1965年に製作され、今年初めて化された幻のアメリカ映画「バニー・レークは行方不明」をDVDで観ました。
ブログ『トラウマ映画館』で紹介した映画評論家の町山智浩氏の著書で、この映画の存在を始めて知りました。それ以来、ずっと観たかったのですが、日本ではビデオもDVDも出ておらず、まさに「幻の映画」でした。それが、このたび、初めてDVD化されて発売されたのです。
早速、アマゾンで購入し、クリスマス・イヴの夜に観ました。いやあ、衝撃を受けました。同じく『トラウマ映画館』で知った、ブログ「ある戦慄」で紹介したアメリカ映画以来の恐怖を味わいました。
アマゾンの「商品説明」には以下のように書かれています。
「ある日突然少女が消えた・・・誘拐?それとも彼女など初めからいなかったのか? アメリカからロンドンにやってきたシングル・マザーのアン・レーク(C・リンレー)は、特派員をしているロンドン在住の兄、スティーブン(K・デュリア)が前もって手配してくれた保育園に娘のバニーを預ける。アパートで荷物を解いた後、バニーを迎えにいくが娘の姿はどこにもなく、保育園の校長や職員もそんな娘の姿は見なかったと言い、名簿にもバニーの名前は記載されていなかった。通報を受け、捜査にあたったニューハウス警視(L・オリヴィエ)に求められ、バニーの写真を見せようとしアンだったがアパートに残された荷物の中には写真どころかバニーの存在を示すものは何一つ見つからなかった・・・バニーを目撃した者がいないため、警視は、そもそもバニーは存在していなかったのではないかとの疑念を持つ。そしてスティーブンは警視に、子供の頃、孤独だったスティーブンとアンは遊びの中で"イマジナリー・フレンド"(想像の友人)にバニーと名付けていたことを話す。消えた娘の行方は? それとも娘は母親の妄想なのか? 名匠オットー・プレミンジャー監督が描く傑作ミステリー!」
この映画の原作は女性作家イヴリン・パイパーによるパルプ小説なのですが、「パリ万博事件」という実際の事件をモチーフとしているそうです。
「パリ万博事件」とは、次のような事件でした。
1889年、イギリス人の母娘がパリ万国博覧会を見物に来て、市内のホテルに宿泊しました。2人部屋を希望したのですが、あいにく満室だったため、母娘はそれぞれ1人部屋に泊まりました。翌朝、娘が母の部屋をのぞくと、そこには母の荷物はなく、人が泊まった形跡すらありませんでした。母親は忽然と姿を消したのです。娘は「母がいないわ!」と叫び、大騒ぎになります。しかし、集まったホテルの従業員たちは、娘に向かって「お客様、あなたは1人でいらっしゃったんですよ」と告げるのです。このエピソードは実話とされており、アメリカでは有名だとか。ただ、新聞記事などの証拠が確認できないため、いわゆる「都市伝説」の1つと思われているとのこと。
この事件の真相については、「パリ万博の消えた貴婦人と客室」というサイトに書かれている内容が詳しいです。
そして、この事件からは数え切れない小説、映画、TVドラマが生まれました。最も有名なのは、アルフレッド・ヒッチコック監督の「バルカン超特急」(38年)です。ヨーロッパを横断する列車内で、ヒロインが居眠りしている間に同室の貴婦人が消えます。目をさまして動揺するヒロインに対して、乗務員や乗客たちは「そんな貴婦人など最初から見なかった」と言うのです。
また21世紀の作品では、ジョディ・フォスター主演の「フライトプラン」(05年)が思い浮かびます。ドイツからアメリカへ向かう飛行機の機内、母が眠っている間に幼い娘が消えてしまうのです。乗務員は「最初から1人で搭乗し、娘などいなかった」と言い、周囲にいた乗客たちは「憶えていない」と一同に言う。これは、「パリ万博事件」と母娘の役割が逆転しているわけですね。町山氏は、これらの映画について次のように述べています。
「これらの映画で、主人公たちは周囲から異常者扱いされ、そのためにかえって取り乱し、孤立し、自分でも自分が狂っているのかもしれないと思うほどに追い詰められていく。このカフカ的不条理ゆえに『消えた旅行者』の物語は人々を魅了してきた」
この「カフカ的不条理」とは、『トラウマ映画館』では紹介されていませんが、アンジェリーナ・ジョリーが主演した「チェンジリング」(08年)にも通じるテーマです。「チェンジリング」は、いわゆる「取替え子」をテーマにしたスリラーですが、1920年代のロサンゼルスで実際に起こった「ゴードン・ノースコット事件」を素材としています。わが子が明らかに他の子どもと入れ替わっているのに、警察はそれを絶対に認めず、逆に母親を異常者扱いする場面は恐怖そのものでした。いま思い出しても、本当に怖かった!
「バニー・レークは行方不明」に話を戻します。 この映画、ヒッチコックの「サイコ」(60年)とかワイラーの「コレクター」(65年)といった名作スリラー映画にも通じる人間の精神の恐怖も描いているのですが、ネタバレになるので詳しい内容には触れません。とにかく、1人の人間が本当に存在しているのか、最初から存在していなかったのか、それがわからなくなるという恐怖は半端ではありません。町山氏は、「バニー・レークは行方不明」に代表される「消えた旅行者」を扱った映画は、単なるサスペンスを超え、観る者に実存的不安を与えると述べています。
わたしは「実存的不安」という言葉に触れて、わたしが講演などでよく言及する「孤独葬」のことを連想しました。孤独葬とは、誰も参列者のいない葬儀のことです。わたしは、いろんな葬儀に立ち会いますが、中には参列者が1人もいないという孤独な葬儀が存在するのです。そんな葬儀を見ると、わたしは本当に故人が気の毒で仕方がありません。亡くなられた方には家族もいたでしょうし、友人や仕事仲間もいたことでしょう。なのに、どうしてこの人は1人で旅立たなければならないのかと思うのです。もちろん死ぬとき、誰だって1人で死んでゆきます。でも、誰にも見送られずに1人で旅立つのは、あまりにも寂しいではありませんか。故人のことを誰も記憶しなかったとしたら、その人は最初からこの世に存在しなかったのと同じでしょう。 わたしは、葬儀が「人間の尊厳」に直結していることを『葬式は必要!』(双葉新書)で訴えましたが、大きな反響がありました。
最近では、『永遠葬』(現代書林)において、孤独葬が「人間の尊厳」はもちろん、「実存的不安」にまでつながっていることを述べました。
孤独葬は、「実存的不安」の問題そのものです。つまり、その人の葬儀に誰も来ないということは、その人が最初から存在しなかったことになるという不安です。「無の恐怖」と言い換えてもいいでしょう。葬儀を行わないで遺体を火葬場で焼き、遺灰もすべて捨ててしまう「0葬」は、1人の人間がこの世に生きた証拠をすべて消し去ってしまう行為です。
まさに「0の恐怖」とは「無の恐怖」のことなのです。
逆に、葬儀に多くの人々が参列してくれるということは、亡くなった人が「確かに、この世に存在しましたよ」と確認する場となるのです。 「となりびと」は「おくりびと」でもあります。わたしは、孤独な高齢者の方々を中心に、1人でも多くの「となりびと」を紹介する「隣人祭り」を開催しています。というわけで、本書を読んだわたしは、今後も「隣人祭り」をはじめとした隣人交流イベントを開催し続けていく決意を固めたのでした。
というわけで、今年のイヴの夜は、人間の「孤独」について考えました。