ファンタジー映画について

●ハートフル・ファンタジー

  わたしは幻想的な物語を好みます。ファンタジー映画も大好きです。「ハリー・ポッター」シリーズもいいですが、特に好むのは原作自体がわが愛読書である作品の映画化です。 その代表が、メーテルリンクの代表作を米ソ共同で映画化した「青い鳥」(米ソ、76年)であり、サン=テグジュペリの代表作を映画化した「星の王子さま」(74年)です。15年には、「リトル・プリンス 星の王子さまと私」も公開されました。
 ディズニーやジブリが製作するアニメ映画のほとんどはファンタジー作品です。アニメでは、アンデルセンの『人魚姫』を原作とする「リトル・マーメイド」(89年)、宮沢賢治の代表作を漫画家ますむらひろしの猫のキャラクターを使ってアニメ化した「銀河鉄道の夜」(85年)が好きです。
 『死が怖くなくなる読書』では、アンデルセン、メーテルリンク、宮沢賢治、サン=テグジュペリの四人の作品を紹介しました。彼らのファンタジーには、非常に普遍性の高いメッセージがあふれていると考えています。いわば、「人類の普遍思想」のようなものが彼らのファンタジー作品には流れているように思うのです。
 戦争や環境破壊といった難問を解決するヒントさえ、彼らの作品には隠されています。とくに、アンデルセンの『人魚姫』『マッチ売りの少女』、メーテルリンクの『青い鳥』、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』、サン=テグジュペリの『星の王子さま』の四作品は、そのヒントをふんだんにもっており、さらには深い人生の真理さえ秘めています。
 明治時代から日本では、「四大聖人」という言葉が使われました。ブッダ、孔子、イエス、ソクラテスの四人の偉大な人類の教師たちのことです。彼らはいずれもみずから本を書き残してはいませんが、その弟子たちが人類全体に大きな影響を与えた本を生み出しました。つまり、仏典であり、『論語』であり、『新約聖書』であり、『ソクラテスの弁明』をはじめとする一連のプラトンの哲学書ですね。
 それらの書物を読んでみると、ブッダも孔子もイエスもソクラテスも、いずれもが「たとえ話」の天才であったことがよくわかります。むずかしいテーマをそのまま語らず、一般の人々にもわかりやすく説く技術に長けていたのです。中でも、ブッダとイエスの二人にその才能を強く感じます。だからこそ、仏教もキリスト教も多くの人々の心をとらえ、世界宗教となることができたのでしょう。
 そして、さらにその「わかりやすく説く」という才能は後の世で宗教説話というかたちでとぎすまされていき、最終的には童話というスタイルで完成したように思います。
 なにしろ、童話ほどわかりやすいものはありません。『聖書』も『論語』も読んだことのない人々など世界には無数にいるでしょうが、アンデルセン童話をまったく読んだことがない人というのは、ちょっと想像がつきません。これは、かなりすごいことではないでしょうか。童話作家とは、表現力のチャンピオンであり、人の心の奥底にメッセージを届かせ、その人生に影響を与えることにおいて無敵なのです。
 かつて、グリム童話などを中心として、童話のもつ残酷性を取り上げ、それを強調するような本がブームになったことがありました。
 たしかに、各民族が長年受け継いできた民話や伝説にもとづく「メルヘン」にはそのような側面があることは事実です。しかし、童話作家たちが心あるメッセージを込めようとして創作した「ハートフル・ファンタジー」はちがいます。ここでは、むしろ倫理的な意味が読み取れることが多いといえます。メルヘンというものが人々の心に与える影響に注目し、その真の意味を求めたのは、グリム兄弟と同じドイツの神秘哲学者であるルドルフ・シュタイナーでした。

●メルヘンは死のイメージの宝庫

 シュタイナーは、著書『メルヘン論』(書肆風の薔薇)で次のように述べています。 「私たちの一生を通じて魂が体験する最奥の深みが、メルヘンの中に現れています。そのような体験とその体験の基礎をなすものを、自由に、往々にして軽やかに、イメージ豊かに表現しているのがメルヘンなのです」(高橋弘子訳)
 シュタイナーによれば、真のメルヘンとはファンタジーとはちがうそうです。メルヘンを民族のファンタジーが生み出した創作と見てはならないといいます。メルヘンはけっして創作ではなく、その発生の源を太古の時代にもっているというのです。
 では、太古の時代とはどういう時代か。それは人間たちに高度の霊視ができた時代です。
 古くから霊視能力があった人々には、眠りと目覚めのあいだの中間状態があったといいます。そのような中間状態の中で、実際に霊界を体験した人々がいるというのです。しかも、その霊界はきわめてさまざまな様相をした世界でした。シュタイナーは、いいます。
「今日の人々が自分のファンタジーから童話(ルビ・メルヘン)を作り出せると信じているとすれば、それは通俗的なものの見方です。宇宙の古い霊的な神秘の表現である昔のメルヘンは、そのメルヘンをつくった人々が、霊的神秘を物語ることのできる人たちのもとで耳を澄まし、傾聴することによって生じました。ですから、その組み合わせや構成は、霊的神秘に即したものです。私たちは次のように言うことができます。メルヘンの中には、全人類の、小宇宙そして大宇宙の霊が生きていると」
 なんと、メルヘンを読めば、大宇宙の霊からのメッセージが受け取れるというのです。子どもの読み物と思われていたメルヘンに、ここまで深い意味があったとは!おどろかれた方も多いと思います。
 メルヘンに先立つ物語のスタイルとして、人類は神話や伝説をもちました。神話、伝説、メルヘンは、古代の人々や、ネイティブ・アメリカン、ニュージーランドのマオリ、オーストラリアのアボリジニなど、現代においても古代人のように生きている人々の心を理解するための重要な資料となっています。
 わたしたちが今日身のまわりの出来事において科学的説明を求めるように、古代人や古代人のような現代人たちは具体的で感覚的な説明を必要としました。それは現在のわたしたちからすれば象徴的に見えますが、彼らにとってはもっと現実的だったのです。
 彼らは、世界や人間について独自の解釈をもっており、その解釈では人間と同じ生活や感情をもつ神々や諸霊の行為が重要な働きをしていました。それが神話です。
 神話は人間生活のあらゆる面に行きわたっていますから、死や死後の世界にも当然ふれています。それどころか、死や死後の世界というのは世界中の神話におけるメイン・テーマの一つだといえるでしょう。
 神話の他に伝説もあります。これは特定の種族なり、英雄なり、または町、河、山などにちなむ昔話であり、死についての理解に役立ちます。伝説は日本語でいう「昔話」や「おとぎ話」に通じるものです。日本人なら、「桃太郎」とか「金太郎」「浦島太郎」などが思い浮かびますね。これらは、いずれも伝説にもとづいています。
 さて、神話、伝説につづく物語のスタイルとしてのメルヘンは、一般に「童話」と訳されます。大正時代に日本に入ってきた「メルヘン」というドイツ語が「童話、またはおとぎ話」と訳されたためです。  しかし、いくら童話と訳されても、本来のメルヘンはけっして子どものための物語ではありませんでした。太古の時代にまでさかのぼる超感覚的なことがらを具体的に表現したものがメルヘンの奥底には潜んでいます。そこでは、象徴と現実、この世とあの世とが混ざり合っていて、不可能なことが可能になります。まさに、メルヘンとは死のイメージの宝庫なのです。

●世界で一番小さな海

 ただし、死のイメージの宝庫であるだけではありません。そこには霊的真実がたくさん隠されているのです。シュタイナーは、メルヘンを人間の魂の根源から湧き出てくるものとして非常に重要視しました。彼は教育思想家としても大きな足跡を残しましたが、子どもの心を荒廃させないためにはメルヘンを毎日読んで聞かせてあげることが大切だと考えていました。今でも、シュタイナー思想にもとづいた教育を行なう幼稚園では、メルヘンをお話しする時間が必ずあります。
 メルヘンはいつも、「昔々あるところに......」という言葉ではじまります。シュタイナーは、それこそ「真のメルヘン」の出だしなのだといいます。一つのメルヘンの中には、土地や民族、あるいは時代を超えて存在する、ある共通の真理が含まれているからというのが、その理由です。
 シュタイナーは「メルヘン」というものを、民族の想像力が生み出した「民話」や、大人が子どものために書き下ろした「ファンタジー」と厳密に区別して考えていました。メルヘンは、「人間存在そのもの」について何か根源的なものを表わしているというのです。
 ところで、「世界の三大童話」といえば、なんといってもイソップ、グリム、アンデルセンです。世界中の子どもたちが、これらの童話を両親から寝る前に読んでもらったり、また字をおぼえるやいなや自分で読んできました。日本でも、児童書といえば必ずこの三つの童話の名前があがります。
 このように、童話の歴史において、イソップ、グリムの次に来る存在は、だれがなんといおうがアンデルセン童話なのです。しかし、古代ギリシャの寓話であるイソップは置いておくとして、同じ童話として扱われるグリム童話集とアンデルセン童話集は根本において性格がちがいます。
 グリム童話はあくまで民族のあいだで語り継がれてきたものであり、アンデルセン童話とは一人のファンタジー作家の創作だからです。シュタイナーにいわせれば、グリムこそはメルヘンであり、アンデルセンは単なるファンタジーであるというでしょう。そして、きっとグリム童話がアンデルセン童話よりもずっと価値あるものだと決めつけるでしょう。
 しかし、わたしはそうは思いません。たしかに最近の児童文学やヒロイック・ファンタジーに見られるような陳腐な作品は、メルヘンの足もとにも及びません。それはグリム童話だけでなく、わが国の昔話や柳田國男の『遠野物語』や松谷みよ子が集めた民話などにもいえることです。
 しかし、アンデルセンは別です。彼の創作した童話には、シュタイナーのいうメルヘンの要素があると思います。メーテルリンク、宮沢賢治、サン=テグジュペリの作品についても同じことがいえます。すなわち、彼らのファンタジー作品には、メルヘンのように「全人類の、小宇宙そして大宇宙の霊が生きている」のです。
 ユングはすべての人類の心の底には、共通の「集合的無意識」が流れていると主張しましたが、彼ら四人の魂はおそらく人類の集合的無意識とアクセスしていたのだと思います。
 ドイツ語の「メルヘン」の語源には「小さな海」という意味があるそうです。大海原から取り出された一滴でありながら、それ自体が小さな海を内包しているのです。このイメージこそは、メルヘンは人類にとって普遍的であるとするシュタイナーの思想そのものです。
 人類の歴史は四大文明からはじまりました。その四つの巨大文明は、いずれも大河から生まれました。そして大事なことは、河は必ず海に流れ込むということです。さらに大事なことは、地球上の海は最終的にすべてつながっているということ。
 チグリス・ユーフラテス河も、ナイル河も、インダス河も、黄河も、いずれは大海に流れ出ます。人類も、宗教や民族や国家によって、その心を分断されていても、いつかは河の流れとなって大海で合流するのではないでしょうか。人類には、心の大西洋や、心の太平洋があるのではないでしょうか。
 そして、その大西洋や太平洋の水も究極はつながっているように、人類の心もその奥底でつながっているのではないでしょうか。それがユングのいう「集合的無意識」の本質ではないかと、わたしは考えます。
 そして、「小さな海」という言葉から、わたしはアンデルセンの有名な言葉を連想しました。それは、「涙は人間がつくるいちばん小さな海」というものです。これこそは、アンデルセンによる「メルヘンからファンタジーへ」の宣言ではないかと、わたしは思います。
 というのは、メルヘンはたしかに人類にとっての普遍的なメッセージを秘めています。しかし、それはあくまで太古の神々、あるいは宇宙から与えられたものであり、人間がみずから生み出したものではありません。涙は人間が流すものです。そして、どんなときに人間は涙を流すのか。それは、悲しいとき、寂しいとき、つらいときです。それだけではありません。他人の不幸に共感して同情したとき、感動したとき、そして心の底から幸せを感じたときではないでしょうか。
 つまり、人間の心はその働きによって、普遍の「小さな海」である涙を生み出すことができるのです。人間の心の力で、人類をつなぐことのできる「小さな海」をつくることができるのです。
 これは、人類の歴史における大いなる「心の革命」であったと思います。ブッダ、孔子、ソクラテス、イエスといった偉大な聖人たちが誕生し、それぞれの教えを説いたときもそうでしたが、アンデルセンがみずから創作童話としてのファンタジーを書きはじめたときも、同じように人類の心は救われたような気がしてなりません。

●「幸福」というものの正体

 アンデルセン、メーテルリンク、宮沢賢治、サン=テグジュペリのハートフル・ファンタジーは、ある意味で現代のメルヘンです。 これらの作品は、やさしく「死」や「死後」について語ってくれるばかりか、この地上で生きる道も親切に教えてくれます。さらには、「幸福」というものの正体さえ垣間見せてくれます。
 ある意味で、メルヘンが子どもへのメッセージならば、ハートフル・ファンタジーとは老人へのメッセージかもしれません。天上界を忘れて地上で生きていくための物語がメルヘンならば、これからもう一度、天上界へと戻っていく人々のための物語がハートフル・ファンタジーではないでしょうか。 「死」の本質を説き、本当の「幸福」について考えさせてくれるハートフル・ファンタジー。それは、読む者すべてに「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を自然に与えてくれます。
 わたしたちは、どこから来て、どこに行くのでしょうか。そして、この世で、わたしたちは何をなし、どう生きるべきなのでしょうか。そのようなもっとも大切なことを教えてくれる物語がハートフル・ファンタジーなのです。
 これまで数え切れないほど多くの宗教家や哲学者が「死」について考え、芸術家たちは死後の世界を表現してきました。医学や生理学を中心とする科学者たちも「死」の正体をつきとめようとして努力してきました。
 それでも、今でも人間は死につづけています。死の正体もよくわかっていません。実際に死を体験することは一度しかできないわけですから、人間にとって死が永遠の謎であることは当然だといえるでしょう。
 まさに死こそは、人類最大のミステリーであり、全人類にとって共通の大問題なのです。
 その謎を説明できるのはハートフル・ファンタジーしかないと思います。
 少し前に、「私のお墓の前で泣かないでください」という歌詞ではじまる「千の風になって」が大ヒットしました。現実の葬儀の場面でも、この不思議な歌を流してほしいというリクエストが現在も絶えません。喪失の悲しみを癒す物語をこの歌が与えてくれることに多くの人々が気づき、求めたわけです。
 なぜ、自分の愛する者が突如としてこの世界から消えるのか、そしてこの自分さえ消えなければならないのか。これほど不条理で受け容れがたい話はありません。その不条理を受け容れて、心のバランスを保つためには、物語の力ほど効果があるものはないのです。
 どんなに理路整然とした論理よりも、物語のほうが人の心に残るものです。そして、もっとも人の心の奥底にまで残る物語とはハートフル・ファンタジーにほかなりません。それは、人類最大のミステリーである「死」や「死後」についての説明をし、さらには人間の心に深い癒しを与えてくれるのです。

●大作ファンタジー映画への違和感

 さて、ここのところずっとファンタジー・ブームが叫ばれつづけています。『ハリー・ポッター』の大ヒットからはじまったブームはトールキンの『指輪物語』やルイスの『ナルニア国ものがたり』、さらにはル=グインの『ゲド戦記』などのファンタジーの歴史に燦然(さんぜん)と輝く超大作のリバイバルも呼び起こし、これらの作品の映画化も実現してきました。
 わたしも、映画化された作品をすべて観ましたが、どうにも気になったことがあります。
 それは、どの作品もハイライトが戦争シーンであることです。たしかに『指輪物語』を忠実に映像化した「ロード・オブ・ザ・リング」三部作などはアカデミー賞を独占しただけあってすばらしいクオリティの作品でした。しかし、延々とつづくスペクタクルな戦闘の場面にどうにも違和感を覚えてしまったのは、わたし一人だけでしょうか。わたしは、「なぜ、癒しと平和のイメージを与えてくれるのではなく、ファンタジー映画に戦争の場面ばかり出てくるのか?」と素朴に思ってしまうのです。
 もちろん、「光」と「闇」の対立とか、「善」と「悪」の対決とか、いいたいことは何となくわかります。それでも、どうしようもなく湧いてくる違和感。それは「世界を正義の光で満たす」といいながら、世界中の国々を侵略していったキリスト教の歴史に対する違和感に通じるものです。
 15世紀から17世紀にかけての大航海時代、コロンブスやマゼランといったヨーロッパ人たちは「未開の地」である新大陸に上陸しました。そこで彼らは、冒険家も宣教師もみな、罪もない原住民を殺しまくったのです。
 スペイン人のピサロがペルーに渡ったときも、彼とその一行はインカ帝国を滅ぼし、その財宝を略奪したばかりか、そこに暮らす先住民を無慈悲に殺戮しました。
 北米に移住してきたキリスト教徒たちも、ピサロに負けるなとばかりに先住民を殺しまくりました。移民当初は、100万人はいたと推定されている先住民は、19世紀末にはわずか一万人足らずに減りました。
 カリブ海に浮かぶ島々の先住民は、マルティニーク島をはじめ島によっては、一人残らず殺戮されています。
 まさに「極悪非道のきわみ」としか表現できませんが、殺戮者たちには後ろめたさなどありませんでした。キリスト教の教義に従って異教徒を殺しただけだったからです。
 このようなジェノサイド(民族皆殺し)の原点は、『旧約聖書』の「ヨシュア記」に見られます。神はイスラエルの民にカナンの地を約束しました。ところが、イスラエルの民がしばらくエジプトにいるうちに、カナンの地は異民族に占領されていました。そこで、「主はせっかく地を用意してくださいましたけれども、そこには異民族がおります」と述べたのです。すると神は、なんと「異民族は皆殺しにせよ」と言ったのです。
 神の命令は絶対に正しい。となれば、異民族は皆殺しにしなければならない。殺し残したら、それは神の命令に背いたこととなり、大きな罪となるわけです。
 神に対して敬虔であればあるほど、異教徒は殺さなくてはならない。この意味において、キリスト教は殺人宗教です。かの十字軍の遠征にしても途方もない殺人遠征でした。
 1096年から始まる十字軍そのものは、教皇ウルバヌス二世の政治的意図から発しており、当初は聖地エルサレム奪回という意図は希薄でした。しかし、中世のキリスト教カルト集団たちの目には、十字軍は、サタンと反キリストに支配されているイスラム勢力を滅ぼし、セルジューク朝に支配されている聖地を奪回して千年王国を実現する「聖戦」(ジハード)ととらえられたのでした。
 イスラム教徒がキリスト教の聖地巡礼を迫害しているという名目でスタートした十字軍遠征は、キリスト教側のデマゴーグであり、迫害などほとんどなかったことが世界中の歴史学者によってあきらかにされています。
 キリスト教側が攻撃や略奪などを繰り返したので、イスラムはムハンマドの伝統にのっとって「聖戦」(ジハード)に乗り出したというのが歴史の実態なのです。そもそも『コーラン』には、防衛戦争以外の戦争をしてはならないとはっきり記されているのです。
 ですから、いくら異教の香り漂うケルトの世界観が背景になっているとはいえ、『指輪物語』『ナルニア国ものがたり』『ゲド戦記』などには、かつてのキリスト教的価値観が無反省に投影されているような気が、わたしにはするのです。
 そもそも「光と闇」とか「善と悪」などという対立の構図そのものが「神と悪魔」と並んで、キリスト教におけるデマゴーグの王道でした。それは、現代における最大のキリスト教国家であるアメリカの戦争外交にまでつながります。原作のファンタジー作品よりも映画のほうに戦争の匂いを強く感じるのは、その製作がアメリカによって行なわれているせいかもしれません。
 メルヘンの末裔として人間の魂に養分を与えるべきファンタジーの中に殺伐とした戦争シーンが出てくるのは、わたしにはどうしても奇異に思えます。

●ファンタジーは宗教を超える

 真のファンタジー、つまりハートフル・ファンタジーとは、「死」の真実や「幸福」の秘密を語るものであると述べました。メルヘンが子どもたちへのメッセージなら、ハートフル・ファンタジーは老人たちへのメッセージであるとも述べました。
 ハートフル・ファンタジーは、戦争の場面など必要としません。ひたすら読む者の心を癒し、平和のイメージを与え、幸福の意味について教えてくれます。そして、本書で紹介した四人の童話作家の作品こそはハートフル・ファンタジーであると確信しています。
 アンデルセンは父親の影響で、『アラビアンナイト』を愛読していました。アンデルセン自身はキリスト教徒でしたが、『アラビアンナイト』は言わずとしれたイスラム教の物語です。このことは非常に重要です。
 『アラビアンナイト』という幻想的な物語の大河が、アンデルセンというダムに流れ込み、そこから支流としてのメーテルリンク、サン=テグジュペリ、宮沢賢治らへと流れていく。ここには、イスラム教もキリスト教もユダヤ教も仏教も、スピリチュアリズムさえ関係ありません。もしかしたら、ファンタジーは宗教を超えることができるのでしょうか。
 というより、ファンタジーには宗教同士の衝突という愚行を「物語」によって回避する秘力が備わっているのかもしれません。そして、その秘力とは「魂の錬金術」と同義語ではないでしょうか。ハートフル・ファンタジーを紡ぎ出す童話作家たちはすべて、「魂の錬金術師」なのです。
 倫理学者の小原信氏は、『ファンタジーの発想』(新潮選書)において次のように述べています。
「ながい歴史のなかで、人類が直面した多くの危機はすべてファンタジーに起因するものである。神話も宗教も、戦争も友情もすべてそれぞれがお互いにいだくファンタジーによって起こり、またファンタジーによって収拾されてきた」
 わたしは、「政治的決着」や「大人の解決」というような意味合いで、「ファンタジー的決着」とか「ファンタジー的解決」というようなものがありえるのではないかと真剣に考えはじめています。