No.0134


 23日に公開されたばかりのスタジオジブリの最新作「かぐや姫の物語」を24日に観ました。世界最古の長編物語といわれる『竹取物語』を題材に、数々の傑作を生み出してきた巨匠・高畑勲監督が手掛けた長編アニメーションです。

 今は昔、光り輝く竹の中からかわいらしい女の子が現れ、それを見つけた竹取の翁が媼と共に大切に育てます。女の子は、またたく間に美しい娘に成長します。翁は女の子を高貴な姫として育てることを決意し、竹の中から出てきた財宝をもとでに都に立派な屋敷を作り、そこに姫ともども移り住みます。
 さらに美しくなった女の子は「かぐや姫」と名付けられ、うわさを聞き付けた都の貴族たちが求婚してくるようになります。結婚などしたくない姫は、彼らに無理難題を突き付け、次々と遠ざけます。彼らは姫を想うあまり、身を持ち崩したり、命さえ失ったりします。やがて、かぐや姫は月を見ては物思いにふけるようになり、「次の満月の夜、月からの使者が迎えにくるが、帰りたくない」と言うのでした。

 日本人なら誰でもよく知っている物語ですが、特に斬新な解釈でとらえ直しているわけではありません。むしろ、原作になるべく忠実にアニメ化しながらも、「かぐや姫はどうして地球に生まれやがて、月へ帰っていったのか」という最大の謎をさりげなく解いています。そして、これまでは描かれなかったかぐや姫の謎めいた運命と彼女の本当の胸の内を水彩画のようなタッチで描いています。

 声優陣もバラエティに富んでおり、ヒロインかぐや姫にはテレビドラマ「とめはねっ! 鈴里高校書道部」などの朝倉あき、その幼なじみの捨丸を高良健吾、竹取の翁を地井武男、その妻を宮本信子、御門に中村七之助、かぐや姫への求婚者に橋爪功、上川隆也、伊集院光、宇崎竜童など、じつに多彩な面々を揃えています。面白かったのは、声優たちの顔が登場人物にそっくりだったこと。
 特に、橋爪功の車持皇子、宇崎竜童の大伴大納言がよく似ていましたね。
 また、麻倉あきのかぐや姫も似ていたと思います。

 公式HPの「はじめに」、および映画パンフレットの冒頭には、この映画について次のように書かれています。


「この地で、ひとりの女性が生きた。
 笑い、泣き、喜び、怒り、
 その短い生の一瞬一瞬に
 いのちの輝きを求めて。
 数ある星の中から、
 彼女はなぜ地球を選んだのか。
 この地で何を思い、
 なぜ月へ去らねばならなかったのか。
 姫が犯した罪とは、
 その罰とはいったい何だったのか―。
 日本最古の物語文学『竹取物語』に隠された
 人間・かぐや姫の真実の物語。
 姫の犯した罪と罰。
 ジブリヒロイン史上、最高の"絶世の美女"が誕生。」

 この最後の「ジブリヒロイン史上、最高の"絶世の美女"が誕生。」というフレーズは余計だと思いました。たしかに、かぐや姫は日本が誇る"絶世の美女"かもしれませんが、ナウシカやシータやサツキやキキや菜穂子らには、また別の美しさがあります。それらを単純に比較して「ジブリヒロイン史上、最高の"絶世の美女"」といった陳腐な表現に走るのは、まったくもってジブリ的でない!
 そう思うのは、わたしだけではありますまい。

 しかし、「姫の犯した罪と罰。」という言葉には、心惹かれるものがあります。
 かぐや姫にいったいどんな罪があったというのか。そして、彼女はどんな罰を受けたのか。映画パンフレットの「企画『かぐや姫の物語』」で、この映画の原案・脚本・監督を担当した高畑勲氏がきわめて興味深い推理を展開しています。高畑氏が東映動画に入社して間もなくの頃、かぐや姫の物語の企画案を会社から与えられたそうです。当時の大監督であった内田吐夢を立てて、『竹取物語』の漫画映画化が計画されていたのです。当時の東映動画は、日本最初の長編アニメーション映画である「白蛇伝」や「西遊記」など、中国の民話や古典に題材を得た作品をヒットさせていました。そういえば、「かぐや姫の物語」は「白蛇伝」に似ているような気がしました。日本アニメ史そのものへの高畑氏によるオマージュだったのかもしれません。

 さて、課題を与えられた高畑氏は、「かぐや姫はいったい何故、何のために地上にやって来たのだろうか」という疑問を考えているうちに、以下のようなことがあったのではないかと推測するに至ったそうです。
 かぐや姫は、清浄な光に満ちあふれる月の王の娘である。月にいるとき、地球から帰還した女(羽衣伝説の一人)から地上の話を聞き、女がほのめかす人間の「喜・楽」や「愛」、さらには「哀」さえ心惹かれ、どうしても地球に行ってみたくなりました。しかしながら、記憶をなくしたはずの女に地上のことを思い出させ、彼女を苦しめたという罪で、姫は地球に送り込まれることになったのです。

 高畑氏は、「企画『かぐや姫の物語』」に次のように書いています。


「かぐや姫は『何のために地球にやって来たか』といえば、姫にとっては、月にはない地球上の自然と人とのあらゆる豊かな『生』を、そしてとくに『愛』を享受するためであり、月の人たちにとっては、罰として地上の穢れを姫に体験させるである。『どうして帰らなければならなかったか』といえば、ある時点で、姫が心の中で『死にたい』と叫んでしまったからである。だから、そのあとでいかに姫が『まだ居たい』と言い訳をしようと、刑期は終わり、自動的にお迎えが来てしまうのである。そしてお迎えが来る時点であれほど激しく嘆き悲しむのは、月と交信をはじめてから、自分が『何のために来たのか』が自覚されてきて、地上のすばらしさを満喫することのないまま、帰らなければならなくなってしまったことを悔やむ涙だった・・・・・」


 わたしは、この高畑氏の推測を読んで、驚嘆しました。
 ここまで、かぐや姫の知られざる謎について深く考えていたとは!
 そして、新人だった高畑氏にここまで考えさせた東映動画も恐るべし!

 さて、かぐや姫が月へ帰らなければならなくなった理由について、「ある時点で、姫が心の中で『死にたい』と叫んでしまったから」と高畑氏は述べています。
 この「ある時点」というのが問題で、この映画では、かぐや姫が御門から急に抱きすくめられ求愛された時点として描かれているのです。御門つまり天皇からの求愛をセクハラよろしく「死にたい」「ここに居たくない」とまで思ったわけです。ここに、高畑氏の天皇に対する考え方が表れているような気がしました。
 ネトウヨ、すなわち「ネット右翼」と呼ばれる人々の中には、「反戦、反原発をアピールしてやまないジブリは明らかな左翼」として、宮崎駿監督や高畑勲監督を批判する人も多いようです。

 ここで、気になる記述をYouTubeで見つけました。
 YouTubeに「 いのちの記憶 かぐや姫の物語」という動画がアップされていて、その概要で沈赤花という人が次のように書いています。


「文武天皇の時代、天皇に仕える宮中の采女の結婚への取り締まりが厳しくなったという史実があることから、かぐや姫のモデルは結婚が発覚して自決または刑死に追い込まれた采女の話であるとの説があります。
 また、そもそも『竹取』稼業は、当時は普通の百姓以下の、田畑の耕作さえ許されなかった賤民であったため、賤民の家に育った娘が、当時の最高位の皇室の貴族達の求婚や天皇の召命までも拒否し、さんざん高貴な男達を振り回すという風刺であり、明治以降の日本では、不敬罪にも問われかねないような皇室・天皇批判の民話であるとも言われます」


 その名前からいって、沈赤花さんは中国の方かもしれませんが、なかなか鋭い指摘だと思います。また、高畑監督の考えもそれに近いかもしれません。
 でも、やはり、わたしはそんな深読みよりも、この世界最古の長編物語を単純に月にまつわるファンタジーとして読みたいです。

 世界最古の長編物語は日本人が生み出しました。
 そして、それはロマンティックな月の物語でした。
 日本人は月が好きです。日本文化を考えるうえでのキーワードは「自然」ですが、松尾芭蕉は、自然を「造化(ぞうか)」と呼びました。
 「造」はつくりだすこと、「化」は形を変えることです。英語の「ネイチュア」と見事に一致していますね。すなわち、ネイチュアとは、物ではなく運動なのです。そして日本の自然において、「雪月花(せつげつか)」がそのシンボルとなります。
 つまり、雪は季節の移り変わり、時間の流れを表わし、月は宇宙、空間の広がりを表わします。花は時空にしたがって表われる、さまざまな現象そのもののシンボルといえるでしょう。「かぐや姫の物語」では、雪も月も花もこの上なく美しく描かれていました。満開の桜の花も見事でしたが、雪の上に横たわるかぐや姫の頭上に月が出ている場面は、ため息が出るほど美しかったです。

 「造化」の三大要素の1つが「月」である意味はとても大きいと思います。
 日本では、明治の初めまで暦は中国にならって太陰暦を使っていました。いうまでもなく、太陰暦というのは月を基本にした暦であり、農耕のプランもそれによって決められていました。当然、日本人の生活全体にわたって月が深く関わってきたことがわかります。日本人の月好きは、太陽暦が採用された明治以降もほとんど変わりません。やっと昭和30年になって、石原慎太郎が小説「太陽の季節」を発表し、その翌年、弟の裕次郎の主演で映画化され、大ヒットしました。このヒットで「太陽族」という流行語まで生まれましたが、それも全体の流れからすれば単なる一時的な現象にすぎません。
 『古事記』の中の「天の岩戸」の物語など、いくつかの物語を除いて、日本文学史のほとんど全体が「太陽の時代」というよりも「月の時代」でした。
 それは、日本人の感性が月とぴったり合うからにほかなりません。

 『古事記』や『日本書紀』には月読尊(ツキヨミノミコト)という月の神様が登場し、『万葉集』では月を「月人壮子(つきひとおとこ)」などと呼んでいます。
 そして、日本には世界最古の長編小説である『竹取物語』というロマンティックな月の物語があります。また、月の美を描いた物語としては、『源氏物語』の須磨巻、『平家物語』の月見の章も有名です。
 平安時代に入ってからは、多くの歌人が月光のただならぬ美しさを和歌に詠みました。「三五夜中新月の色、二千里の外故人心」という中国の詩人・白楽天の詩句が平安時代の貴族に愛され、時間と空間を超えて、見る者に過去や未来、それに遠く離れた人を思わせる不思議な力の持ち主としての月が歌われました。これこそが、日本人の見出した月の美でした。

 「かぐや姫の物語」では、生き物たちも生き生きと描かれていました。
 蜘蛛に蛙にウリ坊・・・・・幼い姫が関心を寄せたものたちです。
 また、山に咲く桜をはじめ、さまざまな花々、草木・・・・・。
 すべてが、まばゆいばかりの"いのち"の輝きを放っていました。
 高畑勲氏が作詞した劇中歌の「わらべ唄」および「天女の歌」には、「鳥 虫 けもの 草 木 花」というフレーズがあり、映画の中で何度も登場します。わたしは、そこに仏教的メッセージ、つまりブッダの思想を見た想いがしました。
 「ブッダの慈しみは、イエスの愛も超える」と言った人がいましたが、仏教における「慈」の心は人間のみならず、あらゆる生きとし生けるものへと注がれます。
 わたしは、『図解でわかる!ブッダの考え方』(中経の文庫)で、ブッダの「慈悲」について詳しく書きました。

 わたしは今、上座部仏教の根本経典である「慈経」の自由訳に取り組んでいます。そのため、「慈」というものについて毎日考えています。
 『死が怖くなくなる読書』(現代書林)で、わたしが取り上げた「死」の本は、いずれも「人間の死」についての本でした。例外は、人魚の死を描いたアンデルセンの『人魚姫』、異星人の死を描いたサン=テグジュペリの『星の王子さま』です。他にも、わたしは新美南吉の『ごんぎつね』が子どもの頃からの愛読書です。『ごんぎつね』は狐にまつわる童話ですが、鶴にまつわる『つるのおんがえし』、鬼にまつわる『泣いた赤鬼』などの日本の童話も好きでした。それぞれ、最後には狐や鶴や鬼が死ぬ物語で、残された者の悲しみが描かれています。当然ながら、異星人も人魚も狐も鶴も鬼も人間ではありません。でも、彼らも人間と同じ「いのち」であることには変わりはありません。
 人間の死に対する想いは「人間尊重」としての「礼」になります。そして、あらゆる生きとし生けるものの死に対する想いは「慈」となります。
 「礼」が孔子的だとすれば、「慈」はブッダ的であると言ってもいいでしょう。

 『竹取物語』は、もともと仏教説話として書かれたと言われています。
 『竹取物語』では月の美しさの前にはまったく無力な人間たちを登場させることで、月の美しさをきわだたせています。そこには日本人の月への憧れの強さが端的に語られていますが、幸田露伴は「日本の古き物語の一に就きて」において、『仏説月上女経』という仏書が『竹取物語』の種本であると明言しています。
 さらに、わたしが『ロマンティック・デス~月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)で詳しく述べたように、仏教と月には切っても切れない深い関係があります。
 ブッダは満月の夜に生まれ、満月の夜に悟りを開き、満月の夜に亡くなったそうです。ブッダは、月の光に影響を受けやすかったのでしょう。言い換えれば、月光の放つ気にとても敏感だったのです。わたしは、やわらかな月の光を見ていると、それがまるで「慈悲」そのものではないかと思うことがあります。

 ブッダとは「めざめた者」という意味ですが、めざめた者には月の重要性がよくわかっていたはずです。「悟り」や「解脱」や「死」とは、重力からの解放です。
 ミャンマーをはじめとする上座部仏教の国では、今でも満月の日に祭りや反省の儀式を行ないます。仏教とは、月の力を利用して意識をコントロールする「月の宗教」だと言えるでしょう。わたしは、もともと月に魅せられた人間で、いつか月面に人類共通の慰霊塔を建て、地球上からレーザー光線で魂を送る「月への送魂」という儀式を行いたいと思っています。その意味で、月の宗教である上座部仏教の寺院「世界平和パゴダ」において、「月への送魂」をはじめ、月光浴や満月瞑想など、さまざまな行事を企画すれば素敵だなと思います。

 ブッダといえば、「かぐや姫の物語」のラスト近くで月からの使者が来たとき、巨大な雲のような乗り物にブッダのような人物が乗っていました。他にも多くの月人たちがいましたが、彼らは一様に楽器を奏でていました。
 それに対して、地上の武士たちは武器で身を固めています。
 これを観て、わたしは「すべての武器を楽器に!」というミュージシャン・喜納昌吉氏の言葉を思い出しました。喜納氏はペリーの"黒船"がもたらした文明開化のお返しに、平和を象徴する"白船"によってアメリカに平和開花を迫ろうと、「白船~White Ship of Peace~」を1998年に実施しました。
 月からの使者たちはまさに"白船"に乗って地球上にやって来たわけですが、高畑勲氏はもしかして喜納昌吉氏のアイデアにヒントを得たのでしょうか?
 以前、東宝とフジテレビが総力をあげて製作した超大作「竹取物語」では、月から巨大なUFOが姫を迎えに来るというSF的設定でした。監督が巨匠・市川崑で、当時の"絶世の美女"とされた沢口靖子を主演に据え、「世界のミフネ」こと三船敏郎まで出演したのに、この映画は残念ながらヒットしませんでした。
 やはり設定が現代過ぎるというか、深みがなかったのでしょうね。

 そして、この映画は何よりも映像美が素晴らしかったです。
 淡い色彩の水墨画のような描線がなめらかに動き、登場人物たちの心を雄弁に表現していました。アニメーションという芸術は、ここまで人間の感情を見事に描けるものかと感動をおぼえました。
 「この映像は何かの作品に似ている」とずっと思って観ていたのですが、それが「スノーマン」であることに気づきました。淡いタッチもそっくりですし、かぐや姫と捨丸が一緒に空を飛ぶシーンがスノーマンと少年の飛行シーンを彷彿とさせました。どちらも夢だったわけですが・・・・・。

 いずれにせよ、2013年公開の「かぐや姫の物語」をもって、1958年の「白蛇伝」に始まった日本の長編アニメという芸術ジャンルはピークに達したのではないでしょうか。日本の長編アニメの歴史は、宮崎駿と高畑勲の両監督が所属するスタジオジブリが支えてきました。宮崎監督は、わたしのブログ記事「風立ちぬ」で紹介した映画をもって72歳で引退を表明しました。高畑監督も今年で78歳になります。おそらく、この「かぐや姫の物語」が最後で最高の作品になるのではないでしょうか。考えてみれば、宮崎監督の「となりのトトロ」と高畑監督の「火垂るの墓」というお互いの代表作が同時上映されたことが、今では夢のようです。


 最後に、わたしは日曜日にこの映画を1人で観ました。
 本当は、2人の娘たちと一緒に観たかったです。
 なぜなら、わたしは2人の娘を「姫」だと思って育ててきたからです。
 最初に、竹取の翁が光る竹の中から女の子を見つけたとき、翁は「これは天からの授かりものに違いない」と言います。それとまったく同じで、子どもというのは基本的に「天からの授かりもの」であり、「天からの預りもの」だと思います。
 それは、わたしの娘たちだけでなく、世の中の子どもはみんなそうなのです。

 映画の最初のほうで、幼い姫が近所の子たちに「たーけの子!」とはやし立てられ、よろよろ歩くシーンがあります。それを見ていた翁は愛しさのあまり、たまらず駆け寄り、姫を抱き上げます。その翁の目には光るものがありました。
 それを観たわたしも、なんだか泣けてきました。
 2人の娘たちが赤ちゃんだった頃を思い出しました。
 かぐや姫が月に帰るとき、翁は「姫のオムツを替えるとき、どんなにわしが嬉しかったか」と言う場面があります。これにも深く共感しました。

 わたしのブログ記事「面倒くさいこと」にも書きましたが、「面倒くさいこと」の中にこそ、人間の幸せがあるのではないでしょうか。
 考えてみれば、赤ちゃんのオムツを替えることだって、早起きして子どもの弁当を作ることだって、寝たきりになった親の介護をすることだって、みんな「面倒くさいこと」です。でも、それらは親として、子として、やらなければならないこと。
 そして、子どもが成長した後、また親が亡くなった後、どうなるか。
 わたしたちは「あのときは大変だったけど、精一杯やってあげて良かった。あのとき、自分は幸せだった」としみじみと思うのです。
 それが「面倒くさいこと」のままであれば、どうなるか。行き着く果ては、赤ん坊を何人も捨ててしまう鬼畜のような親が出現するのではないでしょうか。

 ということで、この映画だけは娘と一緒に観たかったのです。
 しかし、中学2年生の次女は25日から始まる期末試験で映画どころではありません。東京に住んでいる長女に「今度、東京に行ったとき、一緒に観ないか?」とメールしたのですが、「忙しくて、当分ムリ。観たら、感想をブログに書いてね」という返信が来ました。ついでに、「あたし何年か前から、かぐや姫ディズニーにならないかなって思ってたけど、ジブリだったか」というメールも届きました。
 ああ、親父はつらいよ。いつか、DVD化されたら家族で観たいです。
 映画館の売店に、かぐや姫の赤ちゃんストラップが売っていました。
 1400円もしましたが、迷わず購入。その表情が長女にも次女にも似ていたからです。そう、娘とは父親にとっての永遠の「姫」なのかもしれません。

20131124204626.jpg
どことなく、2人の娘たちに似ていますヾ(´ε`*)ゝ エヘヘ

  • 販売元:ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社
  • 発売日:2014/12/03
PREV
HOME
NEXT