12日(土)に公開されたばかりの日本映画「母と暮せば」を観ました。
率直な感想として、戦後70年という「死者を想う」年の締めくくりにふさわしい名作であると思いました。"泣き虫"のわたしは、観る前から「絶対に泣く」とわかっていましたので、タオルハンカチを映画館に持参しました。
ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。
「『父と暮せば』などの戯曲で有名な井上ひさしの遺志を名匠山田洋次監督が受け継ぎ、原爆で亡くなった家族が亡霊となって舞い戻る姿を描く人間ドラマ。原爆で壊滅的な被害を受けた長崎を舞台に、この世とあの世の人間が織り成す不思議な物語を映し出す。母親を名女優吉永小百合が演じ、息子を『プラチナデータ』などの二宮和也が好演。ほのぼのとした中にも戦争の爪痕を感じる展開に涙腺が緩む」
また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。
「1948年8月9日、長崎で助産師をしている伸子(吉永小百合)のところに、3年前に原爆で失ったはずの息子の浩二(二宮和也)がふらりと姿を見せる。あまりのことにぼうぜんとする母を尻目に、すでに死んでいる息子はその後もちょくちょく顔を出すようになる。当時医者を目指していた浩二には、将来を約束した恋人の町子(黒木華)がいたが・・・・・・」
「母と暮せば」は、いわゆる幽霊映画です。しかし、その「幽霊」とは恐怖の対象ではありません。あくまでも、それは愛慕の対象としての幽霊です。生者にとって優しく、愛しく、なつかしい幽霊、いわば「優霊」であります。
ブログ『怪談文芸ハンドブック』で紹介した本で、著者の東雅夫氏は欧米の怪奇小説における「gentle ghost」というコンセプトを紹介しながら、次のように述べています。
「『gentle ghost』とは、生者に祟ったり、むやみに脅かしたりする怨霊の類とは異なり、絶ちがたい未練や執着のあまり現世に留まっている心優しい幽霊といった意味合いの言葉で、日本とならぶ幽霊譚の本場英国では、古くから『ジェントル・ゴースト・ストーリー』と呼ばれる一分野を成しています。私はこれに『優霊物語』という訳語を充ててみたことがありますが、あまり流行らなかったようです・・・・・」
このジェントル・ゴースト・ストーリーは、英米で流行しましたが、日本にも見られる文芸ジャンルです。古くは『雨月物語』の「浅茅が宿」から、近くは山田太一の『異人たちとの夏』、赤川次郎の『ふたり』、浅田次郎の『鉄道員』『あやし うらめし あな かなし』『降霊会の夜』、さらには荻原浩の『押入れのちよ』、なども典型的なジェントル・ゴースト・ストーリーですね。
これまで多くのジェントル・ゴースト・ストーリーが映画化されてきました。
ブログ「天国映画」で紹介したように、ハリウッドでは「オールウェイズ」、「ゴースト~ニューヨークの幻」、「奇跡の輝き」などが有名です。
また、ブログ「ラブリー・ボーン」で紹介した映画などが代表です。 日本でも、「異人たちとの夏」「ふたり」「あした」といった一連の大林宣彦作品、「鉄道員」、「黄泉がえり」、「いま、会いにゆきます」、「ツナグ」、さらにはブログ「ステキな金縛り」、ブログ「トワイライト ささらさや」、ブログ「想いのこし」、ブログ「岸辺の旅」などで紹介した映画などがあります。そこには、「幽霊でもいいから、今は亡き愛する人に会いたい!」という生者の切実な想いがあります。わたしは、映画というメディアはもともと「死者との再会」という古来からの人類の願いを疑似体験させるものだと考えています。
「母と暮せば」も亡き息子の幽霊が母のもとに出現するという典型的なジェントル・ゴースト・ストーリーなのですが、そのエンディングはこれまでの作品とは明らかに違っていました。これまでの作品については、「母と暮せば」の映画パンフレットの特別寄稿を書いている小説家の綿矢りさ氏が次のように述べています。
「物語に現れる死者の霊は、エンディング近くになると、優しく生者を突き放すのが定番だ。死んだ直後はあまりにも突然で、事実を受け入れられなかったが、お別れをちゃんと言いたかったから現れた、あなたと再び話せた今は悔いはない。私は一人で逝く、あなたはまだ早い、と微笑みを浮かべて、天国へ導かれていく。残された者は涙するが、死者が発したメッセージを大事に受け取って、また前を向いて生きる決心を固める」
しかし、「母と暮せば」のエンディングには、「ああ、こういう終わり方があるのか」ということを気づかせてくれる素敵なラストが用意されていました。まるで、ブログ『マッチ売りの少女』で紹介したアンデルセンの童話のようなハートフルなラストでしたが、その背景にはアンデルセン童話に通じるキリスト教の宗教観を感じました。ちなみに、伸子も浩二もクリスチャンでした。
詳しく書くとネタバレになってしまいますが、「母と暮せば」のラストには、いわゆる「お迎え現象」が描かれています。東京大学大学院医学系研究科・医学部救急医学分野教授にして東京大学医学部附属病院救急部・集中治療部部長である矢作直樹氏はわたしとの対談本である『命には続きがある』(PHP研究所)で、次のように語っています。
「『お迎え現象』というのがあります。これは、亡くなる前の人が、死に臨み、先に逝った両親や祖父母などの身内や友人の姿を目撃する現象です。周囲の人間には見えません。『お迎え現象』についてすこしだけ説明させてください。東北大学医学部臨床教授、医療法人爽秋会理事長だった岡部健氏、在宅緩和医療の第一人者の方で、医療スタッフや研究者の協力のもとで、10年以上、患者さんの家族にアンケート調査を行なってきたそうです。残念なから2012年9月に亡くなられました。岡部教授の調査によれば、42%の方が何らかのお迎え現象を体験し、体験者の52%がすでに亡くなった家族や知人を見たり、感じたといいます。中には、光や仏といった存在との遭遇も報告されています」
続いて、矢作氏は「お迎え現象」について以下のように語ります。
「この調査は、文部科学省の研究助成金を得て実施されたそうです。こうしたテーマに国の助成金がつくのは、きわめて珍しいことでした。岡部先生はそれまで、少しでも延命治療をすることが患者さんにとって良いと思っていたが、がん患者さんたちとの多くの交流を通して、次第にそれは患者さんの求めていることではない、それよりも豊かに死んでいくことを望んでいると知り、愕然とされたそうです。そこから在宅緩和ケアという領域に進出され、その道の第一人者になられました。ちなみに、岡部先生がいらっしゃった宮城県内でも、仙台市は在宅看取り率が政令指定都市で第1位だそうです」
「母と暮せば」のラストでは、母は亡き息子に連れられて天国へと旅立ちますが、この映画そのものが最初から最後まで「お迎え現象」を描いた作品であるという見方もできます。
さて、「母と暮せば」には先行する作品がありました。
その名も「父と暮せば」(2004年)という映画です。井上ひさし原作の同名小説を黒木和雄監督が映画化したドラマです。こちらは長崎ではなく広島原爆から生き延びた娘と、原爆によって命を失って幽霊となった父親の交流をハートフルに描く物語です。
人類史上初の原爆が投下されてから3年後の広島で、愛する家族を一瞬の閃光で失った美津江(宮沢りえ)は図書館に勤めていました。彼女の前に、原爆資料を収集している木下という青年(浅野忠信)が現れます。木下に好意を示され、美津江も彼に魅かれていきますが、自分だけが生き残ったことに負い目を感じている美津江は、自分の恋心を押さえつけようとしていました。そんなとき、亡くなった父の竹造(原田芳雄)が現れるというジェントル・ゴースト・ストーリーです。山田監督によれば、「母と暮せば」は、「父と暮せば」へのオマージュだといいます。
「父と暮せば」で重要な役を演じた浅野忠信が「母と暮せば」でも戦争で片脚を失って帰還した教師の黒田を演じています。彼は、ブログ「岸辺の旅」で紹介した湯本香樹実原作の映画化したでも主演していましたが、同じ作者の小説の映画化であるブログ「ポプラの秋」で紹介した作品で主演した子役の本田望結も「母と暮せば」に父親を戦争で失った小学生役で出演しており、今年の日本映画界の重要人物が一同に会したような印象がありました。さらには、ブログ「小さいおうち」で紹介した山田洋次作品で第64回ベルリン国際映画祭最優秀女優賞(銀熊賞)を受賞した黒木華までもが準主役で出演するという豪華版です。復員局での黒木華と本田望結のやりとりは素晴らしい演技で、涙なしには観ることができませんでした。
涙といえば、本田望結が演じたのは、母が亡くなり父も戦死、それでも2人の妹を守ろうと必死に涙をこらえる小学2年生の少女・民子です。一方、付き添いで復員局に同行した民子の担任教師である黒木華演じる町子は、父親の戦死を知らされても健気に涙をこらえる民子の横で声をあげて号泣します。後日、「民子ちゃんが泣かなかったのに、教師のわたしが泣いてばかりで・・・いったい何のための付き添いなのか。教師としての自信を失くしました」と言う町子に対して、吉永小百合演じる伸子は「それは違う。きっと、その子はあなたが泣いてくれて嬉しかったはずよ」と優しく慰めるのでした。
わたしは、人間というものは大いに涙を流すべきであると思っています。
『涙は世界で一番小さな海』(三五館)にも書きましたが、人間というものは涙を流すのです。悲しいとき、寂しいとき、辛いとき、他人の不幸に共感して同情したとき、感動したとき、そして心の底からの喜びを感じたとき、大いに涙を流すべきだと思います。その涙とは、アンデルセンがいったように「世界で一番小さな海」なのです。わたしたちは、小さな海をつくることができるのです。そして、その小さな海は大きな海につながって、人類の心も深海でつながります。たとえ人類が、宗教や民族や国家によって、その心を分断されていても、いつかは深海において混ざり合うのではないでしょうか。
ただ、「母と暮らせば」では、二宮和也演じる浩二の幽霊が悲しくなって涙を流したとたん、彼は消えてしまうのでした。この映画では、涙は死者と生者を引き離す存在でした。それから、伸子から恩師や知人が原爆の後に亡くなったことを聞いた浩二が涙を流したのが印象的でした。そこでは、死者が死者を悼むという行為が描かれていたのです。
原爆で即死した浩二には、町子という恋人がいました。
二人は将来の約束までしていましたが、死別によって結婚することはできませんでした。亡き浩二の妻として一生独身を貫き通そうとする町子に対して、伸子は「浩二のことは忘れて、いい人を見つけて結婚してね」と言います。「自分以外の男と町子が結婚するなんて絶対に嫌だ」と言っていた浩二も、いつしか死者である自分は町子を幸せにすることができないのだと悟り、彼女の結婚を認めます。このあたりの感情の機微はあまりにも切なく、わたしはタオルハンカチを濡らしました。思ったのですが、やはり相手と結婚できない男女には別れが待っています。
たとえば、妻子ある男性が若い独身の女性と恋に落ちて、いわゆる「不倫」の関係になった場合、妻子を捨てて不倫相手と再婚するならば話は別ですが、それが出来ないのなら、早かれ遅かれ別れが訪れるでしょう。
じつは、わたしは人生相談の類をよく読むのですが(いつか自分も人生相談のコラムを書きたいと思っているのです)、最近、「日経ビジネスオンライン」に連載されているコラムニストの島地勝彦氏の「古い恋はさっさと殺してしまいなさい」があまりにも素晴らしくて唸りました。「週刊プレイボーイ」の元編集長である島地氏は「不倫相手の女性の結婚に苦しんでいます」という相談者に対して、以下のようなアドバイスをします。
「妻子と別れてその女と一緒になることを選ばなかった相談者には、嫉妬に苦しむ権利も、女に未練を引きずる権利もない。相談者に許されているのは、彼女の幸せを願うことだけだ」
もちろん、不倫と死別とでは明らかに次元が違います。 しかしながら、妻子ある男性も、亡くなった男性も、ともに相手の女性と結婚することができない点では同じです。悲しいことではありますが、結婚できない者は結婚可能なライバルに絶対に敵わないのです。
「母と暮らせば」では、やはり葬儀について考えさせられました。愛する息子である浩二は原爆によって焼き殺されたため、伸子のもとには遺体はおろか遺骨も遺灰も届きませんでした。伸子は浩二の「死んだ証拠が欲しい!」と強く思います。わたしは、その悲しいシーンを観ながら、4年9ヵ月前の「東日本大震災」の津波の犠牲者のことを連想しました。 わたしは『のこされた あなたへ』(佼成出版社)という東日本大震災で愛する人を亡くした方々に向けた本を書き、2011年末に上梓しました。
東日本大震災では、これまでの災害にはなかった光景が見られました。それは、遺体が発見されたとき、遺族が一同に「ありがとうございました」と感謝の言葉を述べ、何度も深々と礼をしたことです。従来の遺体発見時においては、遺族はただ泣き崩れることがほとんどでした。しかし、この東日本大震災は、遺体を見つけてもらうことがどんなに有難いことかを遺族が思い知った天災であったように思います。しかし、よく考えてみれば、広島や長崎での原爆の犠牲者の遺体の多くも発見されなかったのです。そして、遺族は遺体のないまま死別の悲しみに堪えなければなりませんでした。遺体をきちんと安置して葬儀があげられるというのは、とても幸せなことなのです。また、ラストの教会での葬儀のシーンも良かったです。死は不幸な出来事ではなく、天国に帰るだけだというキリスト教の「帰天」のイメージが見事に描かれていました。ある意味で、ハッピーエンドだと思いました。
最後に、この映画は「長崎原爆」をテーマとした作品です。
冒頭、天国を連想させるカラーの雲海のシーンから一転してモノクロの1945年8月9日の長崎上空のシーンに変りました。そして、「第一目標地である小倉が視界不良であったため、第二目標地の長崎に標的を変更した」というテロップが大きくスクリーンに映し出され、わたしの胸はいっぱいになりました。長崎原爆によって7万4000人もの尊い生命が奪われ、7万5000人にも及ぶ人々が傷つきました。現在でも苦しんでおられる方々がいます。そして、もう何度も書いてきたことですが、当時、わたしの母は小倉の中心にいました。原爆が投下されていたなら母の命は確実になく、当然ながら、わたしはこの世に生を受けていませんでした。長崎の方々に心からの祈りを捧げずにはいられません。
死んだはずの人間が生きているように行動することを「幽霊現象」といいます。考えてみれば、小倉の住人はみな幽霊のようなものです。
それにしても都市レベルの大虐殺に遭う運命を実行日当日に免れたなどという話は古今東西聞いたことがありません。普通なら、少々モヤがかかっていようが命令通りに投下するはずです。当日になっての目標変更は大きな謎ですが、いずれにせよ小倉がアウシュビッツと並ぶ人類愚行のシンボルにならずに済んだのは奇跡と言えるでしょう。 その意味で、小倉ほど強運な街は世界中どこをさがしても見当たりません。
その地に本社を構えるサンレーのミッションとは、死者の存在を生者に決して忘れさせないことだと、わたしは確信しています。
小倉の人々は、原爆で亡くなられた長崎の方々を絶対に忘れてはなりません。いつも長崎の犠牲者の「死者のまなざし」を感じて生きる義務があります。なぜなら、長崎の方々は命の恩人だからです。しかし、悲しいことにその事実を知らない小倉の人々も多く存在しました。そこで、10年以上前から長崎原爆記念日にあわせて、サンレー北九州では毎年、「昭和20年8月9日 小倉に落ちるはずだった原爆。」というキャッチコピーで「毎日新聞」「読売新聞」「朝日新聞」「西日本新聞」に意見広告を掲載しています。
また、ブログ「北九州市原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」で紹介したように、長崎原爆70年となる今年の8月9日、わたしは小倉の勝山公園で行われた「北九州市原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に参列しました。
もちろん、先の戦争で尊い命を失くされたのは長崎原爆の犠牲者だけではありません。広島原爆をはじめ、各地の戦場で多くの日本人が亡くなりました。「母と暮らせば」では、福原家の長男、すなわち浩二の兄が母である伸子の夢枕に立つシーンが登場します。その長男はビルマ戦線で戦死したのでした。わたしは、このシーンを観て、ブログ「パゴダの防人、逝く」で紹介した故三木恭一さんのことを思い出しました。若い頃には兵士としてビルマ戦線に立ち、戦後は宗教法人世界平和パゴダの理事であり、パゴダを長年支えてこられた方です。三木さんの通夜は今年の7月19日19時、葬儀は20日12時より門司港紫雲閣にて行われました。生前、三木さんは「ビルマは地獄だった。戦艦大和の連中はうまいものを食わせてもらったが、わたしたちは食べるものがなかった。特攻隊の連中は英雄として記憶されているが、ビルマで死んだ戦友のことは誰も知らない」と言われていました。
わたしは、三木さんが終戦70年の今年までお元気でいてくれたことに心から感謝しています。現時点で先の戦争に従軍された方は少なくなりました。拙著『ハートフル・カンパニー』(三五館)所収の「終戦60周年に思う 月面聖塔は地球の平等院」という終戦60年直後の2005年9月に書いた文章があります。そこで、わたしは以下のように書きました。
「60年といえば人間でも還暦にあたり、原点に返るとされます。事件や出来事も同じ。どんなに悲惨で不幸なことでも60年経てば浄化される『心の還暦』のような側面が60周年という時間の節目にはあると思います。また現在、私どもの紫雲閣でお葬儀を執り行なうとき、神風特攻隊で生き残られた方など、戦争で兵士として戦った最後の方々の葬儀がまさに今、行なわれていることを実感します。おそらく10年後の終戦70周年のときには戦争体験者はほとんど他界され、『あの日は暑かった』式の体験談を聞くことはないでしょう。過去の記憶と現実の時間がギリギリでつながっている結び目、それが60周年であると言えるのではないでしょうか」
しかし、終戦60年から10年後の終戦70年の年にも、三木さんはわたしたちに戦争体験を語って下さり、戦友たちの供養をされてきたのです。本当にありがたいことです。おそらく、三木さんが人生を旅立って行かれるときには多くの戦友のみなさんが迎えに来られたのではないでしょうか。わたしには、そのように思えてなりません。わたしたちがこの平和を味わうことができるのも、多くの死者に支えられてのことです。わたしは、70年前の長崎原爆(小倉原爆)の犠牲者の方々のことを絶対に忘れず、この命を与えられたことを感謝し続けていきたいと思います。
戦後70年を記念して出版した『唯葬論』(三五館)や『永遠葬』(現代書林)にも書きましたが、死者を忘れて生者の幸福など絶対にありえません!
「母と暮せば」を観終わって、わたしは「死はけっして不幸な出来事ではない」、そして「死者を忘れてはならない」というわが信条を再確認することができました。戦後70年となる大きな節目の年の師走にこの映画を観ることができて、本当に良かったです。今年、このように素晴らしい映画を発表して下さった山田洋次監督と松竹株式会社に深く感謝いたします。
ラスト近くで伸子と浩二が映画の話をする場面が出てきます。ともに映画好きの親子の会話を楽しんだ後で、浩二は「アメリカちゅう国はおかしな国やねぇ。あんな素晴らしい映画も作れば、原爆も作る・・・」と言いますが、この言葉はアメリカのみならず、文明社会そのものへの警鐘でもありました。
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