No.0119
ずっと忙しく、映画館から足が遠のいていたのですが、久々に劇場で日本映画「そして父になる」を観ました。子どもの取り違えという出来事に遭遇した2組の家族を描いたドラマで、福山雅治が初の父親役を演じています。
「誰も知らない」の是枝裕和監督の最新作ですが、第66回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に正式出品されました。
カンヌ国際映画祭では、約10分間という長いスタンディングオベーションに包まれ、是枝監督や福山雅治、尾野真千子は号泣しました。この映画を観た女優の二コール・キッドマンは涙が止まらなかったそうです。
結局、同映画祭の審査員賞を受賞しました。
「そして父になる」の主人公・野々宮良多は、順調な人生を送るエリート・ビジネスマンです。彼は、自身の力で誰もがうらやむような学歴や仕事、良き家庭を勝ち取ってきました。そんな「勝ち組」の彼に、ある日、思いもよらない出来事が起こります。6年間大切に育ててきた息子が、出産のときの病院内で他人の子どもと取り違えられていたことが判明したのです。
これまで過ごしてきた時間を重視して、現在の息子をそのまま育てるか。それとも血のつながりを尊重して、本当の息子を取り戻すか。究極ともいえる葛藤の中で、それぞれの家族が苦悩していく姿をリアルに描きます。
良多を福山雅治、その妻・みどりを尾野真千子、取り違えの相手である斎木夫妻の夫・雄大をリリー・フランキー、妻・ゆかりを真木よう子が演じています。
これだけでも十分に豪華なキャスティングですが、さらに良多の父を故・夏八木勲、みどりの母を樹木希林というふうに、もうこれ以上ないほどの完璧な配役ぶりです。野々宮慶多を演じた二宮慶多クン、斎木琉晴を演じた黄升炫クンの子役2人を含めて、8人全員の演技が素晴らしかったです。
あまりストーリーを詳しく追うとネタバレになるので控えますが、この映画、観ていてけっこうハラハラドキドキします。
「映画.com」で評論家の若林ゆり氏が、「誠実な映画だ。まず、タイトルに寸分の偽りもない。まさにその通りの映画。だからといって予定調和的なところは微塵もなく、終始サスペンスフルで心を揺り動かされ続けるだろう。登場人物がここでどう感じるのか、どういう選択をするのか、それは正しいのか、自分だったらどうか。固唾をのんで見守る時間は濃密で、豊かな体験となる」と書いていますが、まったく同感です。
2組の夫妻は、それぞれ育てた子どもを手放すことに苦しみます。しかし、「どうせなら早い方がいい」という良多の意見で、互いの子どもを「交換」します。それが正解だったのか、間違いだったのか、映画の中で結論は出ていません。
観客もさまざまな意見を抱いたことでしょうが、わたしは2人の子どもが6歳であることに注目しました。つまり、7歳前であるということに・・・・・。
古来わが国では「七歳までは神の内」という言葉がありました。また、七歳までに死んだ子どもには正式な葬式を出さず仮葬をして家の中に子供墓をつくり、その家の子どもとして生まれ変わりを願うといった習俗がありました。つまり、子どもというものはまだ霊魂が安定せず「この世」と「あの世」の狭間にたゆたうような存在であると考えられていたのです。
七五三はそうした不安定な存在の子どもが次第に社会の一員として受け容れられていくための大切な通過儀礼です。七五三は、一般に3歳の男女と5歳の男児、7歳の女児を対象にこれまでの無事の感謝と更なる成長を祈願して11月15日に氏神に参詣する儀礼ですが、その時代や地方によって年齢と性別の組み合わせはさまざまであり、2歳や9歳で同様の儀礼を行なうところもあります。11月15日という日付も、徳川幕府の5代将軍綱吉の子である徳松がその日に髪置きの儀礼を行なったことに端を発するとする説や霜月の祭りに合わせたとする説、陰陽道によるものとする説などがあり、地方によっては必ずしもこの日に行なわれるわけではありませんでした。現在のような華美な七五三の風景は明治以降のものです。
それから、この映画には「凧揚げ」がキーワードとして頻出します。
じつは実際に凧揚げをするシーンは登場しないのですが、親子での遊びとしての「凧揚げ」という言葉が何度も出てくるのです。
わたしのブログ記事「凧のように生きる」のように、わたしは人間の幸福をよく凧にたとえます。
現代人はさまざまなストレスで不安な心を抱えて生きています。空中に漂う凧のようなものです。そして、凧が安定して空に浮かぶためには糸が必要です。
さらに安定して空に浮かぶためにはタテ糸とヨコ糸が必要です。
タテ糸とは時間軸で自分を支えてくれるもの、すなわち「先祖」です。
また、ヨコ糸とは空間軸から支えてくれる「隣人」です。
この2つの糸があれば、安定して宙に漂っていられる、すなわち心安らかに生きていられる。これこそ、人間にとっての真の「幸福」の正体だと思います。
凧といえば、わたしのブログ記事「有縁凧」に書いたように、オリジナルの凧を作りました。
そして、同ブログ記事「凧揚げ」に書いたように、昨年の正月、有縁凧を揚げました。
この有縁凧は「有縁社会」のシンボルだと思っています。
わたしは、この有縁凧を大空に揚げてみたいです。日本中の空で揚げてみたいです。東北や沖縄の空でも揚げてみたいです。それこそ、日本香堂さんの「青雲」のCMのように連凧も浮かべてみたいです。日本香堂の小仲正克社長とは『香をたのしむ』(現代書林)という本で対談しましたが、「縁を大切にする社会をつくるため、お互いに頑張りましょう」と誓い合いました。
そして、先祖を大切にするといえば、この映画には仏壇もよく登場しました。
みどりの実家、斎木家にはそれぞれ仏壇があります。みどりとその母は、何かあると仏壇のご先祖さまに報告・相談し、斎木家では朝起きるとまず仏壇に手を合わせて「おはようございます」と挨拶します。
ただし、良多一家の自宅マンションには仏壇がありません。
言うまでもなく、仏壇は「血縁」のシンボルです。仏壇とは、一般に仏像を安置し礼拝や供養を行う壇のことですが、現在の日本では、仏像とともに祖先の位牌を安置する家の中の厨子をさします。そこには、わたしたちの先祖が住んでいます。仏壇とは、わたしたちと先祖をつなぐメディアなのです。
拙著『ご先祖さまとのつきあい方』(双葉新書)にも書いたように、わたしたちは、先祖、そして子孫という連続性の中で生きている存在です。
遠い過去の先祖、遠い未来の子孫、その大きな河の流れの「あいだ」に漂うもの、それが現在のわたしたちに他なりません。
その流れを意識したとき、何かの行動に取り掛かる際、またその行動によって自分の良心がとがめるような場合、わたしたちは次のように考えるのです。
「こんなことをすれば、ご先祖様に対して恥ずかしい」
「これをやってしまったら、子孫が困るかもしれない」
こういった先祖や子孫に対する「恥」や「責任」の意識が日本人の心の中にずっと生き続けてきました。それらの意識は「家」という一字に集約されるでしょう。かつての日本人には「家」の意識があったのです。
貧しくとも、斎木一家が仲良く楽しそうに暮らしているのも、仏壇の存在、つまりは「先祖と暮らす」というライフスタイルが大きく影響していると思います。
逆に、無機的な高級マンションで、良多が新しい息子に挨拶の仕方や箸の持ち方などをいくら教育しても効果がないのは、家に仏壇がないことも影響しているのではないでしょうか。血縁という縦糸のない躾には説得力がありません。
最後に強く感じたのは、家族写真の存在でした。良多はカメラが趣味で、交換前の一人息子の慶多もカメラに興味を示します。そして、彼ら親子がその絆を確認したのは、慶多が撮影し続けた父・良多の写真でした。
この映画では、2つの家族が河原で集合写真を撮影する場面が出てきます。
それを見ながら、わたしは家族写真というのは「家族の見える化」であると思いました。3・11をはじめとした津波のとき、多くの人は家族写真が貼られたアルバムを持って逃げたといいます。津波からしばらく時間が経過して、被災者の多くは家族写真の復元を希望するそうです。
それは、家族写真こそが「家族」という実体のあやふやなものに形を与え、「見える化」してくれるからにほかなりません。逆に言えば、家族写真がなければ、「家族」というものの存在に確信が持てないのではないでしょうか。
葬儀の最後には、「思い出のアルバム」のDVDが流れることが多いです。
それらを観ると、故人が生まれたときの写真、子どもの頃、成人してからの写真。本人の宮参り、七五三、成人式、結婚式、そして、わが子の宮参り、百日祝いなどなど、冠婚葬祭の写真が多いことに気づきます。最近では、BGMに福山雅治の「家族になろうよ」が流れることが多いですね。
そう、冠婚葬祭は家族との思い出そのものであり、写真と同じく「家族」を見える化してくれる文化装置なのです。結婚式や葬儀、七五三や成人式や法事・法要のときほど、「血縁」というものが強く意識されることはありません。
この映画を観て、ちょっと不満だったのは、主人公の良多が悪く描かれ過ぎていること。彼は別にダメ親父ではなく、ただ自分の仕事に責任を持って情熱を注ぎ込んでいるだけです。その結果、家族と過ごす時間が少なくなっている事実もありますが、映画を観るかぎり、彼は精一杯に時間を作って家族とのコミュニケーションに努力しているように思えました。わたしもどちらかというと良多のように仕事人間で家族サービスには不器用なほうなので言い訳に聞こえるかもしれませんが、良多は良多なりに家族を愛しているのだと思います。ただ、いつも家にいて、子どもと遊んでやるだけが理想の父親ではありません。家族の幸せのために仕事を頑張るという愛し方だってあるはずです。
それと、豪華なキャスティングでしたが、わたしが思ったのは「子どもを交換するのではなく、尾野真千子と真木よう子を交換すべきでは?」ということでした。
2組の夫妻の顔ぶれを見れば、どう考えても、福山雅治と真木よう子、リリー・フランキーと尾野真千子が夫婦でしょう、ふつう。
でも是枝監督には、そんなわたしの素朴な考えなど簡単に論破できるキャスティングの持論があるのでしょうね、たぶん。
最後に、もちろん主演の福山雅治もカッコ良かったですが、リリー・フランキーの渋い演技が光っていましたね。彼は、わたしと同じ1963年生まれで小倉出身です。なんとなく、中高生時代などに井筒屋か昭和館か金栄堂かどこかで会っていたような気がします。いや、きっと、そうに違いない!
彼の小説『東京タワー』は個人的にまったく評価できませんが、彼の演技には稀代の変態映画である「盲獣vs一寸法師」以来、注目してきました。マルチな才能を誇る彼ですが、俳優が一番合っていると思います。
この映画は『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)で取り上げました。