No.0047
映画「ヒア アフター」を観ました。
80歳を迎えた巨匠クリント・イーストウッド監督の最新作で、製作総指揮はスティーブン・スピルバーグです。「硫黄島からの手紙」以来の黄金タッグが実現しました。
題名には「来世(死後の世界)」と「今後」という2つの意味があります。
この作品は、死と生をめぐる感動的なストーリーをつづるヒューマン・ドラマです。
わたしが日頃から考えていることがテーマだったので、非常に興味深く観ました。
バカンス先で巻き込まれた津波によって臨死体験をし、不思議なヴィジョンを見てしまったフランス人のマリー。霊能力者として比類のない才能を持ちながら、それを封印して生きているアメリカ人のジョージ。不幸な事故で亡くなった双子の兄と再会したいイギリスの少年マーカス。死を身近で体験した3人の登場人物が悩み苦しみながら生と向き合う姿が描かれています。
死に取りつかれた3人の人生がロンドンで交錯するラストシーンは感動的です。
何よりもラストの舞台がパリでもサンフランシスコでもなく、ロンドンというのが「この映画にふさわしいなあ」と思いました。なぜなら、ロンドンは世界のスピリチュアリズム(心霊主義)の中心地だからです。
ネタバレになるといけないので、詳しいストーリーは控えておきましょう。
イーストウッド監督がこの映画に込めたメッセージは、「どの人生も結論にたどり着くとは限らない」ということだそうです。
マット・ディモン演じるジョージが死者と会話をする場面は、少し前に日本のマスメディアの寵児となっていた某スピリチュアルカウンセラーの霊視を彷彿とさせました。
おそらく、この映画がスピリチュアル・ブームに沸いていた3~4年前に日本上陸していたら、大ヒット間違いなしだったと思います。
スピリチュアル・ブームが過ぎ去った後で、日本公開のタイミングがベストではなかったとしても、この映画は「人は死んだらどうなるか」「人は死んだらどこに行くのか」という人類普遍のテーマを正面から描いた名作であると思います。
では、監督のイーストウッドは「死後の世界」を信じているのでしょうか。
彼は、「スポーツ報知」の平辻哲也記者に対して、次のように語っています。
「死後の世界があるかどうかはわからないね。でも、すごくたくさんの人たちが信じている。死後の世界はある方がいい。死んでまったくゼロになってしまうよりも、ね」
また、映画パンフレットに掲載されている監督インタビューで、「死を身近に感じたことはありますか?」という質問に対して、イーストウッドは次のように答えています。
「みんな経験あると思うよ。私は4~5歳の頃、父に肩車をしてもらいながら海に入ったことがある。ところがその時、父の肩から落ちてしまい、波にのまれた。水面下での水の色などを覚えているよ。また、21歳の時にカリフォルニアの北部で乗った飛行機が冬の海に不時着したこともあったな。飛行機が下降していく最中は、『これは死を覚悟すべきか?』と考えたね。でも、遠くの方の街の光を見ながら頭の中に浮かんだのは、『きっとみんな暖炉で火に当たりながらビールでも飲んでいるんだろうな。ああ、僕もそこにいたい』ということだった(笑)。だから何としてでも生き抜いてやるぞ、とね」
「この作品は、死後の世界を信じるか否か、あるいは臨死体験の記憶があるか否かに関係なく、誰だって1度は考えたことのある問題について触れている。私自身は、もしそういう世界があるならすばらしいことだと思う。それは誰にも分からないことだからこそね」
この映画の冒頭で臨死体験をし、後に『ヒア アフター』という死後の世界についての本を書くマリーという女性ジャーナリストは、1983年に世界的ベストセラー『アウト・オン・ア・リム』を書いた女優のシャーリー・マクレーンを連想させます。
そのマリーは、ホスピスで死にゆく人々に接しているルソー博士という女性に会いに行きますが、このルソーのモデルは明らかにエリザベス・キューブラー・ロスでしょう。
ロスは、人間の死の問題を直視し、これに生涯をかけて取り組んだスイス生まれの女性精神科医です。死に際しての心理学的問題に関心を抱いていました。
彼女は世界的ベストセラーになった著書『死ぬ瞬間』の中で、死に直面した人間の態度には、「否認」、「怒り」、「取り引き」、「抑うつ」、「受容」という5つの段階があるとし、さらに後年に第6段階としての「希望」があると述べました。
ロスと並んで、「死」の問題を直視し、それを追及した人物にレイモンド・ムーディーがいます。アメリカの哲学博士および医学博士です。
1960年代半ば、ロスが死の研究をはじめた頃、ヴァージニア大学の若き哲学者ムーディーは臨死体験の記録を集めはじめました。臨死体験とは、医師から死の宣告を受けたにもかかわらず、奇跡的に生き返った人の体験です。
ムーディーは11年間、臨死体験記録を集め続けましたが、他にも同じような研究をしているロスという人物の名前も知りませんでした。
ノースカロライナ東部の大学で哲学を教えた後、ムーディーは自分は医者になるべきだと考えました。そして、医学の学位を取りました。その間に収集した臨死体験談は150ほどになりましたが、それらにはすべて基本的な共通点があったのです。
非常な衝撃を受けた彼は、『かいまみた死後の世界』という本を著しました。 編集者からその校正刷を送られたキューブラー・ロスは、自分も同じような本を書きたかったのだと打ち明けたそうです。
『かいまみた死後の世界』は1977年に出版され、全米でベストセラーとなりました。 この研究によって臨死体験ははじめてオカルトや宗教的な現象としてではなく、哲学、心理学、医学の研究対象としてみなされるようになったのです。
この本が出版される前は、死に関する話題はアメリカでもタブーでした。
多くの医師は、臨死体験を患者の精神異常による幻覚として片付けてしまうのが実状だったのです。したがって患者は珍しい体験をしても、それを医師に話すような雰囲気ではなかったのです。しかし、ムーディーの開拓的な研究によって、そのような状況も変化しました。この本にあげられた事例のすべてには驚くほどの共通点が見られますが、ムーディーはさらにその後の調査をまとめた著書『続かいまみた死後の世界』において、臨死体験の一般的次のように13の項目にまとめました。
1人の男性が死に近づいています。肉体的苦痛が頂点に達したとき、
①医師が自分の臨終を宣告するのを聞きます。
②耳障りな音が聞こえはじめます。その音はワァーンという大音響だったり、ブーンとうなるような音だったり、さまざまです。
③同時に、長いトンネルの中をすごいスピードで通り抜けていくような感覚があります。このトンネルを抜けると、
④突然、自分が自分自身の物理的肉体を遊離したのがわかります。しかし、まだ自分の物理的肉体のすぐ近くにいます。一人の傍観者として、みんなが自分を生き返らせようと動き回っているのを見ます。
すぐに気持ちも平静になり、この奇妙な状態に慣れてきます。自分の「身体」はあるのですが、これは先刻脱け出てきた「身体」とは異なった性質のものであり、異なった力を備えるものです。間もなく、新しい局面が展開しはじめます。
⑤他者に出会うのです。すでに他界している親類や友人もいます。
⑥そして、今まで会ったこともないような、愛と暖かさにあふれる霊的存在、すなわち「光の生命」が出現します。
⑦「光の生命」は自分の生涯の主な出来事をフラッシュ・バックし、質問を発します。もちろん、物理的音声を用いてではありません。
⑧ある時点で、明らかに「この世」と「あの世」との分岐点となっている境界、あるいは限界に近づきますが、自分はまだ死ぬときではないことに気づきます。
⑨ここで、完全な喜び、愛、平和に包まれていたい、物理的肉体に戻りたくないと抵抗します。しかし、
⑩結局は物理的肉体に戻って、蘇生します。
⑪この体験を他人に話そうとするのですが、それはたやすいことではありません。
⑫まず、この世のものではないものを表現する、適当な言葉がないのです。そのうえ、この話をして、人の笑いの種にもなりたくありません。
⑬しかし、この体験は、その後の自分の人生に大きな影響を及ぼします。とくに死について、また、死と人生との関わり合いについて、以前とはまったく別の見方をするようになりました。
ムーディーは著書『続・かいまみた死後の世界』で、前作にはなかった臨死体験パターンの新しい事実として「全知全能感」「光あふれる場所」「さまよう霊魂」「超自然の救い主」の4点が発見されたことを報告しています。
その中でとくに「全知全能感」すなわち、宇宙の本質を一瞬にして洞察するという体験が注目されます。ムーディーは臨死体験の際に全知全能感があったという一人の女性から次のような話を聞き出しました。
「自分の生涯のフラッシュ・バックを見たあとだったように思います。突然、あらゆる全知識―この世の初めから未来永劫に続く全知識―を掌握したように思えました。一瞬にして、全時代のあらゆる秘密、宇宙、星や月、ありとあらゆるものの持つ意味を悟ったのです。しかし、わたしが物理的肉体に戻ると決めると、この知識は消え失せ、今は何ひとつ思い出せないのです」
わたしたちは死ぬとき、ルドルフ・シュタイナーなどの神秘主義者たちが「アーカシック・レコード」と呼んだ全宇宙のデータベースを解読し、ムーディーの被験者の女性のように「ありとあらゆるものの持つ意味」を悟ることができるのでしょうか。古代ギリシャの哲学者プラトンは「知るということは、思い出すということである」という言葉を残しています。 わたしたちは、この世に生まれてくる前、すべてを知っており、母親の胎内に宿った瞬間、それを忘れてしまうのかもしれません。この世での一生とは、その忘れてしまった全宇宙の秘密を思い出していく旅だという見方もできるのです。
そして、臨死体験とは、古来からの宗教者などによる「神秘体験」や、宇宙飛行士たちの「宇宙体験」にも通じます。宇宙飛行士たちは、宇宙から地球を見ました。
この行為は、神秘体験者や臨死体験者にも共通しています。
臨死体験者たちの中には、身体から魂が脱け出し、宇宙空間へ飛び出して地球を見たという者がかなりいます。そう、宇宙船が重力をつきぬけて地球から宇宙へ出てゆくという現象は、いわゆる幽体離脱なのです。
臨死体験者たちが、まるで透視力を持ったかのように頭が明晰になったり、光を見たりするといった報告も多いですが、これも神秘体験および宇宙体験のケースと共通しています。つまり、臨死体験とは、神秘体験であり、宇宙体験なのです。
そして、それらはすべて、重力からの脱出にもとづく体験なのです。
亡くなった人は、物理的肉体の死によって、地球の重力から脱出し、宇宙空間を自在に飛び回っていることでしょう。死者は、どこまでも自由なのです。
以上のような「死」と「死後」についての考えを、わたしは『ロマンティック・デス~月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)、『愛する人を亡くした人へ~悲しみを癒す15通の手紙』(現代書林)に書きました。
この2冊は多くの方々から読まれ、手紙などもたくさん頂戴しました。
「この本を読んで救われました」という感想も多く、著者冥利につきました。
この2冊を書いたことで、多くの読者の方々と「こころの交流」ができました。
映画「ヒア・アフター」の最後は、「ロンドン・ブックフェア」が舞台となっています。
そこで本の著者と読者との素敵な交流が描かれています。
わたしは、この場面を観て、たいへん感動しました。著者と読者との交流とは、死者と生者との交流とまったく同じであることに気づいたからです。
「ヒア アフター」について書いた2冊
『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)にも書いたように、本の著者は生きている人だけとは限りません。古典の著者は基本的に亡くなっています。つまり、死者ですね。死者が書いた本を読むという行為は、じつは死者と会話しているのと同じことです。
わたしは、よく、「読書とは交霊術だ」という言い方をします。
実際、きわめてスピリチュアルな行為が読書なのですね。
わたしは、三島由紀夫の小説を読むときは「盾の会」の制服を着た三島が、小林秀雄の評論を読むときは仕立ての良いスーツを着た小林が目の前にいることを想像します。
古代の人でも同じです。『論語』を読むときは古代中国の礼服を身につけた孔子が、プラトンの哲学書を読むときは古代ギリシャのローブ姿のプラトンが、わたしの目の前に座って、わたしだけのために話してくれるシチュエーションを具体的にイメージするのです。
そこには、死者との「心の交流」があり、「魂のつながり」があるのです。
1980年代に空前の精神世界ブームを巻き起こした『アウト・オン・ア・リム』のメインテーマは「偶然は必然である」というものでした。
その意味では、この「ヒア アフター」にも同じテーマが確かに存在します。
ラストシーンでは、ある2人の登場人物が抱き合う場面が登場します。
これも「必然」なのでしょうが、正直、このシーンは唐突な印象で、違和感がありました。 でも、この映画を観て、わたしは非常に満足しました。「葬儀」というネアンデルタール人以来の営みと同じく、「読書」とは死者儀礼でもあることを再確認できたからです。