No.0097


 映画「リンカーン」を観ました。
 今日は「憲法記念日」ですが、それにふさわしい映画でした。

 第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンの伝記ドラマで、監督は巨匠スティーヴン・スピルバーグです。史上最も人気のあった大統領であるリンカーンは、奴隷制を廃止すべく憲法の修正に挑みます。そして、泥沼化した南北戦争を終結させるのでした。大いなる使命感を抱きつつも、理想と現実の葛藤に苦悩するリンカーンの姿を重厚なタッチで映し出しています。

 主役のリンカーンには「マイ・レフトフット」「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」などのダニエル・デイ=ルイスが扮し、彼は史上初となる3度目のアカデミー主演男優賞を受賞しました。リンカーン夫人であるメアリーには「ノーマ・レイ」「プレイス・イン・ザ・ハート」で2度のアカデミー主演女優賞を受賞したサリー・フィールドが扮しています。夫婦あわせて5度のアカデミー主演賞受賞というのは凄すぎる!
 その他、リンカーンの長男ロバート役には「50/50 フィフティ・フィフティ」のジョセフ・ゴードン=レヴィット、奴隷解放急進派の政治家タデウス・スティーブンスを「逃亡者」でアカデミー助演男優賞を受賞したトミー・リー・ジョーンズなど、脇を固める俳優陣も実力派揃いです。

 映画の「あらすじ」ですが、自分で書いてネタバレになるのは嫌です。
 ですので、公式サイトにある「ストーリー」を以下に紹介します。
 「1865年1月、エイブラハム・リンカーン(ダニエル・デイ=ルイス)が大統領に再選されて、2カ月が経っていた。
 国を二分した南北戦争は4年目に入り、大勢は大統領が率いる北軍に傾いていたが、リンカーンにはすぐさま戦争を終結させるつもりはなかった。奴隷制度に永遠の別れを告げるため、たとえ多くの死者が出ても合衆国憲法修正第十三条を下院議会で批准する前に戦争を止めるわけにいかなかった。

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奴隷解放をめぐるドラマでした

 リンカーンの妻のメアリー・トッド(サリー・フィールズ)は南部出身で、夫とは口論が絶えず必ずしも、良好な関係とはいえなかったが、心の底で夫を信じていた。
 リンカーンは国務長官ウィリアム・スワード(デヴィッド・ストラザーン)を介して、議会工作を進めるべく指示する。同じ共和党の保守派プレストン・ブレア(ハル・ホルブルック)を使って党の票をまとめても、成立させるためには20票、足りなかった。リンカーンはあらゆる策を弄するように命じ、スワードはW.N.ビルボ(ジェームズ・スペイダー)をはじめとするロビイストを駆使して、敵対する民主党議員の切り崩しにかかる。その動きを冷ややかににみつめていたのは、奴隷解放急進派のタデウス・スティーブンス(トミー・リー・ジョーンズ)だった。彼はリンカーンがどこかで妥協するのではないかと考えていた。
 リンカーンにとってホッとできるのは末息子のタッドと過ごすひと時だけだった。長男のロバート(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット)とは話す時間もなくぎくしゃくしていたが、ロバートは正義感で母の強硬な反対を押し切って、北軍に入隊してしまった。リンカーンは無事な学生でいてほしいという父としての願いを抑え、ただ見守るしかなかった。南北戦争の和平交渉が早く進む事態となって、リンカーンは1月25日、下院議会に合衆国憲法修正第十三条に提出する。思惑と工作が蠢くなか、果たして多数派工作は成功したのか。ひとり静かにホワイトハウスで結果を待つリンカーンだったが、その後に過酷な運命が待ち受けているとは予想もしていなかった――」

 この映画は奴隷解放をめぐるドラマですので、ブログ「ジャンゴ 繋がれざる者」で紹介した映画のように、黒人奴隷への残虐なリンチの場面とか、KKKなどが登場するのかと思っていましたが、それはまったくありませんでした。わたしの一番好きな映画である「風と共に去りぬ」と同時代を扱っていますが、予想していた南部の人々の生活ぶりなども一切出てきませんでした。この映画、ただひたすらアメリカ合衆国憲法の第十三条の修正に焦点が当たっており、珍しいほどのガチガチの政治ドラマでした。 これはある程度、予備知識がないとわかりにくい内容だと思います。 最低限、「米国憲法第十三条修正案は黒人奴隷解放の条例であり、これが可決されれば奴隷が解放される。ただし、その可決のためには20票足りない」という状況を把握しないと、最初からチンプンカンプンではないでしょうか。

 結果として、リンカーンの悲願であった奴隷解放は実現します。
 この映画を観て、「米国憲法第十三条が修正できたのなら、日本国憲法第九条も修正できるはず」と思った日本人は多いはずです。そして、それはまったくその通りなのです。憲法というものは人間が作ったものですから、当然ながら誤りもあります。その誤りは民主主義にのっとって修正すれば良いだけの話なのです。日本の場合はこれまで「憲法改正」という言葉が使われ、それに対してアレルギー反応を示す新聞社や知識人たちがいましたが、これからは「憲法改正」ではなく「憲法修正」という表現にすればいいと思います。言葉の問題は、思った以上に重要ですからね。

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映画「リンカーン」プログラムより

 ともかく、絶対に不可能とされていた米国憲法第十三条は修正されました。 その背景には、リンカーンの絶大なリーダーシップがありました。
 「もし奴隷制が間違っていないというなら、間違っていないものなど存在しない」いう彼の絶対的信念、物事の大局を見据える目、さらには目的のためには手段を選ばない行動力。それらすべてが彼のリーダーシップを支えていました。
 もう1つ付け加えるなら、彼はとにかくボキャブラリーが豊富で、さまざまな逸話を持ち出すことによって、対話する相手や民衆を共感させてしまう魅力を持っていました。これは、彼の人並みはずれた読書量からくるものだったと思います。

 さて、リンカーンのように膨大な読書量をバックボーンとしてボキャブラリーを豊かにし、卓越した弁舌で民衆を魅了した有名な政治家が古代ローマにいました。ユリウス・カエサルです。そして、リンカーンと同じように高い志を抱いて同時代の幕末日本で活躍した1人の革命家がいました。坂本龍馬です。
 わたしは『龍馬とカエサル』(三五館)という本で、ユリウス・カエサルと坂本龍馬の共通点をいくつか挙げましたが、それはリンカーンにも当てはまるものであったと気づきました。まず、3人とも最高の人気者です。カエサルはヨーロッパ史上で一番の人気者、リンカーンはアメリカ史上で一番の人気者、そして龍馬は日本史上で一番の人気者と言えます。

龍馬とカエサル―ハートフル・リーダーシップの研究

 3人には、さらに大きな共通点があります。それは、いずれも平等主義者であったという点です。龍馬は、女性の職業・容貌・知能、その他もろもろに対して、いっさい差別しなかったといいます。女性をつねに1人の人間として尊重し、志を共有する同志として見なしていました。だからこそ、千葉さな子も、寺田屋お登勢も、お龍も、その他にも多くいたであろう女性たちはみな、龍馬に深い愛情を注ぎ、渾身の協力を惜しまなかったのです。
 龍馬自身が商家の出身で郷士という下級武士でした。
 つまり身分が低かったのです。それもあってか、彼は何よりも差別を嫌い、女性のみならず、あらゆる人々に等しく接しました。

 「アメリカでは、馬の口取りが将軍や大名を選ぶ」という選挙の存在を知り、龍馬は人民平等思想を知ります。これに深く共感した彼は、後に土佐藩の後藤象二郎に、「アメリカでは薪割り下男と大統領と同格であるというぞ。わしは日本を、そういう国にしたいのじゃ」と語ったといいます。平等主義者の龍馬がつくった海援隊には、「長」と名のつく役職は一つもありませんでした。幕府の身分制度や階級をそのまま踏襲した新撰組とは対照的です。

 また、龍馬は、「世に活物(いきもの)たるもの、みな衆生なれば、いずれを上下とも定めがたし」との言葉を残しています。「この世の中の生きものというものは、人間も犬も虫もみな同じであり、上下などない」という意味だが、これは幕末の当時にあって、とんでもない過激思想であったと言えます。司馬遼太郎は、この龍馬の言葉から、ルソーの『社会契約論』に出てくる「人は自由なものとして生まれた。しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているような者も、実はその人以上に奴隷なのだ」という有名な冒頭の言葉を思い出したと述べています。

 カエサルの平等主義は、ローマ市民権の拡大に示されました。彼は、それまで「アルプスのこちら側(チザルピーナ)」と呼ばれ、ローマ市民から外国人扱いされていたアルプス以南のイタリア人、次にローマで仕事をするすべての医師や教師、さらには、最近まで彼自身が敵として戦っていた「蛮族」のガリア人の指導者たちにまで市民権を与えたのです。 
 ローマにおいて市民権を持つことは、人種や民族や宗教を超えて、ローマの市民と同等の権利を与えられるということです。すなわち、ローマの法によって、その人物の私有財産と個人の人権は守られるということを意味したのです。
 これを平等と言わずして、何を平等と言うのでしょうか。カエサルの前には、「征服者」も「被征服者」もありませんでした。

 龍馬が「日本人」を、カエサルが「ローマ人」を愛していたことは間違いないでしょう。そして、黒人奴隷を解放したリンカーンは「アメリカ人」を愛していました。しかし、彼ら3人の視線のさらなる先には「人類」があったと思います。
 この映画の中で、リンカーンは「等しいものと同じものは、互いに等しい」というユークリッドの公理を語りますが、彼にとって「人間はみな等しい」という考えがあったのでしょう。黒人だろうが白人だろうが、北軍だろうが南軍だろうが、ひとたび人間が裸になれば2本足の同じ生き物でしかないのです。

 『龍馬とカエサル』のサブタイトルは「ハートフル・リーダーシップの研究」となっています。龍馬とカエサルと同じく、リンカーンもハートフル・リーダーでした。
 真のリーダーとは、つねに万人が幸福に暮らせることを理想とします。
 理想主義者が平等主義者でもあることは当然かもしれません。それゆえ、どうしても利害に反する者の敵意によって自身の危機管理がおろそかになるという弱点も持ちます。事実、カエサルも龍馬もリンカーンも暗殺されました。

 リンカーンが暗殺されたのは1865年4月15日で、龍馬が暗殺されたのは1867年12月10日です。彼らは本当に同時代人なのです。
 そして、わたしはカエサル、リンカーン、龍馬の3人は暗殺されたことによって英雄になったと思います。特に、奴隷解放を実現した直後に暗殺されたリンカーンは、その自己犠牲の最期から、米国民によりイエス・キリストに模された部分があったのではないでしょうか。「アメリカのキリスト」として、リンカーンは史上最も人気のある大統領になったような気がしてなりません。 実際にリンカーンは熱心なキリスト教徒で、彼の演説には『新約聖書』の言葉が至ることころに散りばめられています。
 ちなみに「人類」という言葉は『新約聖書』で初めて登場します。
 おそらく、「人類」というコンセプトの発明者はイエスだったと思います。

 カエサル、リンカーン、龍馬に共通するのは「人間尊重」の精神です。  
 もともと「平等主義」とは「人間尊重」の別名にほかなりません。
 ローマ人と蛮族の差別をなくしたカエサル。
 白人と黒人の差別をなくしたリンカーン。
 武士と町人の差別をなくした龍馬。
 彼らの心の中にあったのは、「人間」への愛情でした。
 そして、その精神は、この映画を監督したスピルバーグにも感じられます。
 この映画に出て来る黒人は、後のユダヤ人の姿に重なります。
 その意味で、スピルバーグにとっての「リンカーン」は「シンドラーのリスト」の続編であり、そのコンセプトは「人間尊重」であると思いました。

 そして、わたしが最近気になるのは、どうも日本人の間に中国人や韓国人を排斥しようという気運が盛り上がっていることです。同様に、中国人や韓国人の間でも、日本人を排斥しようという動きがあります。
 これは「人間尊重」の視点から言えば、大いに嘆かわしいことです。
 言うまでもなく、日本人も中国人も韓国人も同じ人間です。
 わたしは最近、『徹底比較!日中韓 しきたりとマナー~冠婚葬祭からビジネスまで』(祥伝社黄金文庫)という監修書を上梓しました。
 この本には、東アジアの平和への強い願いが込められています。
 もともと、日本も中国も韓国も儒教文化圏です。孔子の説いた「礼」の精神は中国で生まれ、朝鮮半島を経て、日本へと伝わってきたのです。
 「礼」とは「人間尊重」の別名でもあります。
 カエサルが蛮族を認めたように、リンカーンが黒人を認めたように、日中韓の人々も互いに認め合い、尊重し合ってほしいものです。

冠婚葬祭からビジネスまで 徹底比較! 日中韓しきたりとマナー (祥伝社黄金文庫)

 最後に、ひとつカミングアウトすれば、わたしは数年前にリンカーンについての本を書こうかと迷ったことがあります。
 『孔子とドラッカー』および『龍馬とカエサル』を立て続けに上梓した後、ある出版社から『聖徳太子とリンカーン』という本を書いてほしいというオファーを貰ったのです。編集者によれば、聖徳太子もリンカーンも真の意味での建国の父であり、その共通点を一書に著してほしいとのことでした。
 そのときは熟考の末、お断りしました。当時は他にも複数の著書を執筆中で、新たに本を書く時間が取れなかったのが最大の理由です。でも、正直に言えば、今ひとつテーマに違和感があったことも事実です。

 でも、今ならば、その違和感はほとんど消えました。
 聖徳太子は日本を創り、リンカーンはアメリカ合衆国を創った。
 そして、2人とも、国が二分されるという最大の危機を回避した政治家です。
 聖徳太子は神道と仏教、物部氏と蘇我氏の対立を回避し、1つの日本を守り抜きました。そして、その根幹となった思想こそ「和」です。
 太子の十七条憲法の冒頭には「和を以って貴しと為す」と書かれています。この有名な言葉は、じつは『論語』に由来します。「礼の用は和を貴しと為す」が学而篇にあります。「礼のはたらきとしては調和が貴いのである」の意味ですが、聖徳太子に先んじて孔子がいたわけです。そして、リンカーンが南北戦争の終結に用いた思想もまさに「和」でした。彼は、敗れた南軍の将軍らにも敬意を払い、けっして処刑をもって平和を獲得しようとしませんでした。

 また、映画「リンカーン」には、従軍を避けるために軍馬の脚を傷つけた15歳の少年兵のエピソードが出てきます。
 その少年兵は処刑されるはずでしたが、リンカーンは「そんなことをしていたら、15歳の少年が1人もいなくなってしまう」と言って、彼を免罪してやります。
 そのシーンを観て、わたしは『論語』郷党篇の次の言葉を思い出しました。
 「厩焚けたり、子、朝より退きて曰わく、人を傷えりや。馬を問わず。」
 高価な馬をつないでいた厩舎が火事で焼けましたが、孔子は馬のことをひと言も聞かず、怪我人が出なかったかどうかだけを心配したというのです。 そういえば、聖徳太子は「厩戸の皇子」と呼ばれましたね。
 孔子と聖徳太子とリンカーン!
 ここにも、ハートフル・リーダーシップの系譜があります。

 わたしの手元には、「以和為貴」の書があります。「ベスト50レビュアー」こと不識庵さんからプレゼントされたもので、不識庵さんの故郷である新潟の偉人・平澤興による揮毫です。平澤興はブログ『生きよう今日も喜んで』で紹介した本の著者であり、神経解剖学、特に運動生理学の研究で世界的権威として知られた人物です。しかし、科学と宗教の融けた世界を理想とし、教育にも情熱を注いだ人でした。「サムシング・グレート」で知られる村上和雄氏の恩師でもあります。
 いま、「以和為貴」の書を眺めながら、映画「リンカーン」の余韻に浸っています。そして、真のリーダーとは「和」を重んじる者であることを痛感しています。わが本名にも「和」の字がありますので、このことを肝に銘じたいものです。

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「以和為貴」(平澤興謹書)

  • 販売元:20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • 発売日:2014/02/05
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