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先日のブログに新藤兼人監督の「鬼婆」のことを書きました。ものすごく怖いホラー映画でした。新藤監督には、他にも「藪の中の黒猫」というホラー映画があります。 今日は、そのDVDを観ました。
「鬼婆」はとにかく怖い映画でしたが、「藪の中の黒猫」は怖いというより哀しい映画という印象でした。そして、「鬼婆」もそうでしたが、「藪の中の黒猫」も幻想的で美しい作品でした。乙羽信子が舞うシーンなどは、能そのものです。
わたしは、もともと能に関心があります。 能は「老い」と「死」の演劇です。 死者と生者のコミュニケーションの物語です。老いとは何か、死とは何かについて考えさせられる哲学的な芸術なのです。
室町時代の世阿弥は、「夢幻能」を完全な形に練り上げ、多くの名作を残しました。夢幻能を観る者は、自分がまるで生と死のあいだの幽明境に在るかのような不思議な感覚にとらわれます。そんな 夢幻能を思わせる魅力を「鬼婆」も「藪の中の黒猫」も持っています。
考えてみると、黒澤明の「羅生門」や「蜘蛛の巣城」なども夢幻能に通じるホラー映画と言えるかもしれません。その「羅生門」と同じ平安中期の京の都が「藪の中の黒猫」の舞台です。戦禍に荒れた時代です。
戦に取られたまま戻らない息子を待つ母と嫁が一軒の藪の中の家に住んでいます。 そこを野武士の集団が襲い、二人を殺して、家に火を放ちます。焼け跡には遺体に寄り添う黒猫の姿がありました。そして、夜な夜な羅生門ならぬ「羅城門」に若い女が立ち、彼女に招かれた武士たちが次々に怪死するのです。
そうです。殺された二人の怨霊が黒猫に乗り移り、猫が人間に化けていたのです。
わたしが監修した『世界の幻獣エンサイクロぺディア』(講談社)にも書いてありますが、「猫」は日本を代表する幻獣です。「化け猫」として知られていますが、化け猫がなす怪異はじつにさまざまです。人間に変身し手ぬぐいをかぶって踊る、人語をしゃべる、山に棲んで狼を従えて旅人を襲う、祟りをなす、死体を操る、人に憑く、変わったところでは人と相撲を取る、などがあります。
また、化け猫は老婆に化けるパターンが多いです。これは歳をとった飼い猫が老婆に化けるとも、老婆を喰い殺すため老婆になるともいわれます。
「鍋島の猫騒動」に代表されるように、日本人は化け猫が出てくる怪談が好きですね。
一方、西洋人はエドガー・アラン・ポーの作品にもあるように「黒猫」の怪談を好みます。
この「藪の中の黒猫」は、日本の「化け猫」と西洋の「黒猫」が合体した複合怪談という要素があると思いました。
ところで、幻獣の話をもう少し続けるなら、「藪の中の黒猫」には武士の大将として有名な源頼光が登場します。足利山の金太郎が成長した坂田金時の親分ですね。
その頼光は、大江山に棲む鬼の大将「酒呑童子」を退治したことで名を高め、帝からも一目置かれます。しかし、映画の中で頼光は次のようなセリフを吐くのです。
「本当は、酒呑童子というのはただの山賊だった。しかし、山賊を討ったといっても様にならぬから、鬼の大将だったことにしたのじゃ」
もちろん、この映画自体がフィクションですが、意外と幻獣の伝説が生まれた背景には、頼光のセリフのような真実があったのかもしれません。
その意味でも面白かったです。
そして、「藪の中の黒猫」にしろ「鬼婆」にしろ、心に残ったのは社会の底辺に生きる庶民が生きていくことの困難さでした。
戦を行えば、貴族や武士は潤うかもしれませんは、農民たちはいつも逃げ惑い、家を焼かれ、食いつめる運命にあります。
現役最年長の映画監督である新藤兼人の視線は、あらゆるジャンルの作品を通じて、いつも庶民の哀しみに向けられています。そして、その最大の成果こそ、究極の名作「裸の島」だったのではないでしょうか。
こうなったら、もう一度、「裸の島」を観直してみたくなりました。