No.0214


 映画「エベレスト3D」を観ました。

 ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。

「世界中の登山家を魅了するエベレストで1996年に起きた遭難事故を、『ザ・ディープ』などのバルタザール・コルマウクル監督が映画化。死と隣り合わせの標高8,000メートルを超えたデスゾーンで極限状況に追い込まれた登山家たちのサバイバルを、迫力の映像で描く。キャストには『欲望のバージニア』などのジェイソン・クラークをはじめ、ジョシュ・ブローリン、キーラ・ナイトレイ、サム・ワーシントン、ジェイク・ギレンホールら実力派が集結」

 また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。

「世界にその名をとどろかせるエベレスト登頂を目指し世界各地から集まったベテラン登山家たちは、参加者の体調不良などトラブルが重なり下山が大幅に遅れる。さらに天候が急激に悪化し、命の危険性が劇的に高いデスゾーンで離れ離れになってしまう。ブリザードや酸欠などの極限状況に追い込まれた一行は・・・・・・」

 標高8848メートルのエベレストは、世界最高峰として有名です。
 1996年5月、エベレスト登山史上最悪の遭難事故の1つが起き、8名の登山家が死亡しました。その背景、および遭難に至る経緯については、Wikipedia「1996年のエベレスト大量遭難」に詳しく書かれています。この映画は、その遭難事故を忠実に再現しているのですが、あまりにも直球のドキュメンタリーで、少々ドラマ性に欠ける作品でした。

 ブログ「タイタニック3D」で紹介した史上最大級の海難事故を題材にしたジェームズ・キャメロン監督の超大作に比べると、やはり物足りません。テレビのクイズ番組の再現ビデオを観ているような感じでした。3D効果で、実際にエベレストに登っているかのような臨場感は味わえましたが・・・。

 「タイタニック3D」も、「エベレスト3D」も、実際に死者を出した悲劇を3Dによって極上のエンターテイント化した作品であることは同じです。これを「不謹慎だ」と言う人もいるかもしれませんが、わたしは問われるべきは「死」ではなく「葬」であると考える唯葬論者です。ですから、タイタニック号やエベレストでの犠牲者を偲ぶ映画が製作されるという行為は評価すべきであると思っています。そう、この「エベレスト3D」は11人の死者を想う「葬」としての意味を持つ映画なのです。

 映画com.では、映画評論家の尾崎一男氏が「3D映画の可能性をまたひとつ示した、身の縮むような立体効果が生む実話の迫真性」のタイトルで、「エベレスト3D」について述べています。

「エベレスト登山中に雪嵐に巻き込まれ、11人もの命を失った登山者グループの悲惨な実話に基づく物語だ。しかし、本作の立体効果は同山のフォルムの美しさや、あるいは壮大なさまを演出することのみに費やされているのではない。それこそ滑落すれば死に至る山のすさまじい高低差や、不気味な口をあんぐりと開けたクレバスの底知れぬ深さ。あるいは目を突き刺すようなブリザードの雪粒や、視界をさえぎる濃霧のジワジワ迫る接近感など、どの3Dも登山の危険性をいやがうえにも感じさせ、過酷な自然環境に思慮なく身を置くことへのリスクを強調する」

 わたしは、この映画を観て、商業主義の登山ビジネスに嫌悪感をおぼえたのはもちろんですが、それぞれのチームのリーダーというかガイドたちの判断力の欠如から尊い人命が奪われたことに悲しみと怒りを感じました。防ごうと思えば、防げた事故だと思います。その意味で、企業のマネジメントやリスク管理に関わる人々が観れば、いろいろ勉強になると思います。

 サンレー北陸の東孝則常務は、部下に八甲田山遭難の話をしたと聞いていますが、ぜひこの「エベレスト3D」を観てほしいものです。きっと、感じるものは多いでしょう。

 さて、エベレストといえば、2014年4月18日、ネパール人ガイドらが雪崩に巻き込まれ、12人が死亡、4人が行方不明となり、3人が負傷しました。死傷者と行方不明者の全員がネパール人でした。この事故が、エベレストで起きた過去最悪の遭難事故となりました。

 ネパール当局によると雪崩は18日早朝、エベレストの南東稜ルートで発生。ガイドらは、標高5300メートルのベースキャンプと、同6000メートル付近のキャンプ1の間で起きた雪崩に巻き込まれました。エベレスト登頂がピークを迎える5月を前に、登山者のためのテントの設営などに向かっていたといいます。

 ネパール山岳ガイド協会によると、この史上最悪の遭難事故の後、ネパール政府は、遺族1人当たり約4万2千円の補償金を支給すると決めたそうです。しかし、遺族たちは「政府は登山者から多額の登山料を徴収しているのに、補償金が少なすぎる。このままでは今シーズンの登山取りやめも辞さない」として、政府に入る登山料の一部で補償の基金設立も求めました。

 シェルパの実態を知るにつれ、理不尽な思いがします。
 「死傷者が多数出てもなおエベレストに登り続ける『シェルパ』というビジネスの実態」という記事には次のように書かれています。

「エベレストをはじめとする高い山に登頂するためには、通常の登山とは異なる特殊な対策が必要とされます。気圧が薄く、酸素が少ない状況になると普通の人は十分なパフォーマンスを発揮することができないため、そのような状況に体を慣らす高地順応と呼ばれる特殊な訓練を行い、血中の赤血球を増やして必要な酸素を体中に送り届けるためのトレーニングを行います。それでも8000メートルを超えるレベルになると、もはや人間の体は順応することが不可能であり、その場所にいるだけで徐々に死へと近づくデス・ゾーンと呼ばれているため、可能な限り短い時間で一気に山頂アタックをかけて安全なベースキャンプまで戻ってくる必要があります」

 そんなエベレストの登頂をサポートしてくれる現地人の専門スタッフがシェルパであり、経験豊かな彼らのサポートなしには登頂を成功させることができません。本来の『シェルパ』が意味するものはネパールの高地に住む少数民族の1つであり、その中でもさらに高い経験と豊富な知識を持つ者だけが、いわるゆシェルパの業務を行うことを許されます」

 続いて、「死傷者が多数出てもなおエベレストに登り続ける『シェルパ』というビジネスの実態」には以下のように書かれています。

「ネパールは世界でも非常に貧しい国の1つであり、政府は十分に機能しているとはいえない状況。そんな中、シェルパが山に登る理由は、1921年のジョージ・マロリーの一行による調査登山が行われたころから変わらず、『お金のため』となっています。

 エベレスト登頂を目指す登山客の目的はさまざまです。『挑戦』『冒険』『夢』などの理由で人々は山頂を目指しますが、シェルパにとっては『仕事』であり、貧しくて仕事の機会を得ることが難しいネパールにおいて、シェルパの仕事は高い収入を得る数少ない手段の1つ。欧米のオペレーターに雇われるシェルパの場合、わずか2か月間のシーズンだけで、ネパールの平均年収の10倍にもなる5000ポンド(約90万円)という多くのお金を得ることができるのです」

 アルピニストの野口健氏は、シェルパについて述べています。

「テレビはあまりシェルパを映したがらないんですよ。たとえば、『野口健の番組を作る』となると、野口健がエベレストに登る感動的なものを、彼らは作りたいわけですよね。そのとき、シェルパが、僕の荷物をなんでも運んでるっていうのが映っちゃうと、『なんだよ、野口健』ってなるわけじゃないですか。一緒に行ってもらってるし、荷物だって持ってもらったりしてるじゃないかと。『おまえよりシェルパの方がすごいよ』となる。そもそもシェルパの方がすごいんですからね。だからテレビからすると、シェルパはそんなに映したくないんです。登山隊側も出したくないわけですよ。俺が登ったんだ、って言いたいわけですよね」

 実際、シェルパたちは50キロくらいの荷物を背負ってエベレストの頂上まで登るのです。途中でロープや梯子をかけるのも、すべて彼らの仕事です。

 彼らは登山家と違って、満足な無線機も持たされません。経済的余裕がないからです。
 野口氏はさらに述べます。

「シェルパの存在っていうものが完全な裏方になるので、扱い方も同時に出せないんです。たとえば、隊長が悪天候の中、シェルパに『行け』って言って、シェルパが死んだとしても、隊長は社会的な責任はなんら取らされませんよ。毎年、シェルパがいっぱい死んでます。誰も知らない所で死んでいくわけです。補償は何もないしね。それで、僕は『シェルパ基金』っていうのを何年も前に作ったんです」

 「エベレスト3D」では、低体温における人間の意識の変容も部分的に描かれていました。特に、わたしが興味を抱いたのが、奇跡的に生還したベック・ウェザーズの臨死体験でした。彼は仲間たちからも置き去りにされ、朦朧とした意識の中で、家族が自分を招く姿を見たのでした。

 拙著『ロマンティック・デス~月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)にも書きましたが、登山家はよく、臨死体験に似た体験をすると言われています。世界最高のアルピニストといわれたラインホルト・メスナーは、1978年5月、高度8000メートルのエベレストのサウス・コルで時速200キロの暴風を伴う猛吹雪に襲われ、気温零下40度以下、酸素マスクなし、40時間以上睡眠をとらないという極限状況を体験しました。彼は、それ以来、登山家における死に近づく体験に関心を抱くようになったといいます。

 メスナーの著書『死の地帯』(山と渓谷社)を読むと、低酸素状況下における登山や転落や遭難の体験が、臨死体験によく似たものであることがわかります。

 メスナーは次のように述べています。

「私はここに再録する体験談を選ぶにあたって、第三者に関するプライベートな報告や記事類は省き、登攀だけに、しかも信頼できる登山家の経験だけに限った。そのどれも、ひとつとして同じ話はないし、状況も体験者のタイプもぜんぜん違っているのに、それらに共通する1本の線がはっきりと見て取れるのである。つまり、転落して死を意識した瞬間に、不安からの解放、心眼に走馬燈のように浮かぶ過去の人生、時間感覚の喪失、家族や友人への発作的な追憶、自分が自分の肉体の外にあるという感覚があるのである。
自分が自分を観察する者になるという体験は、非常な高所での極限体験の特徴でもある。さらに死の地帯においては、奇妙な物音、幻覚症状、強烈な万有一体感、囗で話す必要もないくらいのコミュニケーション能力がこれに加わる。
しかし、これらの「奇妙な体験」はすべて、転落や死の地帯で起こり得るだけでなく、天候の急変や困難な登攀箇所を乗り越えたあとやビバークの時など、他の極限状況においてもしばしばあり得るのである」(尾崎豎治訳)

 メスナーによれば、遭遇者のほとんど(おそらく95パーセント)に、教養の度合とは関係なく、多少感じ方は異なるものの、同じ現象がみられたといいます。突然の事故死に直面したほとんどすべての人に同一の精神状態が現われます。しかもそれは、それほど急激ではない死因による死の場合とは全く異なるのです。

 その特徴は以下の通りです。

 まず痛みを感じない。火事などの小さな危険の際に生じるような驚愕による萎縮もほとんどない。不安も絶望も苦痛もない。むしろ冷静な真剣さ、深いあきらめ、事に対処する精神的安定と機敏さがある。思考活動も非常に活発で、頭の回転の速さは平常の数百倍にも達する。目下の状況と、考えられるありとあらゆる結果を見通しており、精神の混乱は全くない。客観的時間が主観的にはずっと長く引き延ぼされている。電撃のごとく行動し、正しく熟考している。その後に多くの場合、自分の過去が突然よみがえるということが起こる。墜落者が最後に妙なる音楽を聞くことも多い。それから、バラ色の雲が浮かぶ麗しい青空へ落ちていく。そして、通常はどこかへ叩きつけられる瞬間に、意識が苦痛なしにふっと消える。しかし、せいぜい叩きつけられた時の衝撃音が本人の耳に聞こえるだけで、その時も痛みは全く感じない。

 メスナーは『死の地帯』で、次のような19世紀末の一大学講師の墜落体験を紹介しています。

「それから私は、すこし離れた舞台の上に、私の過ぎし全生涯が無数の映像となって繰り広げられるのを見た。私自身がその映画の主役であるのを私は見た。すべてが天国の光を浴びたように神々しかった。すべてが美しかった。苦悶も痛みも不安もなかった。とても悲しい体験の思い出もはっきりとよみがえったが、悲しくはなかった。戦いも争いもなかった。戦いも愛になったのだ。それぞれの映像を支配し、結びつけたのは、崇高・和解的な思想であった。聖なる静けさが妙なる楽の音のように私の心を通り過ぎた。バラ色や、とくに薄紫のちぎれ雲が浮かぶさわやかな青空がますます私を取り囲んだ。−−私が宙を飛び、眼の下にどこまでも雪田が続くのを見る一方、私は苦もなく、楽々と青空へ浮かび出ていた。客観的観察、思考、主観的感情、この3つが同時に並存した。それからドスンとにぶい音がして、私の墜落は終わった」(同訳)

 哲学者のウィリアム・ジェイムズは、名著『宗教的経験の諸相』において、「意識の神秘的状態」の4つの特質をあげました。すなわち、言い表わしようがないという言語表現不可能性、認識的性質、暫時性、受動性ですが、メスナーの報告する墜落体験もこれらと見事に合致しています。

  メスナーはまた、登山の過程で何度もくりかえし幻視体験を味わったことがあるといいます。心理学者の河合隼雄によれば、登山の過程における登山家の幻視体験とは、基本的に臨死体験者のそれと同じであるといいます。普通の人間なら死にかかって臨死体験をしてしまうほどに肉体が極限状態に置かれているのですが、登山家などのスポーツマンは日頃から肉体を鍛えているので、生きて歩いたりしている途中でも臨死体験と同じようなことが起こるというのです。さらに、メスナーは「そのような幻視体験のあとで、自分が一度死んだ者であるような気がしたことが何度かある――私の時間感覚が変わっていました。それは持続的な脱魂(アウト・オブ・ボディ)経験です。宇宙と一体となっているという感情もまれではない」と言っています。

 「脱魂」とは「幽体離脱」とも呼ばれ、文字通り、意識や魂と呼ばれるものが身体の外に脱け出ることです。臨死体験者のほとんど全員が報告した「体外離脱」体験もこれと同じものです。

 東京大学医学部大学院教授で東大病院救急部・集中治療部長の矢作直樹先生は、登山が趣味でしたが、何度か死にかけるという経験をしています。そして、そのとき「対外離脱」も体験されていることを、デビュー作である『人は死なない』(バジリコ)および、わたしとの対談本である『命には続きがある』(PHP研究所)で赤裸々に述べておられます。矢作氏は「山では本当に不思議な現象が起きます」と言われていました。

 エベレストには「デスゾーン」という領域があります。これは、人間が生存できないほど酸素濃度が低い高所の領域を指します。世界に14ヶ所しかない死の領域です。標高8000メートルでは、空気中の酸素濃度は地上の約3分の1となりますが、この領域が「デスゾーン」です。ここでは、もはや人体は高所順応せず、酸素が補充されるよりも早く酸素の蓄えを消費します。酸素ボンベなしでデスゾーンに長時間滞在すると身体機能の悪化や意識の低下が起こり、最終的には死に至ります。エベレストの山頂を征服する登山家10人につき1人は命を落としています。初登頂以来56年間で死者は216人、うち150人の遺体はまったく回収の目処が立っていません。ちなみに、8000メートル以上の高所では、遺体は凍結したままです。

 登山には「なぜ登るのか?」という問いがつきものです。偉大な登山家として知られるマロリーは「そこに山があるからだ」という名言を残しています。 わたし自身は登山の経験がないのでわかりませんが、登山をする人というのは「山で死んでもいい」という思いが心のどこかにあるような気がします。でなければ、あれほど危険な目にわざわざ遭いに行く理由が理解できません。月狂いのわたしが「月面で死ねたら本望」と思っているように、悲劇ではありますが、愛する山、それも世界最高峰のエベレストで死ねた人々は幸せなのかもしれません。エベレストの上方では多くの遺体がほぼ生前の姿のまま眠っています。それは、世界で最も天上に近い墓場なのです。正直、そんな場所で眠っている人々を羨ましいと思う自分がいます。

  • 販売元:NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン
  • 発売日:2016/04/22
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