No.0205
映画「ボクは坊さん。」を観ました。 この映画は10月24日(土)に全国公開の作品で、わたしはサンプル版のDVDで観ました。ずっと画面の左上に「SAMPLE」の文字が映っており、最初は目障りでしたが、観ているうちに気にならなくなってきました。
なぜ、わたしが公開前のこの作品を観たかというと、一般社団法人・全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)の広報・渉外委員会からDVDとパンフレットが送られてきたからです。このサンプル版を観て、全互協として映画広告をするかどうかを検討してほしいとのことでした。
映画「ボクは坊さん。」製作委員会には、埼玉の冠婚葬祭互助会であるセレモニーさんが参加されています。また、同社の志賀司社長は「ボクは坊さん。」の製作統括者でもあります。志賀社長からは以前からこの映画の話をお聞きしていました。東京での試写会にも誘われていたのですが、予定が合わず、参加することができませんでした。
原作は、白川密成著『ボクは坊さん。』(ミシマ社)です。
著書は、1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働きますが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任します。同年、糸井重里編集長の人気サイト「ほぼ日刊イトイ新聞」において、「坊さん――57番札所24歳住職7転8起の日々――」の連載を開始、08年まで231回の文章を寄稿しています。
映画「ボクは坊さん。」の公式HPの「イントロダクション」には「日々迷い不安もある。そんなボクが、24歳でお寺の住職になり、自分の道を見つけるまで。」として、以下のように書かれています。
「白方光円、24歳。突然の祖父の死をきっかけに、四国八十八ヶ所霊場、第57番札所・栄福寺の住職になったばかり。この寺で生まれ育ったけれど、住職として足を踏み入れた"坊さんワールド"は想像以上に奥深いものだった! 初めて見る坊さん専用グッズや、個性豊かな僧侶との出会いにワクワクしたり、檀家の人たちとの関係に悩んだり。お葬式や結婚式で人々の人生の節目を見守るのはもちろん、地域の"顔"としての役割もある。職業柄、人の生死に立ち合うことで"生きるとは何か?死ぬとは何か?"と考えたりもする。坊さんとしての道を歩み始めたばかりの光円に何ができるのか。何を伝えられるのか。光円は試行錯誤を繰り返しながら、人としても成長していく・・・・・・。」
また「イントロダクション」には、「演技派キャスト&『ALWAYS三丁目の夕日』のスタッフが、『栄福寺』住職の実体験をもとにした原作を映画化!」として、以下のように書かれています。
「24歳で突然坊さんになった主人公・白方光円を説得力たっぷりに演じるのは、シリアスからコメディーまで幅広くこなす演技派・伊藤淳史。 温かく人情味にあふれ、"こんな坊さんに近くにいてほしい"と誰もが思うような、魅力的な光円像を体現している。
光円を取り巻く人々を演じるのは、山本美月、溝端淳平、濱田岳、松田美由紀、そしてイッセー尾形など、個性的なキャストたち。それぞれに味わい深い演技で各キャラクターを好演。感動のドラマを盛り立てる。
原作は、栄福寺の住職・白川密成氏が実体験を生き生きとつづった話題の書籍「ボクは坊さん。」。糸井重里氏が主宰するWEBサイト『ほぼ日刊イトイ新聞』で約7年間にわたり連載されていた人気エッセイが、書籍化を経て、満を持しての映画化となる。監督は、『ALWAYS三丁目の夕日'64』で監督助手を務めるなど、第一線でキャリアを積んできた新鋭・真壁幸紀。待望の長編映画監督デビュー作で、笑いあり涙ありの心温まるエンターテインメントを作り上げた。スタッフも、日本アカデミー賞最優秀撮影賞を3度受賞している撮影の柴崎幸三をはじめ『ALWAYS』シリーズのベテランがずらり。スクリーンに映し出される四国や高野山の美しい風景も、本作の見どころの一つとなっている」
さらに「イントロダクション」には「生きるとはどういうこと? 人間は死んだらどうなるの? 心に響く、生きるヒントの数々。」として、以下のように書かれています。
「『ボクは坊さん。』で描かれるのは、身近な存在ながらも、一般人はあまり知る機会のないお坊さんの日常。お坊さんだって悩みも迷いもあるし、心が折れることもある。お酒も飲むし恋もする。不器用ながらも真摯に、周りの人に心を配りながら、人生の疑問一つ一つに自分なりの答えを見つけ出そうとする光円。日々を丁寧に、自分らしく生きるその姿に、勇気をもらったり、共感する人も多いにちがいない。さらに本作には、『近くして、見難きは、我が心』、『自分は自分一人で自分なのではない。まわりの世界があってここにある』、『起きるを生と名付け、帰るを死と称す』・・・・・・など、人の暮らしの役に立つ仏の教えもちりばめられている。2015年は、弘法大師空海が高野山を開創してからちょうど1200年の節目の年。記念イヤーに、"坊さんワールド"にどっぷりつかって、長年語り継がれてきた教えにあらためて耳を傾けてみてはいかが。その言葉が心の癒しとなったり、生きる上でのヒントをくれるはずだ。 見ると心がふわっと軽くなり、何気ない日々が愛おしくなる。笑って、泣いて、人生にちょっぴり前向きになれる。珠玉の感動作が誕生した」
公式HPの「ストーリー」には以下のように書かれています。
「かつて弘法大師空海が開いたとされ、今は"お遍路さん"として巡礼する人も多い四国八十八ヶ所霊場。その第57番札所、愛媛県今治市の栄福寺で生まれ育ったボク、白方進(伊藤淳史)。仏の教えの聖地・高野山の山上都市にある高野山大学で修業をおさめ、お坊さんとしての資格といえる"阿闍梨(あじゃり)"の位を得て、実家の寺に帰って来た。が、今はすっかり髪も伸び、地元の本屋で書店員として働いている。進のことをずっと"和尚"と呼び続けている幼馴染の京子(山本美月)と真治(溝端淳平)は、進がお坊さんになることを期待しているようだが、進にはまだその決心がつかない。一方母・真智子(松田美由紀)、父・一郎(有薗芳記)、祖母・宣子(松金よね子)は進の思いを尊重してくれている様子だ。
高野山大学時代の友人はというと、孝典(渡辺大知)は実家の寺に入ったが、広太(濱田岳)は進と同じく、お坊さんにならず一般企業に就職していて、境遇が同じもの同士、電話で語り合ったりすることもある」
続いて、「ストーリー」には以下のように書かれています。
「そんなある日のこと、栄福寺の住職で進の祖父である瑞円(品川徹)が病に倒れ、寺に住職がいなくなる事態に。進は、いつも自分を優しく見守ってくれた瑞円とのやりとりを思い出す。幼い進が、『人間ってしんだら死んだらなーんもなくなっちゃうの?』と聞いた時、じいちゃんは『そういうことが気になるんか。そしたら坊さんになれ』と言ってくれた・・・・・・。自分が進むべき道がはっきりと見えた進は、瑞円が考えてくれていた僧名・光円に改名し、お坊さんになることを決心する。それを見届けるかのようにして、その翌日、瑞円は『起きるを生と名付け、帰るを死と称す』と言葉を残し、遷化(せんげ:高僧が亡くなること)した」
続いて、「ストーリー」には以下のように書かれています。
「こうして、光円は24歳にして、栄福寺の住職となった。 知っているようで知らなかったお寺の世界は、奥が深い。さまざまな坊さん専用グッズ、個性豊かな僧侶たち、初めて聞く仏教用語・・・・・・。檀家の人たちとお寺について意見交換をする総代会では、"噠噺(たっしん)"の意味がわからず、恥をかいてしまった。噠噺は、葬儀に参列してくれたお坊さんに渡すお布施のことだが、大学でも教わらなかった。現場で学ぶべきことなのだが、光円にはこれまでその機会がなかったのだ。 そんなある日、光円は京子に誘われ、真治が働くバーに飲みにいくことに。すると、2人に話があるという京子が、なんと突然結婚宣言。お相手は職場の同僚のトラック運転手だという。京子に頼まれ、結婚式を執り行う光円。そう、お寺は結婚式も執り行うのだ。
光円が少しずつ住職としての経験を積んでいく一方、広太は会社を辞めて引きこもりになっていた。光円と孝典は、引きこもる広太を連れ出し、共に学んだ高野山へタクシーを走らせる。翌朝、弘法大師空海がご入定される奥の院に向かい、御廟橋前で並び立つ光円、孝典、そして広太。
あの頃のように、『母も父も、そのほか親族がしてくれるよりも、さらに優れたことを、正しく向けられた心がしてくれる』と仏陀の教えを唱える3人。すがすがしい1日が始まった」
続いて、「ストーリー」には以下のように書かれています。
「現代の暮らしにも仏の教えが役立つことを一般の人々にも伝えたい、と立派な演仏堂を建設するなど、お寺のことを考え、さまざまなアイディアを出して実行していく光円。だが、栄福寺の檀家の長老・新居田(イッセー尾形)は、『近くして、見難きは、我が心』という弘法大師空海の言葉を光円に伝える。それは、場所よりも、まずは自分の心を整えろという新居田からのメッセージで、自分なりに一生懸命やっている光円はがっくり。そんな光円を励ましてくれるのは、お腹が大きくなった京子だった。
だがほどなくして光円のもとに、悪い知らせが。京子がお産の最中に脳内出血を起こしたらしい。無事男の子が生まれたものの、京子は意識不明のまま・・・・・・。このままずっと目覚めないかもしれないと医者に聞かされた京子の夫は、京子と離婚してしまう。自分に何ができるのかと悩む光円・・・・・・。そんな光円の姿を見た新居田は、初めて光円に心を開く」
そして、「ストーリー」には以下のように書かれています。
「光円は新居田との会話をきっかけに、引き取り手のない京子の赤ちゃんを預かると決意。一方、真治は『俺たちにとって京子は本当に生きていると言えるのか?』と葛藤する気持ちを光円にぶつける。光円は、秘密の教えを説き、『京子との関係は今までと何も変わっていないと思える』と答えるが、真治に本心を問われ何も答えることができなかった・・・・・・。そして自分の無力さを改めて痛感した光円は、心が折れて倒れ込んでしまう。
そんな時、光円の元へ訃報が飛びこんでくるのだった・・・・・・。 若くして栄福寺の住職になり、お坊さんとしての道を歩み始めたばかりの光円。折れた心を癒し、再び前を向いて、周りから信頼される立派なお坊さんになることができるのか?人の生死に向き合う中で、光円が感じた"生きること""死ぬこと"とは?そして光円が決めた自分なりの生き方とは?」
「ボクは坊さん。」を観た率直な感想は、ふつうの青年が僧侶になっていく成長物語(ビルディングス・ストーリー)としてはよく描けているのですが、そこで終わってしまっているところが「もったいないな」と思いました。現在38歳の白川密成氏が24歳のときのエピソードに最も重点が置かれており、「未熟さ」ばかりが印象に残る気がしました。本当は今は立派な僧侶になられているのでしょうから、そこをしっかり描いてほしかったです。
特に気になったのは、幼馴染の京子と真治から葬式について聞かれたとき、僧侶になったばかりの光円は「葬式以外にも、いろいろ仕事はあるんよ!」と必死になって弁明する場面です。明らかに葬儀という営みを軽く見ており、違和感がありました。拙著『永遠葬』(現代書林)にも書きましたが、葬儀こそは宗教の核心です。特に、日本人の葬儀のほとんどは仏式葬儀です。よく「葬式仏教」とか「先祖供養仏教」とか言われますが、これまでずっと日本仏教は日本人、それも一般庶民の宗教的欲求を満たしてきたことを忘れてはなりません。その宗教的欲求とは、自身の「死後の安心」であり、先祖をはじめとした「死者の供養」に尽きるでしょう。そのことを主人公にはもっと理解してほしかったです。
後に光円はイッセー尾形演じる栄福寺の檀家の長老・新居田の葬儀の導師を務めます。この場面はなかなかの導師ぶりで良かったのですが、葬儀後の法話で「ボク」と言っているのはいただけませんでした。わたしは成人の男性で自分のことを「ボク」と言う人間をあまり信用しないことにしているのですが、いつまでも甘い少年気分のままではいけません。しかも、僧侶が葬儀後の法話で自分を「ボク」と言うとは何事か! 監督もここで光円が一人前の僧侶になったことを表現したいのであれば、「私」と呼ばせるべきでしょう。もっとも、原作にも「ボク」と書いてあったのでしょうか?
原作の話になりましたが、『ボクは坊さん。』というタイトルからは、一般の人々に僧侶に親しみを持ってほしい、あるいは「僧侶というのは別に偉くないんですよ。みなさんと同じ人間なんですよ」といった媚びる姿勢を感じてしまいます。しかし、『寺院消滅』で紹介した本がいま話題になっていますが、日本仏教は存亡の危機に立っています。
また、「無縁社会」とか「葬式は、要らない」などといった言葉が登場するのも、日本仏教の僧侶たちから「宗教者としてのオーラ」が消えたことが大きな原因であると思います。詳しくは、ブログ「仏教連合会パネルディスカッション」をお読み下さい。僧侶は親しみやすいだけではいけません。檀家をはじめとした一般の人々は「宗教者としてのオーラ」「聖職者としての威厳」を僧侶に求めているのです。その意味で、光円の祖父であり先代住職であった瑞円にはそれがありました。
そもそも『ボクは坊さん。』に書かれてある寺院業界内のエピソード(たとえば、戒名印刷用プリンターとか、僧侶用のバリカンとか、般若心経や木魚の着信音など)、そんなものは面白くもなんともありません。そういう覗き見趣味的な内容は現役の僧侶が書くべきことではないでしょう。
寺院とか葬儀社といった存在はただでさえ世間から誤解されやすい部分を持っていますので、気をつけなければいけません。『ボクは葬儀屋さん』的なタイトルの本もよく目にしますが、たいていは初めて扱った遺体の臭いがすごかったとか、周囲から偏見の目で見られたとか、くだらない内容のものが多いように思います。たしかに実体験に基づくエピソードは大切ですが、そこで終わってしまっては小学生の作文と変わりません。そこから「死とは何か」「葬儀とは何か」といった思想を語らなければなりません。そう、体験を抽象化するという作業が必要なのです。そもそも体験至上主義というやつは、私小説の悪しき伝統にも通じます。ブログ『納棺夫日記』で紹介した青木新門氏の名著には、体験談プラス崇高な思想がありました。
葬儀の本といえば、最近、ブログ『葬送の仕事師たち』で紹介した本が話題になっています。わたしも読みましたが、葬儀業界を覗き見的に描いた内容で残念でした。それに通じる危うさを「ボクは坊さん。」にも感じました。もっと「聖なる仕事」としてのプライドを持ってほしいです。
とまあ、いろいろ厳しいことも書いてきましたが、この「ボクは坊さん。」はなかなか興味深い映画でした。ヒロインの山本美月も可愛くて、一発でファンになりました(笑)。ただ、彼女があまりにも可愛いので、画面から浮いているきらいもありましたが・・・・・・。いや、ほんとに。
それから主人公である光円の父親の一郎がトボけた良い味を出していました。そもそも彼は先代住職の瑞円の息子なのですが、なぜ跡を継いで住職にならなかったのでしょうか。寺には住んでいるのに・・・・・・うーん、謎が残りますね。松田美由紀が演じる光円の母親の真智子、松金よね子が演じる祖母の宣子もホンワカして良い感じでした。この家族の温かい雰囲気は、「ALWAYS 三丁目の夕日」に通じるものがありましたね。
最後に、この映画は「高野山開創1200年記念」作品だそうです。 そのため、高野山周辺や高野山大学の様子なども映画に登場しました。
ブログ「高野山」に書いたように、わたしは今年の5月8日に高野山を訪れました。そのとき食事した「ミッチー中華飯店」も映画に登場して懐かしかったです。「高野山開創1200年記念」を謳うからには、本当はもっと弘法大師・空海の教えなどを紹介してほしかったところですが、光円が法事で語った「生と死」の話が少しだけ空海の教えに言及していました。
それは、「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く 死に死に死に死んで死の終わりに冥し」という言葉です。これは『秘蔵宝錀』という空海の言葉に出てくる有名な言葉ですが、わたしは『超訳 空海の言葉』(KKベストセラーズ)で「闇から出て、闇に帰る」として、以下のように訳しました。
「人間は誰しも暗闇の中から生まれてきて、死ぬときはまた暗闇に帰っていく。なぜ、人は生まれて、死ぬのか? それは誰にもわからない」
ただ、この言葉を法話で紹介するとき、光円が「ボクはそのように思うんです」と、自分の考えとして話したのが気になりました。 おいおい、それは弘法大師の言葉だって(笑)!
面白い映画ですので、10月公開の際には、ぜひ御覧下さい!