70回目の「終戦の日」の前日、日本映画「日本のいちばん長い日」を観ました。映画館は、最も皇居に近い上映館である有楽町マリオンの「丸の内ピカデリー」。ブログ「終戦のエンペラー」に書いたように、2年前の夏に「終戦」をテーマにしたアメリカ映画を観た「丸の内ピカデリー」でした。すさまじいほどに超満員でした。

 ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。

「半藤一利のノンフィクションを基にした群像歴史ドラマ大作。太平洋戦争での日本の降伏決定から、それを国民に伝えた玉音放送が敢行されるまでの裏側を見つめていく。メガホンを取るのは、『クライマーズ・ハイ』『わが母の記』などの原田眞人。キャストには『わが母の記』などの役所広司、『おくりびと』などの本木雅弘、『ツナグ』などの松坂桃李ら実力派が集結し、昭和天皇や阿南惟幾陸相をはじめとする実在の人物を熱演する。身をていして現在の平和の礎を築いた人々の思いに引き込まれる」

 また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。

「1945年7月。太平洋戦争での戦況が悪化する日本に対して、連合軍はポツダム宣言の受託を迫る。連日にわたって、降伏するか本土決戦に突き進むかを議論する閣議が開かれるが結論を一本化できずにいた。やがて広島、長崎に原爆が投下され、日本を取り巻く状況はさらに悪くなっていく。全国民一斉玉砕という案も取り沙汰される中、阿南惟幾陸軍大臣(役所広司)は決断に悩み、天皇陛下(本木雅弘)は国民を案じていた。そのころ、畑中健二少佐(松坂桃李)ら若手将校たちは終戦に反対するクーデターを画策していた」

 この「日本のいちばん長い日」はリメイク版です。
 大宅壮一原作、岡本喜八監督によってオリジナル版が1967年(昭和42年)に公開されています。それから約50年の歳月が流れようとしていているわけです。当時は昭和天皇をはじめ、登場人物の存命者が多い中で製作され、それなりの苦労があったと推察されますが、わたしは傑作であると思いました。70年前の終戦当時の日本人がいかに祖国を愛していたがよく描けていました。

 終戦当時の鈴木貫太郎首相を笠智衆、自決することで陸軍の暴走を阻止した阿南惟幾陸軍大臣を三船敏郎、いち早く終戦のために動いた米内光政海軍大臣を山村聰といった、当時の日本映画界を代表する豪華キャストが熱演しました。「日本映画演劇陣総出演」がキャッチフレーズでした。

 なお、昭和天皇がご家族とともにこの映画を公開年の12月29日に鑑賞していたことが、2014年(平成26年)9月に公表された『昭和天皇実録』で明らかにされています。昭和天皇は、どのようなお気持ちで御自身も登場されるこの映画を御覧になられたのでしょうか?

  67年版で昭和天皇ご自身を演じたのは、松本幸四郎(八代目)でした。
 そして、今回の「日本のいちばん長い日」で昭和天皇を演じたのは本木雅弘です。「おくりびと」で美しい納棺師を演じ、世界中から賞賛を浴びた彼が天皇を演じる・・・・・・この事実に、わたしの胸が熱くなりました。そして、スクリーン上での彼の演技は素晴らしいものでした。本当に、本木雅弘こそは最も美しい日本男児ではないかと思います。松竹で製作される映画に天皇が登場するときは歌舞伎役者が演じるのが定番ですが、この映画に限っては本木雅弘に白羽を矢を立てたことが大正解であったと思います。

 「おくりびと」で本木雅弘と共演した山崎努は鈴木貫太郎首相を好演していました。かつて笠智衆が演じた役ですが、見事に鈴木首相になりきっていました。この映画の冒頭から昭和天皇と鈴木首相の絡み、すなわち本木雅弘と山崎努の絡みが出てきて、「おくりびと」の名シーンを連想しました。なお、この映画における昭和天皇は最高の教養人として描かれていましたが、実際にその通りであったと思います。冒頭に皇居に生えている植物を観察されながら、昭和天皇が「この戦争は応仁の乱と同じだねえ。もう15年も続いている」とつぶやく場面は味わい深く、東條英機に対して自身のナポレオン観を述べられる場面は圧巻でした。一方、鈴木貫太郎はどことなくユーモラスな好々爺といった感じでした。

 昭和天皇が登場するシーンでは、やはり「終戦のエンペラー」を思い出します。昭和天皇の実像に迫る名作でした。
 あの映画で、マッカーサーと初対面を果たした天皇は、まず一緒に写真を撮影します。あまりにも有名な天皇とマッカーサーのツーショット写真です。天皇は写真を撮り終え一度は椅子に腰掛けます。しかし、すぐに立ち上がってマッカーサー元帥に自身の偽らざる思いを述べます。そう、戦争に対する自らの責任について心のままに述べるのです。

 このシーンを見て、わたしは涙がとまりませんでした。歴代124代の天皇の中で、昭和天皇は最もご苦労をされた方です。その昭和天皇は、自身の生命を賭してまで日本国民を守ろうとされたのです。昭和天皇が姿を見せるシーンは最後の一瞬だけでしたが、圧倒的な存在感でした。
  そういえば、「日本のいちばん長い日」の67年版でも、松本幸四郎(八代目)が扮する昭和天皇は一瞬しか登場しませんでした。それも後姿がメインでした。わたしは、実際の天皇の存在感というのも、この映画の「一瞬にして圧倒的」という表現に通じるのではないかと思います。

 天皇はけっして自身の考えを直接口にすることはなく、昭和天皇の戦争に反対する気持ちも祖父である明治天皇御製の歌に託するほどでした。
 その昭和天皇がたった一度だけ、自らの意思で、勇気を持って断行したのがポツダム宣言の受諾であり、玉音放送を国民に流すことでした。それは昭和天皇自身の生命の危険を招く行為であり、そのあたりは「日本のいちばん長い日」を観てもわかります。

 「日本のいちばん長い日」ですが、それなりに興味深くはありましたが、深い感動を得られたかというと「否」でした。全体的に日本史に残る激動の数日を冷静に、あるいは冷徹に描いているという印象を持ちました。
 そもそも戦艦大和が沈められた時点から物語が始まっているのに、つまり敗戦色が濃厚なのに閣議の描写に緊迫感というものが感じられません。ここが67年版との大きな違いでした。また、67年版における広島原爆、長崎原爆の場面には犠牲者の痛々しい亡骸が映し出されていたのに、今回のリメイク版にはそのようなリアルな描写が皆無です。2つの原爆の場面も一瞬だけキノコ雲が映っただけでした。強い違和感が残りました。さらに、東條英機元首相を必要以上に醜悪に描いているのも不愉快でした。

 本当は、この映画を観ることにあまり気乗りはしませんでした。というのも、原作者である半藤一利氏の歴史認識に疑問を持っているからです。
 「戦後70年記念」を謳う作品ならば、本当は半藤氏などより渡部昇一氏の作品を原作にしてほしかったです。わたしが「現代の賢者」と尊敬する渡部氏は、「昭和とはどういう時代か」を深く洞察されている優れた歴史家です。
 渡部氏は多くの著者で、マッカーサーが朝鮮戦争を経験して日本の置かれた立場に立ったことで日本の戦争は「自衛」であったと証言した事実を日本では報道していないことを伝えておられます。渡部氏の一連の著書を読んで、わたしは先の戦争の真実というものを学ばせていただきました。

 半藤氏に話を戻しましょう。ブログ『歴史小説の罠』で紹介した本で、著者の東京国際大学教授である福井雄三氏は、半藤氏の代表作『ノモンハンの夏』の論理は破綻していると喝破し、第5章「司馬史観を受け継いだ半藤史観」において次のように述べています。

「半藤一利氏といえば、『歴史探偵団』なるキャッチフレーズを揚げ、歴史に取材した数多くの作品を発表し、現代史に関しては当代を代表する第一人者とみなされている。彼は生前の司馬遼太郎と肝胆相照らした交わりを結び、司馬作品を最も高く評価し、かつまたその作品に大きく影響され、自他ともに認める司馬史観の後継者である」

 また、福井氏は半藤史観について、次のように分析します。

「昭和史に対する半藤氏の歴史観は、2つの大きなトーンをベースに構成されている。1つは陸軍悪玉・海軍善玉という善悪二元論である。もう1つは日清・日露戦争までの明治を栄光の時代と捕らえ、昭和前期の歴史を暗黒と破綻の時代と捕らえる、これもまた明治善玉・昭和悪玉の善悪二元論である」

 1933年、海軍軍令部は軍令部に改められ、陸軍参謀本部とまったく同等同格の組織に昇格しました。福井氏によれば「海軍は陸軍から飛び出して、別個の独立王国を作ってしまった」のです。これによって海軍は陸軍とはまったく関係なしに、独自の国防戦略を策定することが可能になりました。日露戦争の日本海海戦における「バルチック艦隊撃破」という目もくらむような偉業によって、海軍そのものが神格化されてしまいました。しかし、それ以降の海軍の神秘のイメージが、このような滅茶苦茶な横紙破りをまかり通らせてしまい、日本の国防に大問題を引き起こしたというのです。

 この海軍の暴走について、福井氏は次のように述べています。

「古今東西、戦争で最後の決着をつけるのは陸軍の役目である。人間は水中生物ではない。陸上生物である。海軍の役割はあくまでも、陸軍の作戦を補佐して助ける女房役に徹することである。資源の確保と物流の運搬輸送、軍隊の動員と戦地への派遣、補給の確保、そしてそれを達成するための手段としての敵艦隊との決戦。これすべて陸軍の戦いに奉仕するための行動である。いかなる戦争も基本は陸主海従である。決して海主陸従ではない」

 この福井氏の発言を読んで、わたしはブログ「聯合艦隊司令長官 山本五十六」で紹介した映画を思い出しました。ちなみに、この映画の原作者も半藤一利氏です。連合艦隊とは、2個以上の艦隊で編成された日本海軍の中核部隊です。ブログ「白い雲と紫の雲」に書いたように、日露戦争の際には東郷平八郎が司令長官を務め、日本海海戦で奇跡の大勝利をあげました。山本五十六は太平洋戦争時の連合艦隊司令長官であり、東郷平八郎の後輩に当たります。

 「日本のいちばん長い日」では、阿南惟幾陸軍大臣を役所広司が熱演しました。67年版では当時の「日本映画界の至宝」であった三船敏郎が演じた役ですから、役所広司ももはや「日本映画界の至宝」なのでしょう。
 これまで、わたしは阿南惟幾という人についてよく知らなかったのですが、この映画を観て、非常に男らしく人間臭い素晴らしいリーダーであることがわかりました。海軍の山本五十六、陸軍の阿南惟幾・・・・・・役所広司は大東亜戦争における陸海のハートフル・リーダーの2人を見事に演じ切りました。ちなみに、2人とも非常に家族愛の強い人物として描かれています。
 ちなみに、67年版で阿南が終戦決定後に鈴木首相にこれまでの非礼を詫び、南方土産の葉巻を進呈する場面は泣けますが、今回のリメイク版でもこの名場面が描かれていました。笠智衆と三船敏郎、山崎努と役所広司・・・・・・時代を超えた名優の饗宴に、わが魂は大いに揺さぶられました。

 また、昭和天皇と阿南の心の交流にも胸を打たれました。 皇居の防空壕で開かれた臨時閣議の後で、阿南は天皇から呼び出されます。何事かと緊張する阿南に対し、天皇は阿南の娘の結婚式が無事に開けたかと問います。じつは阿南の長女が帝国ホテルで結婚披露宴を行う予定でしたが、空襲で帝国ホテルが休業に追い込まれたと聞き、天皇が心配して阿南に問うたのです。阿南は「九段の軍人会館で無事に行うことができました」と報告するのですが、天皇がそんな自分のプライベートな事にまで心配してくれることに感激し、おそらくは「この方のために命を捧げよう」と思ったのでしょう。 わたしは、この場面を観て、リーダーが部下に言葉をかけることの大切さを思い知りました。わたしも普段から社員のみなさんには積極的に声がけするようにはしていますが、まだまだです。

 昭和天皇は阿南のどうでもいいプライベートな事を心配したわけではありません。愛娘の結婚式という重大事だから心配したのです。阿南の長女とその婚約者は「時節柄、婚礼は延期したほうがいいのでは?」と言いますが、阿南は「いや、こんな時節だからこそ、しっかりと結婚式を挙げておきたいんだ」と言います。このシーンは、結婚式が「人の道」であり、時代を超えた最優先事であることを雄弁に語っています。もちろん、葬儀も「人の道」です。昔の人たちは、冠婚葬祭の意義と重要性をよく理解していたことを知り、わたしは大いに感動しました。

 ラスト近くの阿南の割腹シーンはまったく湿っぽくなく、「これぞ日本男児」という感じのカラッとした潔い死に様で、「爽やかさ」さえ感じました。ある意味で、この映画は「死が怖くなくなる映画」かもしれないと思いました。 ブログ「蜩ノ記」で紹介した、やはり役所広司が主演した映画を思い出します。あの映画でも、彼は最後に自ら腹を切って死にました。この映画で最もわたしの心に響いたセリフは、役所が演じた主人公・秋谷の「死ぬことを自分のものとしたい」という言葉でした。

 武士道こそは「人生を修める」「死ぬことを自分のものとする」思想の体系でした。『葉隠』に「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」とあるように、かつての武士たちは常に死を意識し、そこに美さえ見出しました。生への未練を断ち切って死に身に徹するとき、その武士は自由の境地に到達するといいます。そこでもはや、生に執着することもなければ、死を恐れることもなく、ただあるがままに自然体で行動することによって武士の本分を全うすることができ、公儀のためには私を滅して志を抱けたのです。

 「武士道といふは死ぬ事」の一句は実は壮大な逆説であり、それは一般に誤解されているような、武士道とは死の道徳であるというような単純な意味ではありません。武士としての理想の生をいかにして実現するかを追求した、生の哲学の箴言なのです。その意味で、いつも軍刀を携えて、日頃から剣の修行を絶やさず、そして自らの生を自らの手で修めた阿南は武士そのものであったと思います。

 阿南が実際に割腹自決したのは15日の早朝でしたが、彼は付き添いの者に「14日だったことにしてくれ」と言い残します。14日は彼の亡父の命日だったのです。また、「本当は息子の命日である20日にしたかった」とも言います。彼は自分が死ぬ日にも意味を求めていたのです。もちろん、陸相としての彼の死が残された軍人たちへ与える影響を考えれば意味を求めるのは当然かもしれません。しかし、わたしはそれだけではないと思いました。日にち、すなわち数字に意味を与えるというのは冠婚葬祭や記念日の根底にある精神です。七五三も長寿祝いも結婚記念日も命日も、すべては数字に意味を与えることであり、それは結局、人生を肯定にすることにつながるのではないでしょうか。阿南は自分の人生を大いに肯定しながら死んでいったのです。

 『坂の上の雲』を書いた司馬遼太郎は、「明治という国家」を非常に高く評価する一方で、「昭和という国家」をきわめて低く評価していることで知られます。その司馬史観が半藤史観に受け継がれているわけですが、「明治という国家」の最大の事件こそ、大国ロシアを破って日露戦争に勝利を収めたことでした。その日露戦争の本質について、司馬は『坂の上の雲』で「要するにロシアはみずからに敗けたところが多く、日本はそのすぐれた計画性と敵軍のそのような事情のためにきわどい勝利をひろいつづけたというのが、日露戦争であろう」と書いています。

 そして、さらに司馬は日露戦争以後の日本が、せっかく一度はのぼりつめた坂の上から転がり落ちていった理由について、次のように書いています。

「戦後の日本は、この冷厳な相対関係を国民に教えようとせず、国民もそれを知ろうとはしなかった。むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴呆化した。日露戦争を境として日本人の国民的理性が大きく後退して狂躁の昭和期に入る。やがて国家と国民が狂いだして太平洋戦争をやってのけて敗北するのは、日露戦争後わずか四十年のちのことである」

 このように、司馬遼太郎は昭和を「痴呆」と「狂躁」の時代と見ているわけですが、昭和にも東郷平八郎や秋山真之のように時局を的確にとらえ、非凡なリーダーシップを発揮した日本人がいたのです。その1人こそ、山本五十六でした。

 しかし、山本五十六だけの力では海軍の暴走を止めることはできませんでした。海軍の暴走の結果、日本はアメリカに惨敗しました。それは、人類の戦争の歴史を見ても例がないほどの大敗北であるとして、福井氏は『歴史小説の罠』に次のように書いています。

「大東亜戦争で戦死した日本の軍人は200万強といわれるが、その過半数100万以上が餓死と病死だった。かたやアメリカ軍の戦死は10万にも満たない。死者の数を比べればまさに一方的ななぶり殺し、ワンサイドゲームであった。たとえ負けるとしても、アメリカからこのような一方的なやられっぱなしになろうとは、日本も予想外だった。日米戦争で日本陸軍は、独ソ戦におけるソ連軍よりもはるかに一方的になぶり殺しにされ、史上類例のないワンサイドゲームになった」

 戦争に負けるとは、どういうことでしょうか。
 著者は、「敗戦の本当の傷」について述べます。

「戦争に負けるということは恐ろしいことである。ただ単に国土が破壊されただけの物的・経済的な損失であれば、日本のような勤勉な国民ならすぐに回復できる。しかしたたきつぶされた民族の誇りは一朝一夕には元に戻らない。日本は敗戦後70年近くになんなんとしながら、いまだに国軍も持てず、憲法改正もなされていない」

 そう、いまだに国軍も持てず、憲法改正もなされていない日本。 隣国の脅威が増大し、いつ有事が起こっても不思議ではない中、安保法案1つにヒステリックに反応し、時代遅れのデモなどを繰り返す「平和ボケ」した日本人には失望するばかりです。無償で享受できる平和などない・・・・・・「日本のいちばん長い日」を観終わって、そのことを強く感じました。 なんとしても、わたしたちは子孫のために日本を守らなければなりません。

 ところで、最近、某宗教学者が「英霊などというのもは、もう忘却したほうがいい」とラジオで発言したことを知り、愕然としています。靖国神社を否定するのも、遺灰を火葬場に捨ててくるのも、その根底にある「死者軽視」の精神は同じです。しかし、死者を軽んじる民族に未来はありません!
 70回目の「終戦の日」となる明日、わたしは万感の想いを胸に靖国神社を参拝し、皇居を訪れます。なぜか今、武者奮いしている自分がいます。

  • 販売元:松竹
  • 発売日:2016/01/06
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