No.0057
アニメ映画「コクリコ坂から」を観ました。
スタジオジブリの新作で、宮崎吾朗監督の作品です。
監督の父である宮崎駿氏が企画・脚本を手掛けています。
吾朗監督のデビュー作「ゲド戦記」は、厳しい評価が多く寄せられました。
しかし、この「コクリコ坂から」は、なかなか心に沁みる佳作でした。
足を骨折して以来、久々に訪れた映画館でした。
横浜に住んでいる長女と待ち合わせました。
ようやく大学の前期試験を終えた長女と一緒に観たのが「コクリコ坂から」でした。
わたしたちは、親子揃ってジブリ映画の大ファンなのです。
わたしは「となりのトトロ」や「魔女の宅急便」が大好きですが、長女は「猫の恩返し」の大ファンで、「ゲド戦記」もなかなか気に入ったそうです。
ジブリ映画といえば、とにかくファンタジーものが多いことで知られますが、この「コクリコ坂から」ではファンタジックな要素は一切ありません。
時代は東京オリンピックの開催を目前に控えた高度成長期、舞台は横浜のある高校。 その高校では、通称"カルチェラタン"と呼ばれる古い建物を取り壊すべきか、保存すべきかで論争が起きていました。そんな騒ぎの中で2人の高校生、16歳の少女・海と17歳の少年・俊が出会い、次第に心を通わせるようになります。
海の父親は船乗りでしたが、朝鮮戦争で沈められ、帰らぬ人となりました。
その帰らぬ父を待つ海は、遠い水平線を見つめ続けます。そして、横浜港を見下ろす丘の上の古い洋館「コクリコ荘」の庭で毎朝、信号旗をあげるのです。
その旗には、「U・W(安全な航行を祈る)」と記されていました。
そんな海と、彼女をやさしく見守る俊の2人を中心に、ピュアな高校生たちの青春をさわやかに描いた作品です。海の声は長澤まさみ、俊の声は岡田准一が担当しています。
映画パンフレットの冒頭には、次のようなコピーが書かれています。
「1963年5月、横浜。
少女よ、君は旗をあげる。なぜ。
少年は海からやって来る。
ふたりはまっすぐに進む。 心中もしない、恋もあきらめない。
自分たちの出生に疑問を抱く
ふたりの暗い青春の悩み!
戦争と戦後の混乱期の中で、
ふたりの親たちがどう出会い、
愛し、生きたかを知っていく。
人はいつも矛盾の中で生きている。
人間への絶望と信頼。
その狭間で人は生きている。
上を向いて歩こう。
吾、朗らか。この夏、
ジブリとゴローが
"親子二世代にわたる青春"を描く!」
なんだか宮崎駿氏の思い入れがたっぷり入ったような文章だと思いました。
もしかすると御本人が書かれたのでしょうか。いずれにせよ、「吾朗」という名前には「吾、朗らか」であってほしいという親の願いが込められていたのですね。
文中には、「上を向いて歩こう」という言葉も出てきます。
ブログ「上を向いて歩こう」で紹介した奇跡の名曲は1961年にリリースされ、この映画の物語の63年には世界中で大ヒットしました。
ちなみに、わたしが生まれたのも1963年の5月で、まさに映画の時代にドンピシャリ! 1963年という年は、東京都内からカワセミが姿を消し、学級の中で共通するアダ名が消えた時期だそうです。宮崎駿氏は、この時期について「貧乏だが希望だけがあった」と述べています。映画では白黒テレビのブラウン管の中で、アニメになった坂本九が「上を向いて歩こう」を歌っていました。
この「コクリコ坂から」の原作は、1980年頃に『なかよし』に連載された少女漫画です。 道理で、「耳をすませば」に似ていると思いました。
「耳をすませば」も、わたしの大好きなジブリ作品の1つです。
「コクリコ坂から」の原作者は男性ですが、明らかに70年代の経験を引きずっており、宮崎駿氏によれば「学園紛争や大衆蔑視が敷き込まれている」印象です。
古い建物を保存しようと訴えることは良いことですが、校内討論会の最中に俊が反対意見を壇上で述べている生徒の発言を遮って立ち上がり「ナ~ンセンス!」と叫んで、壇上に駆け上がる場面などは正直言って不快でした。その発言を妨害された生徒が言ったように、明らかな「ルール違反」であり、主義主張などを遥かに超えてルールというものは重要なはずです。わたしは、こういったルール無視を青春のシンボルとしてとらえることこそ「ナンセンス」だと思いました。
しかし、生徒会長、俊、海の3人が、カルチェラタンの保存を直訴するために、学園の理事長である会社社長を東京まで訪ねていくシーンは良かったです。
なにより進歩的な行動を起こしている3人が、訪問先の会社では、とても礼儀正しく振る舞いました。その社長も非常に「理」を重んじる人物で、また色眼鏡をかけずに若者の意見を聞いてくれました。いわゆる腹の据わった経営者で、たいへん魅力的に描かれていました。高度成長期ぐらいまでは、あのように腹の据わった、スケールの大きな経営者がたくさんいたのかもしれません。
わたしは、「ぜひ、こんな社長になりたい!」と心から思いました。
また、海がカルチェラタンの大掃除を提案したことも良かったです。
その案は実行され、生徒たちは明治時代に建てられた古建築を必死に掃除します。
その結果、建物は見違えるように綺麗になり、生徒たちの望みもかなえられるのです。
わたしはこの場面を観て、男は「保存、保存」と観念的に訴えるばかりですが、女は清掃という現実的な行動を思いつくところが面白いし、また素晴らしいと思いました。
世の中は掃除ブームとやらで、よく「掃除力」などという言葉が使われます。
この映画こそは、掃除の持つ偉大なパワーを見事に示したのではないでしょうか。
ところで、わたしは、この映画を観るのを非常に楽しみにしていました。
ブログ「絶望する必要ない」で紹介した新聞記事を読んだからです。
3月29日の新聞に、宮崎駿氏の談話が出ていました。自ら企画した「コクリコ坂から」の主題歌を発表する記者会見で、宮崎氏は東日本大震災について思いを述べました。
宮崎駿氏は、「埋葬もできないままがれきに埋もれている人々を抱えている国で、原子力発電所の事故で国土の一部を失いつつある国で、自分たちはアニメを作っているという自覚を持っている」と述べ、さらに「今の時代に応えるため、精いっぱい映画を作っていきたい」と語ったそうです。わたしは、感動しました。
同じ新聞には、「遺体の25% 身元不明」という記事も出ており、大震災の遺体の保管を警察側も苦慮していると書かれていました。胸が痛みました。
『葬式は必要!』(双葉新書)にも書いたように、葬儀とは「人間の尊厳」を守ることに他なりません。宮崎氏がコメントの最初に「埋葬もできないままがれきに埋もれている人々を抱えている国で」と発言したのは、そのことが何よりも重要な問題だからでしょう。
わが社のミッションは、「人間尊重」です。わたしたちは、一件一件のお葬儀を「人間の尊厳」を守るという使命感をもってお手伝いしたいと考えています。
宮崎駿氏は談話の最後に、「僕たちの島は繰り返し地震と台風と津波に襲われてきた。しかし、豊かな自然に恵まれている。多くの困難や苦しみがあっても、より美しい島にしていく努力をするかいがあると思っている。今、あまりりっぱなことを言いたくないが、僕たちは絶望する必要はない」と語りました。
その宮崎発言のときに発表された映画の主題歌「さよならの夏」も、名曲ですね。
手嶌葵の透き通るような歌声を聴いていると、優しい気持ちになってきます。
それにしても毎回毎回、ジブリ映画は素晴らしい歌手を見つけてくるものです
その宮崎駿氏は、映画パンフレットに寄せた「港の見える丘」という企画のための覚書の中で、次のように作品について述べます。
「『コクリコ坂から』は、人を恋うる心を初々しく描くものである。少女も少年達も純潔にまっすぐでなければならぬ。異性への憧れと尊敬を失ってはならない。出生の秘密にもたじろがず自分達の力で切りぬけなければならない。それをてらわずに描きたい」
「ふたりはまっすぐに進む。心中もしない、恋もあきらめない。真実を知ろうと、ふたりは自分の脚でたしかめに行く。簡単ではない。そして戦争と戦後の混乱期の中で、ふたりの親達がどう出会い、愛し生きたかを知っていくのだ。昔の船乗り仲間や、特攻隊の戦友達も力になってくれるだろう。彼等は最大の敬意をふたりに払うだろう」
そして、最後に宮崎駿氏は次のように書いています。
「観客が、自分にもそんな青春があったような気がしてきたり、自分もそう生きたいとひかれるような映画になるといいと思う」
この映画のテーマの男女の恋愛だけではありません。
親子、それも父親と娘の関係というのも大きなテーマです。
これ以上ないほど父を慕い会いたがる少女の映画なのです。
そんな作品を長女と一緒に観たのも不思議な偶然ですね。
東京の社長に直訴に言った帰り、海と俊が横浜の山下公園を歩くシーンがあるのですが、ほんの3ヵ月ほど前に長女と山下公園を歩いたことも思い出しました。
長女が住んでいる横浜の街も美しく描かれていました。
ブログ「借りぐらしのアリエッティ」にも書いたように、アリエッティの住む洋館はわがボロ家とそっくりでしたが、この映画で海たちが暮らすコクリコ荘もわが家に似ていました。 おそらく、この「コクリコ坂から」はわたしたち父娘にとって忘れられない映画になりそうです。そう、映画の記憶とは、その内容のみならず、誰とどこで観たかということが重要なのでしょう。映画館を出た後、六本木ヒルズに飾られた「コクリコ坂から」のポスターの前で、長女がブログ用の写真を撮ってくれました。
翌日、一緒にスターフライヤーに乗って、わたしたちは北九州に帰りました。
長女が撮ってくれました