No.0132
日本映画「四十九日のレシピ」を観ました。
そのタイトルからして「これは仕事上、観るべき映画だな」とは思いました。
その一方で、「なんか地味そうな感じだなあ」と思ったことも事実です。
でも、観て良かったです。しみじみと感動することのできる作品でした。
原作は伊吹有喜原作の小説で、NHKドラマとしても放映されています。それを「百万円と苦虫女」、「ふがいない僕は空を見た」などのタナダユキ監督が映画化しました。それぞれに傷つきながら離れ離れになっていた家族の、亡き母の四十九日までの日々を過ごす間に再生への道を歩む姿が描かれています。
新旧の演技派俳優が豪華共演を果たしていますが、淡々としたストーリーの中に繊細な人間ドラマが描かれており、観る者に静かな感動を与えてくれます。
熱田良平(石橋蓮司)は、妻の乙美を亡くします。彼は、愛妻の急死で呆然自失としますが、2週間が過ぎた頃、派手な身なりのイモ(二階堂ふみ)という若い女性が熱田家を訪問してきます。突然現われたイモは、亡き乙美から自身の「四十九日」を無事に迎えるためのレシピを預かっているといいます。
良平がイモの出現に目を白黒させているとき、夫(原田泰造)の不倫で、離婚届を突き付けてきた娘の百合子(永作博美)が東京から戻って来るのでした。
主演は百合子役の永作博美ですが、わたしは彼女が昔から大のお気に入りでした。アイドル時代から好感を持っていましたが、女優になってからもその演技力に魅せられてきました。たとえば、「その日のまえに」や「八日目の蝉」などの演技も素晴らしかったです。百合子の父親を日本を代表する名バイプレイヤーの石橋蓮司、不思議な女性イモを、わたしのブログ記事「地獄でなぜ悪い」で狂気の熱演を見せてくれた二階堂ふみ、さらに日系ブラジル人青年ハルを今や若手ナンバーワン男優の岡田将生が演じています。そして、この映画、なにより超ベテラン女優の淡路恵子が素晴らしい存在感を示していました。
難を言えば、岡田将生演じたハルのキャラが浮いているというか、映画全体の中で違和感がありました。また、原田大蔵演じる百合子の夫と不倫をする愛人の女性が絵に描いたような「泥棒猫」で、ステレオタイプ過ぎるように感じました。ちょっと、やりすぎですね。もっと愛人を「いい人」として描いたほうが、百合子の苦悩も深まりますし、ドラマ全体にも深みが出たように思います。
この映画、わたしのブログ記事「そして父になる」で紹介した映画にも通じる、現代日本の家族における諸問題を見事に提示しています。
継母、不妊、親の介護、不倫、離婚といった悩ましいテーマもオンパレードで、「よくぞ、ここまで」といった感じで家族の危機を描いています。
それでも、この映画に限りない家族への希望のようなものが感じられるのは、ひとえに亡くなった母、つまり死者の存在によるものでしょう。
そう、生きている人間は死者によって支えられているのです。
百合子は、亡くなった母の乙女の人生を年表にすることを思いつきます。
それを「四十九日」の大宴会で発表したいと考えたのです。
しかし生涯、わが子を産まなかった乙女の人生は変化に乏しいものでした。
自身も子を産んでいない百合子は、「子どもを産まなかった女の人生は、こんなにも空白が多いものか」といって嘆きます。
しかし、現実の永作博美は今年6月に第二児を出産したばかりでした。
また、多くの恵まれない子どもたちのお世話をしてきた乙女の人生は、じつは空白など存在しない豊かなものでした。
わたしは、この場面を観て、どんな人の人生も極上の物語であると思いました。
そして、その物語を本人も周囲の人々も把握しておくためにも、『思い出ノート』(現代書林)のようなものが必要であると痛感しました。
さらに、わたしは「四十九日」というものの意味に思いを馳せました。四十九日とは、仏教でいう「中陰」であり「中有」です。死者が生と死、陰と陽の狭間にあるため「中陰」と呼ばれるわけですが、あの世へと旅立つ期間を意味します。
すなわち、亡くなった人があの世へと旅立つための準備期間だとされているのです。しかし四十九日には、亡くなった方が旅立つための準備だけではなく、愛する人を亡くした人たちが故人を送りだせるようになるための「こころの準備期間」でもあります。
ある意味で「精神科学」でもある仏教は、死別の悲しみを癒すグリーフケア・テクノロジーとして「四十九日」というものを発明したのかもしれません。
亡くなった直後ならショックが大きいけれども、四十九日を迎えた後は、少しは精神状態も落ち着いています。日本人がいかに「四十九日」というものを心の支えにしてきたかは、 わたしのブログ記事「親子の再会」をお読み下さい。
最後に、乙女の四十九日の大宴会には、多くのフラガールが参加して、優雅に踊ります。もともと、フラダンスとは盆踊りと同じく、死者の霊を慰めるためのものでした。わたしは、この映画のフラダンスのシーンを観ながら、わが社の「隣人祭り」でフラを踊られる方々の姿を思い浮かべました。
宴会の終わりには、「アロハ オエ」も流れて、みんなで踊りますが、この歌こそは最愛の人との別れの歌です。これほど、センチメンタルでロマンティックで悲しい歌もありません。
この映画は『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)で取り上げました。