No.0040
11日(土)から全国公開された日本映画「ノルウェイの森」を観ました。
北九州市のチャチャタウン内にある「シネプレックス小倉」の最終回上演で観ました。 21時半のからの上映で、終わったのは日付が変わる直前でした。
この作品は、言うまでもなく、1987年に刊行された村上春樹の最高傑作『ノルウェイの森』の映画化です。原作は、国内小説発行部数歴代1位の超ベストセラーなのです。
監督は、ヴェトナム生まれでフランスに亡命したトラン・アン・ユンです。
彼の代表作「青いパパイヤの香り」や「夏至」といった作品と同様に、この「ノルウェイの森」もフランス映画のようで、アンニュイなムードに溢れていました。
物語は、1970年代初頭、若者の「愛と性」、そして「生と死」を描いています。
主人公ワタナベは親友のキズキを自殺で失った後、東京で大学生活をスタートします。
ある日、キズキの恋人だった直子と再会したワタナベは彼女に恋をします。
しかし、直子は心を病み、京都の山中にある病院に入院してしまいます。
またワタナベは、大学のキャンパスで出会った同級生の緑にも好意を抱くのでした。
松山ケンイチがワタナベを、高良健吾がキズキを、菊地凛子が直子を、そして水原希子が緑を演じました。わたしとしては、女性2人の配役はあまりピンときませんでしたが、主役の松山ケンイチの素晴らしい演技がすべてを救ってくれました。
また、永沢さん役の玉山鉄二と、その恋人ハツミを演じた初音映莉子、レイコさんを演じた霧島れいかも良かったですね。
細野晴臣、高橋幸宏、糸井重里らがチョイ役で出演しており、その遊び心は楽しませてもらいました。欲を言うなら、YMOの2人が出ていたわけですから、もう1人の坂本龍一にも登場して欲しかったですね。
鎌田東二さんと大変親しく共著もある細野晴臣さんは、ワタナベがアルバイトで働くレコード店の店主役でしたが、ものすごく良い味を出していました。
レコードといえば、この映画のパンフレットはLPレコードを模した非常に芸術性が高いもので、思わず買ってしまいました。映画パンフレットの大傑作だと思います。
LPレコードを模した映画パンフレット
この映画のネットなどでの評価は必ずしも高いとは言えませんが、わたしは深遠な村上春樹ワールドを忠実に再現していると思いました。
しかし、それだけに映画としては重くなり、一般受けはしないかもしれません。
とにかく、この映画には「死」の気配が強く漂っています。
拙著『ご先祖さまとのつきあい方』(双葉新書)の「生命の輪は廻る~あとがきに代えて」にも書きましたが、もともと村上春樹の文学には、つねに死の影が漂っています。
彼の作品にはおびただしい「死」が、そして多くの「死者」が出てくるのです。
哲学者の内田樹氏は『村上春樹にご用心』(ARTES)の中で、「およそ文学の世界で歴史的名声を博したものの過半は『死者から受ける影響』を扱っている。文学史はあまり語りたがらないが、これはほんとうのことである」と述べています。
そして、近いところでは村上春樹のほぼ全作品が「幽霊」話であるというのです。
もっとも村上作品には「幽霊が出る」場合と「人間が消える」場合と二種類ありますが、これは機能的には同じことであるというのです。このような「幽霊」文学を作り続けてゆく村上氏の心には、おそらく「死者との共生」という意識が強くあるのでしょう。
そして、この映画は「愛する人を亡くした人」の心を描いた作品でもあります。
直子も、緑も、そしてワタナベ自身も、「愛する人を亡くした人」でした。
その物語は、まさに拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)の世界でした。
愛する人を亡くしたとき、その人の心は不安定に揺れ動きます。しかし、そこに儀式というしっかりした「かたち」のあるものが押し当てられると、不安が癒されていきます。親しい人間が死去する。その人が消えていくことによる、これからの不安。
残された人は、このような不安を抱えて数日間を過ごさなければなりません。
心が動揺していて矛盾を抱えているとき、この心に儀式のようなきちんとまとまった「かたち」を与えないと、人間の心にはいつまでたっても不安や執着が残るのです。この不安や執着は、残された人の精神を壊しかねない、非常に危険な力を持っています。
まさに、この「ノルウェイの森」の直子の精神が壊されてしまったように。
この危険な時期を乗り越えるためには、動揺して不安を抱え込んでいる心に、ひとつの「かたち」を与えることが求められます。
まさに、葬儀を行う最大の意味はここにあります。
そして、このテーマは、村上文学の最新刊『1Q84』BOOK3の内容へと直結します。
この作品では、主人公の1人である天吾の父親が亡くなります。
彼の父親は、生前、NHKの集金人をしていました。
そして、棺に入るときにはその制服を着せてほしいと遺言します。
天吾は、とまどいながらも、父の希望をかなえてあげます。
父親の葬儀は通夜も告別式もない、そのまま火葬場へ直行する「直葬」です。
火葬に立ち会う人間も、息子である彼1人だけ。
そこへ、病床の父を介護した若い看護婦である安達クミが付き添ってくれます。
これで父を送る「おくりびと」は2人になりました。
「一緒に来てくれてありがとう」と礼を述べる天吾に対して、安達クミは、「一人だとやっぱりきついからね。誰かがそばにいた方がいい。そういうものだよ」と答えます。
「そういうものかもしれないな」と認めた天吾に、安達クミは次のように言うのです。
「人が一人死ぬというのは、どんな事情があるにせよ大変なことなんだよ。この世界に穴がひとつぽっかり開いてしまうわけだから。それに対して私たちは正しく敬意を払わなくちゃならない。そうしないと穴はうまく塞がらなくなってしまう」
この言葉は、わたしがいつも言っていることと同じだったので、本当にびっくりしました。
世界にぽっかりと開いた穴に落ちないための方法、それこそが「葬式」と呼ばれるものなのです。人類は、気の遠くなるほど長い時間をかけて、この「葬式」という穴に落ちないための方法を守ってきました。
「ノルウェイの森」に登場する直子は、不幸にも世界に開いた穴に落ちた人なのです。
直子が最愛の恋人キズキの葬儀に参列したかどうかは小説にも映画にも描かれていませんが、わたしはきっと参列しなかったのではないかと思います。その直子が自殺したとき、れいかさんはワタナベの部屋でギターで「ノルウェイの森」を演奏します。
これこそは、2人にとっての直子の葬儀だったのです。
この場面は原作のみで映画には登場しませんでしたが、本当はとても大事なシーンでした。このシーンがあればこそ、次にれいこさんとワタナベが抱き合うのも自然な流れとなったのでに、映画でカットされたのは残念でしたね。いずれにせよ、2人は自分たちなりの葬儀を行ったために、穴に落ちなくてすんだのです。
そして、「お葬式なんて大嫌い!」と言いながらも、遺された姉とともに父親の葬儀をきちんとあげた緑も穴に落ちなかった人でした。。
緑といえば、映画のラストシーンで、ワタナベは直子を喪った悲しみから立ち直り、緑に電話をかけます。そして、「緑、君と話がしたいんだ」と言うのです。
このセリフ、どこかで聞いたことがあるように思ったら、わたしが学生時代に交際していた恋人に言ったセリフと同じでした。そう、わたしの妻の名は緑というのであります!
わが妻の緑と初めて出会った早稲田大学のキャンパスも映画にたくさん登場して、とても懐かしかったです。なんだか大学時代に戻ったような気分でした。
主題歌はもちろんザ・ビートルズの「ノルウェイの森」です。
改めて聴くと、しみじみとしてくる名曲ですね。
本当は、妻と一緒に、この映画を観たかったなと思いました。