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映画「ヒッチコック」を観ました。世界で最も有名なフィルム・メーカーの1人であり、「サスペンスの神」とまで呼ばれた映画監督アルフレッド・ヒッチコック監の素顔に迫る伝記ドラマです。妻アルマとの葛藤も交えて、名作「サイコ」製作の舞台裏を描いています。
監督は、「アンヴィル! 夢を諦めきれない男たち」のサーシャ・ガヴァシ。 ヒッチコックには「羊たちの沈黙」のアンソニー・ホプキンス、妻アルマには「クイーン」のヘレン・ミレンと、オスカー受賞者の2人が夫婦役を演じています。実際のヒッチコック自身は生涯、オスカーとは縁がなく「無冠の帝王」と呼ばれたので、皮肉なキャストですね。他にも、スカーレット・ヨハンソン、ジェシカ・ビールといった豪華キャストが脇を固めています。
映画「ヒッチコック」のプログラム
物語は、1959年のハリウッドが舞台です。60歳になったヒッチコックはすでに46本の作品を発表していましたが、このまま老いて時代に取り残されることを恐れ、自分の代表作といえる唯一無二の映画を作ろうと決意します。彼が目をつけたのは、実際の凶悪殺人犯エド・ゲインをモデルにして書かれたロバート・ブロックの小説『サイコ』でした。しかし、その内容を知った映画会社は出資を拒否します。なんとかヒッチコックの自己資金で製作するものの、殺人シーンがあまりにも残虐であり、女性の裸体も登場するなどの理由で映倫からの許可が下りません。八方塞がりのヒッチコックに、さらなる苦悩が襲います。
仕事の良きパートナーでもあった妻アルマが魅力的な脚本家との共同執筆に夢中になり、2人には浮気の疑いさえ出てきたのです。
度重なる心労から倒れたヒッチコックを救ったのは、アルマでした。
優秀な映画人でもあった妻の協力のおかげで「サイコ」の撮影は無事に完了しますが、第1回目の試写の評判は最悪でした。しかし、再び絆を取り戻したヒッチコック夫妻は最後の逆転劇に挑むのです。
もちろん、わたしは「サイコ」が大ヒットを飛ばした歴史的事実を知っていますので、ラストは容易に想像がつきました。というより、この映画、夫婦の危機と再生を描いているのはわかるのですが、それだけに終始しており、はっきり言って山場がありませんでした。ブロンド美女への偏愛、覗き趣味、死体愛好癖なども描かれていますが、ちょっとした映画好きなら誰でも知っているような有名な話で、作品のスパイスになるまでは至っていません。 このへんはサーシャ・ガヴァシ監督の力不足としか言いようがなく、この作品自体がアカデミー賞にまったくかすらなかった最大の原因と言えるでしょう。
もっと、過去のヒッチコック作品へのオマージュ的な名場面をたくさん散りばめるといった遊び心が必要ではなかったでしょうか。
また、夫婦愛をメインテーマに据えるなら、最後はヒッチコックが1979年にアメリカ映画協会功労賞を受賞した時のスピーチを再現すべきだったでしょう。
「無冠の帝王」ヒッチコックは、功労賞のトロフィーを前にして言いました。 「私に大いなる愛情と高い評価を与え、常に激励と共に惜しみない協力をしてくれた4人の人物を紹介することを、お許し下さい。
1人目は映画の編集者。
2人目は脚本家。
3人目はわたしの娘、パトリシアの母親。
4人目は素晴らしい名コック。長年キッチンで奇跡的な腕をふるってくれました。 偶然にも4人全員が同じ名前、その名もアルマ・レヴィルです」
このスピーチはあまりにも有名ですが、隣で聴きながら涙ぐむアルマの表情が忘れられません。この夫妻の一世一代の名場面、やはり映画の中でもきちんと再現してほしかったです。というか、ここがクライマックスでしょう、ふつう。
とはいえ、「サイコ」はわたしの大好きな映画です。
小学5年生のとき、ホラー映画の歴史を塗り替えたといわれた「エクソシスト」が公開されました。当時、ホラー映画をテーマにしたムック本を買ったのですが、その中に「世界の恐怖映画ベストテン」というランキングが掲載されていました。そして、ボリス・カーロフ主演の「フランケンシュタイン」やベラ・ルゴシ主演の「吸血鬼ドラキュラ」などを抑えて、「サイコ」が堂々の1位に輝いていたのです。
わたしは、「『フランケンシュタイン』や『ドラキュラ』よりも怖い映画がある!」ということに強い衝撃を受け、それから「サイコ」の名はわたしの脳裏に刻み込まれたのです。後に、テレビの洋画劇場で初めて「サイコ」を観たときも、その陰鬱な雰囲気と結末の意外さに大きな刺激を与えられました。 特に、主演のジャネット・リーが恐怖のために絶叫する場面は一度観たら忘れられません。多くのアメリカ人の心にも刷り込まれ、絶叫といえばジャネット・リーの顔を思い浮かべるのではないでしょうか。
「サイコ」のDVD
わたしが最初に観たヒッチコック作品こそ「サイコ」でしたが、以後、その魅力に取りつかれ、「鳥」「めまい」「裏窓」「泥棒成金」などにもハマリました。「裏窓」「泥棒成金」に主演したグレース・ケリーは今でも憧れの女性です。映画「ヒッチコック」にも彼女のポートレートにアルマが嫉妬するシーンがありましたね。
あと、「バルカン超特急」や「見知らぬ乗客」なども大好きな作品です。
わたしは、ビデオとDVDを揃え、ヒッチコックの全作品を観賞しました。
一時は『リゾートの思想』(河出書房新社)の続編として、チャップリン、ディズニー、ヒッチコックの3人をテーマにした『エンターテインメントの精神』という本を書こうかと思っていたくらい、ヒッチコックには夢中になっていました。
わたしの好きなヒッチコック映画のDVD
ヒッチコック関連書を中心とした、わが書斎の映画本コーナー
さて、「ヒッチコック」の冒頭には、実在の犯罪者であるエド・ゲインが登場したので、わたしは思わずニヤリとしました。エド・ゲインとはアメリカ史に残る殺人鬼にして死体愛好家です。墓から盗みだした女性の死体を加工して、家具やアクセサリー、洋服などを作りました。死体の皮膚を頭からかぶって女の体に変装するなど、異常な嗜好の持ち主としても知られます。逮捕されたとき、ゲインの部屋からは15人分の遺体が発見されましたが、彼が殺したのはそのうち2人で、あとはすべて盗掘したものだったそうです。
エド・ゲインが犯罪に突き進んだのは、狂信的なキリスト教徒の母親に溺愛されたことが原因だとされています。母親の極端な教育で性的なことを嫌悪する人間に育ち、生きている女性を不潔だと感じるようになったのです。その結果、抑圧された「歪んだ欲望」が死体へと向かっていったのでした。 エド・ゲインは映画「悪魔のいけにえ」のレザー・フェイスのモデルとして有名でしが、じつはそれ以前に「サイコ」のノーマン・ベイツのモデルだったのです。
ちなみに、わたしが監修した『よくわかる「世界の怪人」事典』(廣済堂文庫)には「エド・ゲイン」(p.179)、「レザー・フェイス」(p.230)、そして「ノーマン・ベイツ」(p.255)といった項目があります。興味がある方は、御一読下さい。