No.0046
話題の映画「ソーシャル・ネットワーク」を観ました。
ゴールデングローブ賞の最優秀作品賞を含む4冠に輝いた作品です。
最初にイメージしていた内容とは違いましたが、非常に考えさせられるところの多い映画でした。日本における有縁社会の再生を考える上でもヒントがありました。
この作品は、「フェイスブック」誕生の物語です。
フェイスブックは、世界最大のソーシャル・ネットワーキング・サービスです。
ユーザーは全世界で5億人を超え、時価総額は2兆円を超えます。
わたしは、この映画を観る前からフェイスブックというものに大変興味を抱いていました。
自分は利用していませんが、聞くところによると、フェイスブックは「実名主義」だとか。
この「実名主義」というところが画期的であると感じました。匿名で個人や企業などを誹謗中傷する行為は卑怯千万であり、ネットの最も暗い部分です。その悪しき「匿名主義」をフェイスブックが駆逐してくれるのではないかと期待したのです。
実際、フェイスブックの躍進で、グーグルが存亡の危機にあるという人もいます。
実名に基づく情報は当然ながら信用性が高く、怪しい匿名ブログの類まで検索で拾ってしまうグーグルの信用性は低いからです。
ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)は、誰でも簡単に利用できて、親密な人間関係を築く手伝いをしてくれるということで急成長したウェブサービスです。
「フェイスブック」をはじめ、海外では「フレンドスター」、「マイスペース」などが、日本では「mixi」、「GREE」、「モバゲータウン」などが有名です。
映画パンフレットで、メディア評論家の荻上チキ氏は次のように述べています。
「人々がインターネットに求めていた最大のコンテンツは、コミュニケーションそのものだった。昨今のtwitterの流行も、ますます『つながることへの欲望』に拍車をかけている。賢しげに『人間関係の希薄化』を危ぶむ声とは裏腹に、インターネットがつなげてきた人々の数は底知れない。インターネットはわずか数年の間に、『現実ではない仮想世界』ではなく『現実を補完する拡張世界』の地位を獲得した。つながりを可視化し、補強してくれる道具としてのインターネットは、これからもこの社会を絶えず拡張していくのだ」 しかし、「インターネットがつなげてきた人々の数は底知れない」のも事実でしょうが、それに過剰に期待することもまた危険であると思います。
というのは、「隣人祭り」が起こる直前のフランスでは、SNSが国家的事業として推進されていたそうです。このサービスがフランスで大流行した反動で、リアルな対人コミュニケーションが激減しました。そして、孤独死が爆発的に増えたため、社会的要請において隣人祭りが生まれたという歴史的事実があるのです。
ITが進歩するばかりでは人類の心は悲鳴をあげて狂ってしまいます。
そんなことを痛感する事件が、日本でも起きました。
ブログ「家族とインターネット」に書いたように、2010年4月17日の午前2時すぎに愛知県豊川市に住む30歳の無職男性が、寝ている両親および弟家族のあわせて5人を包丁で刺した上に放火しました。焼け跡から、父親と1歳の女児の2人の遺体が見つかりました。母親と弟夫婦もけがをしましたが、1人は重症でした。
何より衝撃的だったのは、調べに対して容疑者の男性が、「インターネットの契約を家族に解約された」と思い込んで5人を刺したと供述したことです。
まさか、インターネットのために家族を殺そうとするとは!
この容疑者は、何を目的にインターネットの契約をしていたのでしょうか。
彼はいわゆる「引きこもり」状態だったようですが、SNSやブログやツイッターで誰かとつながっていたのでしょうか。
いくらウェブでつながっても、それはしょせんバーチャルな人間関係でしかありません。そして、リアルな人間関係の最たるものが「家族」です。
バーチャルのためにリアルを消そうとするとは!
まったく空恐ろしい時代になったものだと感じますが、それ以上にこの事件はバーチャルな世界が肥大化する現代社会を浮き彫りにする象徴的な事件であると思います。
ちなみに、わたしの本業である冠婚葬祭はバーチャルを超えたリアルな営みです。
この映画の主人公であり、フェイスブックを創設したマーク・ザッカーバーグも、どうもバーチャルな世界とリアルな世界との距離感をつかむのが苦手なようです。
この映画はマークがフェイスブックを立ち上げるまでと、その後の2つの裁判を通して、フェイスブックの大成功の裏側にある泥臭い人間ドラマを描いています。
マークにアイデアを盗用されたというハーバード大学のエリート・ウィンクルボス兄弟、マークに裏切られたという創業時の共同経営者エドゥアルド・サベリンの怒りは、そのままマーク自身の悲しみへとつながっています。
いくら最年少の億万長者になれたとしても、友人たちに次々に恨まれ、告訴される人生が幸福であるはずがありません。
よく、やり手の経営者の中には、いくつもの訴訟を抱えている人がいます。
それも、原告ではなく、被告としてです。それでも、「結局は儲けたほうが勝ち」とか「勝てば官軍」といった価値観を持っている人が多いようです。
たとえ裁判で負けて多額の賠償金を支払ったとしても、儲けた利益のほうが多ければそれで良いのだという確信犯的な考え方をする者さえいます。
わたしは「正しいことをしないと損をする」と信じていますので、裁判で負けても儲ければ勝ちとは思いません。その後、必ずシッペ返しを食らって、その人間は転落すると思います。なぜなら、その人物はビジネスにおいて最も必要な「信用」を失うからです。
実際、過去にそのような実例は無数にあります。
そして、マーク・ザッカーバーグも、2つの裁判を起こしたウィンクルボス兄弟とエドゥアルド・サベリンに巨額の和解金を支払ったのでした。
現実との距離感がつかめないマークの姿は、映画の冒頭から登場します。
高校時代から腕利きのハッカーだった彼は、そのオタクぶりが災いしてか、人づきあいが大の苦手だったそうです。
ハーバード大学コンピューターサイエンス専攻2年生のとき、ガールフレンドのエリカに無神経な言葉を吐いたために、彼女にフラれてしまいます。
寮に戻った彼は、ビールを飲みながら腹いせにブログに彼女の悪口を書きます。
そして、失恋の痛手を癒すために、新しく夢中になれるものを見つけ出します。
それは、ハーバード中の寮の名簿をハッキングし、女子学生たちの写真を並べて品定めをし、さらにはランク付けするという悪趣味なサイトを作る作業でした。このサイトは「フェイスマッシュ」と名づけられ、わずか2時間で22000アクセスに達しました。
マークの名は、「天才ハッカー」として、「大学のセキュリティシステムを愚弄した反逆者」として、「全女子大生を敵に回した変人」として、ハーバード中に知れ渡ります。
彼の作ったフェイスマッシュが多くの人々の心を傷つけたことは言うまでもありません。 そして、ブログに悪口を書いたエリカの心も深く傷つけました
この映画を監督したデヴィッド・フィンチャーは、主人公のマークについて、映画パンフレットで次のように述べています。
「マークの目的は自分の夢を完全に実現することだった。その夢とは、現実ではできない形で世界とつながることを可能にする装置を作ることだ。マークがアスペルガー症候群のボーダーラインにいることや、彼の広報活動のひどさについてはよく語られる。でも彼のような社会的スキルの持ち主がフェイスブックの誕生には必要だったんだと思う。フェイスブックのような道具は、人とコミュニケーションをとることの難しさを理解している人間がスタートしなければならないんだ」
わたしは、このフィンチャーの発言は卓見だと思います。
また、マークの出発点がハッカーであった点について、荻上氏はこう述べます。
「ハッカー達の営みは、インターネット世界の中だけ、サーバーやモニターの中だけに影響を与えるものではない。彼らが創り上げてきた様々なプログラムやサービスは、この社会そのものをハックしている。ザッカーバーグのフェイスブックは、人間関係をハックし、大きな変化をもたらした。こうした現実を前にした私達は、『この社会を変えた張本人は、いったい何者なのか』という、ジャーナリスティックな関心を通じて本作へと向き合わせる」
たしかに、インターネットは社会を変えました。
そして、その社会をハッカーたちは変えているというのです。
「フェイスブックは、人間関係をハックし、大きな変化をもたらした」という言葉は、大きなヒントを与えてくれます。わたしは、隣人祭りを中心とした隣人交流イベントの開催によって、人間関係をハックせずに、社会を良い方向へ変化させたいと考えています。
でも、SNSと隣人祭りはけっして対立するものではありません。
ともに、めざすものは「人と人とのつながり」のはずです。
つまり、SNSも隣人祭りも相互補完の関係になるべきでしょう。
わたしは、この映画における現実世界の描き方に感心しました。
2つの裁判が舞台となり、さまざまな場面がフラッシュバックしますが、マーク、ウィンクルボス兄弟、サベリン、この3者の視点を異なる真実のバージョンを別々に見せるという手法を取りませんでした。つまり、黒澤明監督の「羅生門」や中島哲也監督の「告白」のような日本映画の演出とは一線を画したのです。
そうではなく、全員が顔をつき合わせる宣誓供述の場で真実を語らせているのです。
これは、「実際に会って話し会わないと真実は見えてこない」というメッセージのように思えました。ある意味で、SNSに対する強烈なアンチテーゼです。
人間のフェイス(顔)というものはインターネットのサイトに掲載するためではなく、実際に人と人とが突き合わせるためのものなのです。
しかし、全世界で5億人の人々がフェイスブックの恩恵を受け、友人を増やしていることも事実です。これは「コンピューター・オタクの怪我の功名」なのでしょうか。それとも、人づきあいに悩み抜いた天才が考え出した、「つながりのユートピア」なのでしょうか。
マークは極度のマスコミ嫌いで取材を受けないそうなので、その真意はわかりません。
でも、わたしはマーク・ザッカーバーグという若者に強い興味を抱きました。
これからも、彼の「こころ」を見つめていきたいと思います。