No.0015
映画「アリス・イン・ワンダーランド」を観ました。
さすがに3Dは迫力満点です。なんといっても、ティム・バートン監督の妻であるヘレナ・ボナム・カーター演じるトランプの「赤の女王」が良かったですね。
マッドハッター役のジョニー・デップも、いい味を出していました。
ラストの戦争シーンは不要であると思いました。
わたしは、基本的に戦争シーンが嫌いなのです。
それも、せっかくの夢のあるファンタジーに戦争の場面が登場すると白けてしまいます。
ここのところずっと、ファンタジー・ブームが叫ばれつづけていますね。
『ハリー・ポッター』の大ヒットからはじまったブームは、トールキンの『指輪物語』やC・S・ルイスの『ナルニア国ものがたり』、さらにはル=グウィンの『ゲド戦記』などのファンタジーの歴史に燦然と輝く超大作のリバイバルも呼び起こしました。
さらには、これらの超大作の映画化も実現してきました。
わたしは映画化された作品をすべて観ましたが、どうにも気になったことがあります。
それは、どの作品もハイライトが戦争シーンであることです。
たしかに『指輪物語』を忠実に映像化した「ロード・オブ・ザ・リング」3部作などはアカデミー賞を独占しただけあってすばらしいクオリティの作品でした。
しかし、延々とつづくスペクタクルな戦闘の場面にどうにも違和感を覚えてしまったのは、わたし一人だけでしょうか。
わたしは、「なぜ、癒しと平和のイメージを与えてくれるのではなく、ファンタジー映画に戦争の場面ばかり出てくるのか?」と素朴に思ってしまうのです。
もちろん、「光」と「闇」の対立とか、「善」と「悪」の対決とか、いいたいことは何となくわかります。それでも、どうしようもなく湧いてくる違和感。
それは、「世界を正義の光で満たす」といいながら、世界中の国々を侵略していったキリスト教の歴史に対する違和感に通じるものです。
『不思議の国のアリス』の原作には、トランプの女王の戦争場面が出てきます。
その意味では、映画「アリス・イン・ワンダーランド」に戦争場面が出てきてもおかしくないのでしょうが、ちょっと映画では誇張しすぎている気がしました。
それと、ネタバレになるので詳しくは言いませんが、この作品は原作の忠実な映画化ではないのです。ですから、「アリス・イン・ワンダーランド」に必ずしも戦争のシーンが必要ではなかったと思います。
わたしは、何を隠そう、昔からルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』が大好きです。
子ども時代に読んだ講談社のディズニー・アニメ絵本全集の中でも「アリス」は最もお気に入りの作品でした。
中学の頃は岩崎民平訳の角川文庫を5、6回は読みました。
高校に入ってからは英語の勉強をかねて原書で読んだおぼえがあります。
今でも、わが書斎には、アリスにまつわるグッズが揃っています。
腕時計やプレイングカード、そしてフォトスタンドの中には自分の写真が。
わたしは別に自分の写真を飾るのが好きなナルシストではありません。
ただ、アリスの世界に入り込んでみたいと思ったのです。
アリスといえばウサギですね。フォトスタンドにも左右で並んでいます。
ウサギ年のわたしは、きっとアリスと相性が良いのかもしれません。
書斎のアリス・コレクションの一部
わたしは、かつて『遊びの神話』でアリスを取り上げ、彼女が行ったワンダーランドの正体とは「初潮」ではないかと書いたことがあります。
物語の最初に登場するアリスは姉に甘えるだけの少女にすぎませんでしたが、ワンダーランドから帰ってきた後は、非常にしっかりと精神的に自立しています。
彼女は大人の女性に近づいたのです。
洪水のシーンでプカプカ揺られたり、身体が大きくなったり小さくなったりするのは、初潮をむかえて不安に揺れ動く少女の微妙な心を表現していると考えたのです。
アリスのワンダーランドに限らず、わたしはファンタジー作品に登場する幻想世界に昔から魅せられ、著書も書いてきました。
最近では、『よくわかる伝説の「聖地・幻想世界」事典』(廣済堂文庫)という監修書で、多くの幻想世界を紹介しました。
『不思議の国のアリス』の「ワンダーランド」はもちろん、『ガリバー旅行記』の「ラピュータ」、『ピーターパンとウェンディ』の「ネヴァーランド」、『オズの魔法使い』の「オズの国」、『ナルニア国ものがたり』の「ナルニア国」、『指輪物語』の「ミドルアース」、『ゲド戦記』の「アースシー」、『はてしない物語』の「ファンタージェン」、そして『ハリー・ポッター』の「ホグワーツ」・・・・・。
これほど、さまざまな幻想の舞台を集めた本は珍しいと思います。
ファンタジーが好きな方は、ぜひ、ご一読下さい。
アリスが迷い込んだワンダーランドとは
前代未聞!ワンダーランドのカタログ