映画から死を学んだ

●「風と共に去りぬ」との出合い

 わたしが映画好きになったのは小学生の頃です。きっかけはテレビの洋画番組でした。
 わたしが小学時代を過ごした1970年代は街の映画館の数が減っていき、映画を鑑賞することの文化的リソースの乏しい時代でした。
 もちろん、レンタルビデオ店などというものはまだ登場しておらず、小倉という地方都市ゆえにシネコンもありませんでした。
 もっとも、「小倉昭和館」という名画座がありました。現在も続いており、2016年で創業77周年となります。かの松本清張も愛したことで知られます。洋画・邦画・そしてヨーロッパ・アジアのミニシアター系作品を二本立てで上映しており、わたしもよく通います。
 しかし、小学生当時は名画座に通うわけにもいかず、もっぱらテレビで映画を楽しんでいました。テレビ朝日系「日曜洋画劇場」では淀川長治、TBS「月曜ロードショー」では荻昌弘、日本テレビ「水曜ロードショー」では水野晴郎、そしてフジテレビ「ゴールデン洋画劇場」では高島忠夫と、各テレビ局が提供する洋画番組には解説者がいました。
 テレビ東京にも「木曜洋画劇場」という番組があり、河野基比古や木村奈保子といった解説者が活躍したそうですが、わたしは知りません。当時、テレビ東京は九州では放送されていなかったのです。現在は、系列のテレビ九州(テレQ)がありますが......。
 プロの映画評論家であっても、わたしぐらいの世代の人にはテレビ映画解説から大きな影響を受けた人が多いようです。
 そんなテレビの洋画番組で、わたしが生まれて初めて観た映画は「風と共に去りぬ」(39年)でした。たしか、新聞のテレビ欄を見ていた母が「テレビで『風と共に去りぬ』が放送される。すごいね!」と言っていた記憶があります。小学三年生ぐらいでしたか、普段は夜遅くまでテレビを観ることは許されないのに、その日の夜は母と一緒に「風と共に去りぬ」を観たのでした。
 主役のスカーレット・オハラを演じたヴィヴィアン・リーの美しさに子ども心に一目惚れしたわたしは、「将来、この人に似た女性と結婚したい」と思いました。
 「風と共に去りぬ」という映画そのものからも、わたしは多大な影響を受けました。ヴィヴィアン・リーの吹き替えを栗原小巻が担当したのですが、ラストシーンの「明日に希望を託して」というセリフも心に残りました。
 すっかり「風と共に去りぬ」とヴィヴィアン・リーの虜になってしまったわたしは、少しでも関連情報を得たくて、「スクリーン」や「ロードショー」といった映画雑誌の定期購読を始めました。映画音楽のLPの全集なども買いましたね。そして、雑誌で紹介されているブロマイドやスチール写真の通販を買い求め、ついにはレット・バトラー(クラーク・ゲーブル)とスカーレットが抱き合っている巨大パネルを購入して勉強部屋に飾っていました。
 ずいぶんマセた小学生でしたが、このパネル、なんとわたしが結婚したしたときに寝室にも飾ったのです。わたしの妻が本当にヴィヴィアン・リーに似ていたかどうかは秘密です。(笑)
 初めてテレビで観た本格的な長編映画も「風と共に去りぬ」でした。それまでTVドラは観たことがあっても、映画それも洋画を観るのは生まれて初めてであり、とても新鮮でした。まず思ったのが「よく人が死ぬなあ」ということ。
 南北戦争で多くの兵士が死に、スカーレットの最初の夫が死に、二人目の夫も死に、親友のメラニーも死ぬ。特に印象的だったのが、スカーレットとレットとの間に生まれた娘ボニーが落馬事故で死んだことです。
 わたしは「映画というのは、こんな小さな女の子まで死なせるのか」と呆然としたことを記憶しています。このように、わたしは人生で最初に鑑賞した映画である「風と共に去りぬ」によって、「人間とは死ぬものだ」という真実を知ったのです。
 逆に、「スクリーンの中で人は永遠に生き続ける」と思ったこともありました。中学生になって、北九州の黒崎ロキシーという映画館で「風と共に去りぬ」がリバイバル上映されたことがあります。狂喜したわたしは、勇んで小倉から黒崎まで出かけ、この名作をスクリーンで鑑賞するという悲願を達成したのです。
 そのとき、スクリーン上のヴィヴィアン・リーの表情があまりにも生き生きとしていて、わたしは「ヴィヴィアン・リーは今も生きている!」という直感を得ました。
 特に、彼女の二人目の夫やアシュレーがKKKに参加して黒人の集落を襲っているとき、女たちは家で留守番をしているシーンを観たときに強くそれを感じました。椅子に座って編み物をしているヴィヴィアン・リーの顔が大写しになり、眼球に浮かんだ血管までよく見えました。それはもう、目の前にいるどんな人間よりも「生きている」という感じがしたのです。それを観ながら、「こんなに生命感にあふれた彼女が実際はもうこの世にいないなんて」と不思議で仕方がありませんでした。「映画は不死のメディア」という考えは、このときに生まれたのかもしれません。

●「ライムライト」から学んだこと

 「風と共に去りぬ」の影響ですっかり映画少年となったわたしは、それからもTVの洋画番組を愛し、新作映画を観るたびに映画館にも通いました。
 「死」を描いた映画もたくさん観ました。フェデリコ・フェリーニの「道」(54年)では、薄幸の女ジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)の死が哀れでたまらず、ラストのザンパノ(アンソニー・クイン)の号泣シーンで一緒に泣きました。
 また、「ゴッドファーザー」(72年)を観たときは、あまりにも多くの登場人物が死ぬことに驚きながらも、「社会には暗部も存在する」という現実の一面を知った気がしました。
 そんな中で、特にわたしの心に強烈な印象を残した映画は、チャールズ・チャップリンが監督と主演を務めた「ライムライト」(52年)です。
 1952年という年は、チャップリンは一家をあげてアメリカを離れ、イギリスに渡った年です。彼を非米活動家と見なすアメリカ法務省は、チャップリンの帰米を許可しないと発表し、事実上の追放処置を決定しました。
 この年はまた、彼の自叙伝的映画ともいうべき「ライムライト」が完成した年でもありました。「ライムライト」には、ほとんど無条件といってもいい人間信頼、生命讃歌のメッセージが込められています。
 物語は1914年、まだ第一次世界大戦がはじまっていない静かな初夏のたそがれのロンドンからはじまります。老いたる喜劇役者カルヴェロは、ガス自殺を企てた若い娘を発見して、介抱します。
 娘の名はテリーで、バレー・ダンサーの修行をしていましたが、関節の痛みから脚がきかなくなったのです。彼女は生きる望みもなく、職も失い、不幸な解決を選んだわけです。自殺未遂の少女テリーに向かってカルヴェロのいう言葉は、63歳のチャップリンが人類に寄せるメッセージとなっています。
「人間の意識ができ上がるまでには何千年もかかっている。それを君は亡ぼしてしまおうとしたのだ。星になにができる。なにもできやしない。ただ空をめぐっているだけだ。太陽はどうだ。2億8千マイルもの焰を噴きあげているが、それがどうだ。エネルギーの空費にすぎない。太陽は考えられるかい? 意識があるかい? むろんありはしない。ところが君は自分を意識できるんだよ」
 この言葉は生命への無条件の肯定であると同時に、チャップリンは自分が人の心を癒す白魔術師であることを告白しています。彼がキーワードにしている「意識」こそは、すべての魔術の基本となるものだからです。そして彼は、人を笑わせるという最大の白魔術によって、世界中の人々の意識をポジティブに変容させてきたのです。
 だが、テリーはそんなに簡単には生への確信を持てません。貴族の息子に棄てられた小間使いの私生児として生まれた彼女は、人生のあらゆる苦しみをなめてきました。母は死に、姉は街の女となり、その上、今の自分は脚が麻痺して立つことさえできません。彼女には世の中のことすべてが無駄に思われます。花を見ても、音楽を聞いても、みんな無意味です。そんな彼女にカルヴェロは言います。
「意味などはどうでもいい。すべての生き物の目的は欲望なのだ。それぞれ欲望があるから、バラはバラらしく花を咲かせたがるし、岩はいつまでも岩でありたいと思ってこうして頑張っているんだ」
 彼は話しながら、バラになり、岩になり、日本の松になり、三色スミレになります。そして、戦って生きることの美しさをテリーに説くのでした。
「恐れをもたなければ人生は美しい。勇気と、それから想像力をもつんだ、テリー」
 ポジティブな「想像力」こそは、白魔術を作動させ、みずからが癒され、幸福になることのできるスイッチなのです。テリーはカルヴェロに対して問います。
「でも、なぜ戦うの?」
「生きるためさ! 生きることは金魚にとっても美しいんだ」
 そのくせ、カルヴェロ自身が生きることへの恐れを克服できません。彼は寄席でさんざんな失敗を演じて帰ってきます。絶望の涙が頬を流れます。今度は、テリーがカルヴェロに生きるための想像力を説く番です。
「あなたの中にある力を信じなければいけないわ。戦うのは今よ」
 テリーは、いつの間にか立ち上がり、歩いています。
「あら、カルヴェロ、ごらんなさい。私、歩いてるわ。歩いてるわ」
 二、三年の月日が流れます。テリーはバレリーナとして、ロンドンはもちろん、世界のあらゆる首都で大当たりを取りました。その間にテリーの前から姿を消したカルヴェロは、流しの音楽師たちの仲間に入って乞食同然の生活をしていました。ある夜、この二人は偶然出会います。
 テリーは、自分の今日を築いてくれたかつての大恩人のために慈善公演を開きます。最後にカルヴェロは舞台で成功し、同時に死んでいきます。テリーは彼の死を知らず、踊り続けます。このようにして生命は続いていくのでした。
 実際のチャップリンは88歳まで生きました。77年12月25日、奇しくもキリストが生まれた日の朝に、「現代のキリスト」と多くの人々が呼んだチャールズ・チャップリンは永眠したのでした。

●「タイタニック」と愛と死

 成人してから、わたしが最も感動した映画は、ジェームズ・キャメロン監督の超大作である「タイタニック」(97年)でした。
 実際のタイタニック号沈没事故をめぐって、上流階級の娘ローズと貧しい画家志望の青年ジャック・ドーソンの悲恋を描いています。
 ローズはケイト・ウィンスレット、ジャックはレオナルド・ディカプリオが演じています。
 2012年4月15日、タイタニック号が沈没してから、ちょうど100周年を迎えました。わたしは、その日の夜、沈没100周年を記念して公開された「タイタニック3D」を観ました。
 ストーリーは、100年前のタイタニック号沈没の史実を交えて展開します。前半はラブストーリー大作、後半はパニック大作といった趣ですが、194分という長時間をまったく飽きさせない脚本はさすが。何度観ても、やはり抜群に面白い。久々に観直してみて、改めて「完璧な脚本だな」と感じました。
 以前はあまり気にとめなかった「碧洋のハート」と呼ばれる幻のダイヤが、ストーリー全体における見事なスパイスとなっています。また、ローズとジャックの逃避行を利用して、船内をくまなく案内するなど、何度も「うーん、うまいなあ」と唸りました。
 そして、この作品のテーマはまさに「愛」と「死」にほかならないと思いました。小説にしろ、演劇にしろ、映画にしろ、大きな感動を提供する作品は、「愛」と「死」という2つのテーマを持っています。
 古代のギリシャ悲劇からシェークスピアの『ロミオとジュリエット』、そして「タイタニック」まで、すべて「愛」と「死」をテーマにした作品であることに気づきます。
 「愛」は人間にとって最も価値のあるものです。しかし、「愛」をただ「愛」として語り、描くだけではその本来の姿は決して見えてきません。そこに登場するのが、人類最大のテーマである「死」です。「死」の存在があってはじめて、「愛」はその輪郭を明らかにし、強い輝きを放つのではないでしょうか。
 「死」があってこそ、「愛」が光るのです。そこに感動が生まれるのです。逆に、「愛」の存在があって、はじめて人間は自らの「死」を直視できるとも言えます。
 ラ・ロシュフーコーという人が「太陽と死は直視できない」と有名な言葉を残しています。たしかに太陽も死もそのまま見つめることはできません。しかし、サングラスをかければ太陽を見ることはできます。同じように「死」という直視できないものを見るためのサングラスこそ「愛」ではないでしょうか。
 誰だって死ぬのは怖いし、自分の死をストレートに考えることは困難です。しかし、愛する恋人、愛する妻や夫、愛するわが子、愛するわが孫の存在があったとしたらどうでしょうか。人は心から愛するものがあってはじめて、自らの死を乗り越え、永遠の時間の中で生きることができるのです。
 いずれにせよ、「愛」も「死」も、それぞれそのままでは見つめることができず、お互いの存在があってこそ、初めて見つめることが可能になるのでしょう。
 「死」といえば、沈没する豪華客船の船内を逃げ惑う乗客たちの姿を見ると、やはりどうしても、東日本大震災の犠牲者のことを連想してしまいました。
 「不沈船」とまで呼ばれたタイタニックが沈むさまを見て、わたしは福島第一原発の事故を連想しました。このようにスクリーンの中の死者が現実の死者につながっていくことがあります。わたしたちは、けっして死者を忘れてはなりません。

●小津安二郎と冠婚葬祭

  テレビの映画番組は洋画中心でしたので、わたしも洋画ファンになり、日本映画はあまり観ない時期が続きました。しかし、大学生のときにレンタルビデオ店が普及し、過去の日本映画の名作を片っ端から鑑賞しました。
 特に、二大巨匠である黒澤明と小津安二郎の作品はすべて観ました。黒澤の「生きる」(52年)からはわたしの死生観に大きな影響を与えられましたし、日本映画史上最高の名作と呼ばれる「七人の侍」(54年)は時間の経つのを忘れるほど物語に没頭しました。あれほど面白い映画は今後も生まれないのではないでしょうか。まさに黒澤明は天才の中の天才であると思います。
 しかし、年齢を重ねるに従って、その味わいがだんだん深くなっていくのは小津安二郎の映画です。彼の作品には、必ずと言ってよいほど結婚式か葬儀のシーンが出てきました。
 小津ほど「家族」のあるべき姿を描き続けた監督はいないと世界中から評価されていますが、彼はきっと、冠婚葬祭こそが「家族」の姿をくっきりと浮かび上がらせる最高の舞台であることを知っていたのでしょう。
 その小津自身は、生涯、家族というものを持ちませんでした。女優の原節子と結婚するのではないかと噂になったことはあります。
 「小津安二郎&原節子」の二人は、日本映画界における最強コンビでした。この二人に対抗しうるコンビは、わずかに「黒澤明&三船敏郎」だけでしょう。原節子は、「晩春」(49年)、「麦秋」(51年)、「東京物語」(53年)、「東京暮色」(57年)、「秋日和」(60年)、「小早川家の秋」(61年)という六本の小津作品に出演しています。
 映画評論家の西村雄一郎氏は、著書『殉愛 原節子と小津安二郎』の「あとがき」で、著者は次のように書いています。
「原節子と小津安二郎の関係については、以前から書きたかった。理由は単純である。小津映画六作に登場した時の、原節子のあの官能的といっていいほどの異常な美しさは何なのだろう? と、いつも考えていたからだ。それは即ち、小津自身が原節子を愛していたからに他ならないと思った。その検証のために、この本を書いたと言ってもいい」
 同書の第二章「紀子の誕生」では、小津安二郎が初めて原節子を起用した作品である「晩春」について、西村氏は以下のように書いています。
「『晩春』は、劇中に能が登場する映画だが、実際に能の要素を取り入れた、小津作品中、最も官能的な映画だといっていい。1時間48分という比較的短い映画だが、無駄なカットが一切なく、どのシーンも必然性をもち、それぞれに緊密に連携し、特に清々しいまでの構成の美を感じさせる。それは、構成が、能の"序・破・急"を意識しているからだと思われる」
 このくだりを読んで、わたしはハッとし、「なるほど、小津映画は能のリズムに似ている」と納得しました。西村氏は、さらに次のように書いています。
「小津の映画は、全部とは言わないが、多くは、この"序・破・急"のリズムを意識している。なかでも『晩春』は、特に能的なリズムにのっとった映画で、そのことが見終わってからの、見事なまでの無駄のなさ、きちんとした構造の強靭さを感じさせるのだ」
 能のリズムを持った小津映画そのものが儀式的な映画であると言ってよいでしょう。
 「晩春」のラスト近くには、結婚式の朝のシーンが登場します。原節子演じる紀子の支度が整い、みんなが式場に行こうとします。その前に、花嫁姿の紀子は笠智衆演じる父を呼び止め、三つ指をついて、「お父さん、長い間、いろいろお世話になりました」と言うのです。日本人なら誰でも涙腺が緩むであろうこのシーンについて、西村氏は次のように述べています。
「小津の映画では、小津の考える日本人の"原風景"となるものが随所に描かれる。日本人であればこうあってほしい、こういう風景を見たい、こうするのが最も美しいといった心象風景を映画のなかで見せてくれるのだ。この結婚式の挨拶のシーンも、そんな"原風景"の典型である。年齢を重ね、小津映画を見てほっとするのは、日本人として後に続く者に教えておきたい、こうした日本人の規範を、きちんと描いてくれているからだろう」
 同書の第四章「永遠の契り」では、小津映画最高の名作とされる「東京物語」が取り上げられます。西村氏は、19歳のとき、銀座の名画座で『東京物語』を初めて見ました。そのとき、「どこがいいのか、さっぱりわからなかった」そうです。ラストが近くなると、右隣の中年女性はオイオイと泣き、左隣のおじさんはグーグーといびきをかいて熟睡していたとか。
 しかし10年たち、20年たち、『東京物語』を再見すると、その凄さがわかってきたそうです。西村氏は、その理由を次のように述べます。
 「それは家族のなかから葬式を出す経験をしたからだ。つまり"死"というものがより身近になったからである。特に、この項を書いている頃、私は実際に母を亡くした。看病、危篤、死去、葬儀、全無整理の只中で、『東京物語』のことを書いている自分を不思議に思う。その体験を経た今、『東京物語』を見たら、私もあの名画座のおばさんのように涙してしまうだろう。静かに流れていく時間のなかで、今、自分が生きている世界から、ものが少しずつ消えていくことの寂しさ、虚しさ、無常観心から感じたのである。その意味で小津映画は、年をとればとるほど分かってくる映画の典型といえる」
 「東京物語」では、葬儀が終わった後の描写も見事です。西村氏は、次のように書いています。
「葬儀が終わり、料亭で会食をする。杉村春子扮する長女の志げは、『ねえ、京子、お母さんの夏帯あったわね。あれ、あたし形見に欲しいの』と言い出す。その志げも、長男の幸一も、三男の敬三(大阪志郎)も、次々に帰っていく。実家に一遍に集まった人たちが、一人減り、また一人減っていく。篠田正浩が言った『何かが無くなっていく映画』とはまさにこのことで、この瞬間、去っていく者、残されていく者が残酷にも区分けされていく」
 そして最後まで老父(笠智衆)の側にいたのは、戦死した二男の嫁である紀子(原節子)でした。老父は、血を分けた子どもたちよりも親切な紀子に感謝の言葉を述べ、亡き妻の形見である女物の懐中時計を贈ります。西村氏は、次のように述べています。
「父が懐中時計を渡した意味は、そこに"時間の永遠性"を表現しているのだ。たとえ持ち主が変わっても、人が滅して転じても、時間だけは常に絶え間なく流れていく。今という時間は、過ぎていく時間の最後の瞬間であり、次に来る時間の最初の時間だ。小津は『小早川家の秋』のラストで、笠智衆扮する農夫に、『死んでも死んでも、あとからあとからせんぐりせんぐり生まれてくるヮ』と言わせている。それと同じように、『東京物語』のこのシーンでは、流れては消え、流れては消えする時間の永続性、無常観というものを、時計というオブジェによって表現しているのだ」
 この文章を読んだとき、わたしはちょうど、 『永遠葬』という本を書いていたところでしたが、「儀式とは、時間の永遠性に関わるもの」ということを改めて痛感しました。
 チャップリンの映画も、小津の映画も、死んでも死んでも新しい生命が誕生し続けることを描いています。このような映画を観れば、死ぬのが怖くなくなるのではないでしょうか。