時代に伝説的なホラー映画である「エクソシスト」を見てからでした。
 それ以来、著者は膨大な数のホラー映画を見続けてきたそうです。そんな荒木氏が選んだホラー映画の20選が以下のように紹介されています。

1.ゾンビ完全版(78)
2.ジョーズ
3.ミザリー
4.アイ・アム・レジェンド
5.ナインスゲート
6.エイリアン
7.リング(TV版)
8.ミスト
9.ファイナル・デスティネーション
10.悪魔のいけにえ(74)
11.脱出
12.ブロブ 宇宙からの不明物体
13.28日後・・・
14.バスケットケース
15.愛がこわれるとき
16.ノーカントリー
17.エクソシスト
18.ファニー・ゲームU.S.A(07)
19.ホステル
20.クライモリ

 いずれも、わたしも大いに恐怖した映画ばかりで、著者のセレクトには共感。また当然ながら、わたしが未見の映画も多くありました。本書を読んだ後で、何枚もの映画DVDをアマゾンで注文しました。
 さて、荒木氏にとっての「ホラー映画」とは何か。著者は、「まえがき」で次のように述べています。
「当たり前と思われるかもしれませんが、人間の在り方を問うための良心作だったり、深い感動へ誘うための感涙作だったりというのは、結果としてそれがどんなに怖い映画であっても逆にホラー映画とは言えません。ひたすら『人を怖がらせる』ために作られていることがホラー映画の最低条件で、さらにはエンターテインメントでもあり、恐怖を通して人間の本質にまで踏み込んで描かれているような作品であれば、紛れもなく傑作と言えるでしょう。つまり『社会的なテーマや人間ドラマを描くためにホラー映画のテクニックを利用している』と感じさせる作品よりも、まず『怖がらせるための映画』であって、その中に怖がらせる要素として『社会的なテーマや人間ドラマを盛り込んでいる』作品。それこそがホラー映画だというわけです」
 荒木氏によれば、肥満体の黒人少女の過酷な運命を描いた「プレシャス」や、究極の障害者映画である「エレファントマン」なども立派なホラー映画とのこと。著者は、「定義と言うよりも願望として、ホラー映画は何よりもまず恐怖を追求するものであってほしいですし、ホラー映画と認められるのはそういう作品なのです」と述べています。
 また荒木氏は、「かわいい子にはホラー映画を見せよ」と訴えています。一般に人間は、かわいいもの、美しいもの、幸せで輝いているものを好みます。
 しかし、世の中すべてがそういう美しいもので満たされているということはありません。むしろ、美しくないもののほうが多い。そのことを、人は成長しながら学んでいきます。
 現実の世の中には、まだ幼い少年少女にとっては想像もできないほどの過酷な部分があるのです。それを体験して傷つきながら人は成長していくのかもしれません。つまり、現実の世界はきれい事だけではすまないことを誰でもいずれは学んでいかざるをえないのです。そして、そこでホラー映画が必要となるのです。荒木氏は、次のように述べています。
「世界のそういう醜く汚い部分をあらかじめ誇張された形で、しかも自分は安全な席に身を置いて見ることができるのがホラー映画だと僕は言いたいのです。もちろん暴力を描いたり、難病や家庭崩壊を描いたりする映画はいくらでもありますが、究極の恐怖である死でさえも難なく描いてみせる、登場人物たちにとって『もっとも不幸な映画』がホラー映画であると。だから少年少女が人生の醜い面、世界の汚い面に向き合うための予行演習として、これ以上の素材があるかと言えば絶対にありません。もちろん少年少女に限らず、この『予行演習』は大人にとってさえ有効でありうるはずです」
 要するに、恐怖を相対化できるようになることが人生において大事なのです。ホラー映画というのは、恐怖をフィクションとして楽しむことのカタルシスを教えてくれ、映画鑑賞をより実りあるものにしてくれるのです。さらには、「不幸を努力して乗り越えよう」といった、お行儀のいい建前ではなく、「死ぬ時は死ぬんだからさ」みたいなポンと肩を叩いてくれることで、かえって気が楽になることがあります。
 荒木氏によれば、そういう効果を発揮してくれるのがホラー映画だというのです。ホラー映画は、「癒し」という力さえ秘めています。荒木氏は、「あとがき」で次のように述べています。
「『美しいもの』『楽しいもの』『清らかさ』といったテーマを描いた芸術行為・表現には、『美』の基本となるものが含まれています。あるいは、『正義』の心とか『幸福とはなんなのか?』といった、感覚的にわかる判断規準が内在しています。
しかし、そうしたただ『美しい』『正しい』だけの作品には、決定的に『癒し』の要素が不足しているように僕は感じます」
 荒木氏が『荒木登呂彦の奇妙なホラー映画論』を執筆している最中に、東日本大震災が発生しました。日本人だけでなく、人間が過去に体験したことがないような極限の恐怖がそこにはありました。そんな状況下で、子どもたちの間に、テーブルを手で揺すって物を落としたり、庭で作った盛り土やおもちゃをバケツの水で流して、ふざけて遊んだりする行為が多く見られたそうです。つまり、子どもたちは「地震ごっこ」や「津波ごっこ」をしたわけです。
 もし、自分の子どもがそういう遊びをしていたらどうするか。「こんな時に、そんな不謹慎なことをしてはいけない!」と叱るでしょうか。でも、著者の見方は違います。その「遊び」は子どもの心の中にある恐怖や不安を「癒す」ための本能的な防御行為ではないかというのです。
 わたしは、この荒木氏の考え方に「はっ!」と気づかされました。そして、名画「禁じられた遊び」に出てくる大戦下のフランスの子どもたちを連想しました。あの映画に登場した子どもたちは、小動物を殺しては埋葬して遊んでいました。
 言うまでもなく、あれは不謹慎な遊びでした。でも、もしかしたら、彼らにとって生きていくために必要な遊びだったのかもしれません。「地震ごっこ」や「津波ごっこ」をする子どもたちに伝えるべきは、それらの遊びをやめさせることではなく、人の心の痛みを考えることかもしれないという荒木氏は、次のように述べます。
「恐怖映画は一見すると、暗くて不幸そうで、下品で、そのうえ変な音楽まで流れていてレベルが低そうであり、異様な雰囲気さえ持っています。しかしすぐれた恐怖映画は、きちんと観てみると精神の暗部をテーマにしていて挑戦的な映画とも言え、どの場面もカット編集や変更ができないほど脚本や演出も完璧なまでに計算構築されています。そして本当にすぐれた作品は何よりも、これが大事な要素なのですけれども、『癒される』のです」
 そういった視点から考えてみれば、著者の言うように「プレシャス」や「エレファントマン」といったディープなヒューマンドラマが究極のホラー映画であり、それらがホラー映画であるがゆえに、この上なく「癒される」映画でもあることがわかってきました。
 最後に、なぜ、わたしが心霊ホラー映画を好むのかについて述べたいと思います。心霊ホラー映画には、当然のことながら、幽霊が登場します。そして、その幽霊は現世に恨みや悔いを残しているものが多い。本書でも多く紹介したジェントル・ゴースト・ストーリーの「優霊」たちにしても、この世に強い想いや未練を残していった者たちです。
 ホラー映画に先立って、怪談というジャンルがあります。日本において怪談は「慰霊と鎮魂の文学」としての側面があります。怪談とは、残された人々の心を整理して癒すという「グリーフケア文学」でもあるのです。
 東日本大震災の直後、被災地では幽霊の目撃談が相次ぎました。津波で多くの犠牲者を出した場所でタクシーの運転手が幽霊を乗車させたとか、深夜に三陸の海の上を無数の人間が歩いていたとかの噂が、津波の後に激増したというのです。
 わたしは、被災地で霊的な現象が起きているというよりも、人間とは「幽霊を見るサル」であり、「死者を想うヒト」なのではないかと思っています。故人への思い、無念さが「幽霊」を作り出しているのではないでしょうか。そして、幽霊の噂というのも一種のグリーフケアなのでしょう。
 夢枕・心霊写真・降霊会といったものも、グリーフケアにつながります。恐山のイタコや沖縄のユタも、まさにグリーフケア文化そのものです。そして、「怪談」こそは古代から存在するグリーフケアとしての文化装置ではないかと思えてなりません。怪談とは、物語の力で死者の霊を慰め、魂を鎮め、死別の悲しみを癒すこと。ならば、葬儀もまったく同じ機能を持っていることに気づきます。
 人間の心にとって、「物語」は大きな力を持っています。わたしたちは、毎日のように受け入れがたい現実と向き合います。そのとき、物語の力を借りて、自分の心のかたちに合わせて現実を転換しているのかもしれません。つまり、物語というものがあれば、人間の心はある程度は安定するものなのです。
 逆に、どんな物語にも収まらないような不安を抱えていると、心はいつもぐらぐらと揺れ動き、死別の場合であれば愛する人の死をいつまでも引きずっていかなければなりません。
 仏教やキリスト教などの宗教は、大きな物語だと言えるでしょう。「人間が宗教に頼るのは、安心して死にたいからだ」と断言する者もいますが、たしかに強い信仰心の持ち主にとって、死の不安は小さいでしょう。中には、宗教を迷信として嫌う者もいます。でも面白いのは、そういった人に限って、幽霊話などを信じるケースが多いことです。
 宗教が説く「あの世」は信じないけれども、幽霊の存在を信じるというのは、どういうことでしょうか。それは結局、人間の正体が肉体を超えた「たましい」であり、死後の世界があると信じることにほかなりません。宗教とは無関係に、霊魂や死後の世界を信じたいのです。幽霊話にすがりつくとは、そういうことなのでしょう。
 死者が遠くに離れていくことをどうやって表現するかということが、葬儀の大切なポイントです。それをドラマ化して、物語とするために、葬儀というものはあるのです。たとえば、日本の葬儀の九割以上を占める仏式葬儀は、「成仏」という物語に支えられてきました。葬儀の癒しとは、物語の癒しなのです。
 葬儀で、そして怪談で、人類は物語の癒しによって「こころ」を守ってきたのです。 良質のホラー映画を観ることは、日常に亀裂を入れて生き生きと生きるためにも必要なことだと思います。怖い映画を観るたびに、わたしの想像力は刺激され、死後の世界を自然に連想することによって、死ぬのが怖くなくなっていきます。