No.0233
映画「追憶の森」をシネプレックス小倉で観ました。
先に観賞した当ブログの読者の方から「まさにグリーフケアの映画なので、一条さんは観られたほうがいいですよ。ぜひ『死が怖くなくなる映画』にも取り上げて下さい」と言われました。13日までは1日に数回上映されていましたが、14日からは18時20分からの回だけになっていました。
ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。
「『ミルク』などのガス・ヴァン・サント監督が、『The Black List 2013』(製作前の優秀脚本)に選出された脚本を映画化。死に場所を求めて青木ヶ原樹海にやって来たアメリカ人男性が、自殺を思いとどまり樹海からの脱出を試みる日本人男性と出会ったことで、人生を見つめ直すさまを描く。『ダラス・バイヤーズクラブ』などのオスカー俳優マシュー・マコノヒーと、『インセプション』などで国際的に活躍する渡辺謙が初めて共演を果たし、『インポッシブル』などのナオミ・ワッツも出演」
また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。
「人生に深く絶望したアメリカ人男性アーサー(マシュー・マコノヒー)は、死に場所を求めて富士山麓の青木ヶ原樹海を訪れるが、森の奥深くでけがを負った日本人男性タクミ(渡辺謙)と出会う。アーサーと同じく死のうとして樹海に来たものの考え直し、妻子のところへ戻るため助けを求めてきたタクミと互いのことを語るうちに、二人はこれまでの人生を見つめ直し、生きるため樹海からの脱出を模索するようになり・・・・・・」
さて、この映画を観た感想を書きましょうか。
なによりも渡辺謙の演技が素晴らしかったです。オスカー俳優のマシュー・マコノヒーとのガチンコ演技対決で完全に勝っていました。
ネタバレにならないように書くと、大病で一度死んだ気になった経験を持つ渡部謙は、ある役を演じさせたら最強ではないでしょうか。
しかしながら、映画そのものは、まったく心に響きませんでした。
カンヌ映画祭でブーイングが起こった理由もよくわかりました。
同じく「死」に深く関わっている映画でも、ブログ「サウルの息子」で紹介したカンヌ映画祭グランプリ作品とは月とスッポンです。やはり、カンヌ映画祭の観客というのは、世界一の映画通の集まりだと改めて痛感しました。
まず、「追憶の森」はストーリーが薄っぺら過ぎます。
「製作前の優秀脚本」としての受賞は、何かの間違いでは?
タクミの正体も、最後のオチも早い段階で予想がつきました。幻想文学を好きな人がこの映画を観れば、結末はバレバレの内容です。
それから、御都合主義を通り越した「いいかげんな」演出が多過ぎます。
ネタバレにならないように気をつけて書くと、樹海の中に明らかな人工物(石灯篭など)があるのに、それをスルーして迷ってしまう。木の枝が腹に突き刺さる大けがをしても平気で歩き回る。豪雨の後、濡れているはずの小枝が焚火でよく燃える。タクミの妻と娘の名前が日本時には絶対にないような名前である。挙げていけばキリがないですが、一番許せなかったのは、樹海に咲いていた花をそのまま鉢植えにしてアメリカに運んだことでした。植物検疫で100%アウトですよ、これは!
こんな細かいことを書いていると自分でも虚しくなってきますが、この映画のようなファンタジー系やホラー系の作品ほど、逆にリアリティが重要となるのです。現実社会からありえない世界に観客を連れて行き、観客自身の心も追い詰めていく手腕が映画製作者には求められます。フィクションという「ウソ」の世界に観客をグイグイ引っ張っていけるかどうかが、映画を面白くする鍵です。「ウソ」を「ホント」に思わせるのは大変なことなのです。
「ウソ」をつき通すためには、さらに周到にウソを張り巡らせる必要があります。そして、さも「ホント」のように感じさせなければなりません。そこがこの映画には決定的に欠けていました。わたしにこの映画を薦めてくれた方は、きっとファンタジーやホラーの「ウソ」に慣れていないのでは?
この手の映画では、ブログ「岸辺の旅」で紹介した日本映画のほうがファンタジーとしての完成度が高いと、わたしは思いました。「岸辺の旅」ぐらい、思い切ってウソをついたほうがファンタジーとしては成功しています。
最後に、『ヘンゼルとグレーテル』の童話の本が出てきます。
これをもって、「この話は現代のメルヘン、つまりファンタジーなのですよ」と言いたいのでしょうが、「ちょっと安易だなあ」と思いましたね。
さて、アーサーのように「PERFECT PLACE TO DIE」でネット検索すると、本当に「青木ヶ原樹海」がTOPページに出てきます。この映画でもドイツ人が首吊り自殺していましたが、多くの欧米人が日本の樹海を死に場所に選んでいることは興味深く感じました。なぜなら、キリスト教にとって森は悪魔や魔女の住む悪しき場所ですが、死に場所に選ぶというのは、そこが天国に通じているという意識が根底にあると思われるからです。この映画では「楽園への階段」というのがキーワードになっていました。
それにしても、青木ヶ原樹海そのものはよく描かれていました。
石原慎太郎原作の日本映画「青木ヶ原」は2012年に公開されましたが、神秘の樹海を舞台に、男女の純愛を描いた儚くも美しいストーリーでした。
青木ヶ原樹海は、いわゆる「自殺の名所」とか「心霊スポット」とされる場所です。わたしは、「富裕層」などよりも「浮遊霊」に関心があります。
樹海の浮かばれない魂を鎮めるために、かの地で鎮魂と慰霊の歌を詠みたいです。そして、「あなたたちは亡くなられました。どうか、成仏されて下さい」ということを伝えたいです。「供養こそわが務め」と思えてなりません。
「追憶の森」を観て、ますます青木ヶ原樹海に行ってみたくなりました。できれば、わたしにこの映画を紹介してくれた方と一緒に行きたいですね。
この映画は「霊」を描いた映画です。主人公のアーサーが樹海に入って自殺用の錠剤を飲もうとすると、一匹のトンボが飛んできて、彼の近くにある岩に止まりました。その直後に、タクミがアーサーの前に現れます。トンボは、あの世からの使者だとされています。このトンボの登場で、物語は一気にスピリチュアルな世界に入っていきます。
ちなみに、拙著『ハートフル・ソサエティ』の表紙にはトンボの写真が使われていますが、これはデザイナーが「黄泉からの使者」という意図を込めたようです。わたし自身は違和感があったのですが、「心ゆたかな社会」とは「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」が必要な社会であると訴えた内容でした。この「死ぬ覚悟」からデザイナーは「黄泉」を連想したようですね。
しかし、この映画のメインテーマは「霊」とか「他界」などではなく、おそらく「夫婦愛」でしょう。古代ギリシャの哲学者・プラトンは、元来一個の球体であった男女が、離れて半球体になりつつも、元のもう半分を求めて結婚するものだという「人間球体説」を唱えました。元が一つの球であったがゆえに湧き起こる、溶け合いたい、一つになりたいという気持ちこそ、世界中の恋人たちが昔から経験してきた感情です。そして、精力的に自分の片割れをさがし、幸運にも恵まれ、そういう相手とめぐり合えたならば、言うに言われぬ喜びが得られることをプラトンは教えてくれたのです。
わたしは、プラトンのいう球体は「魂」のメタファーであったと確信しています。「結婚」によって、元来は一つのものだった「魂」の片割れ同士が再び結びつくのです。すなわち、「結婚」とは「結魂」なのです。その意味で、「追憶の森」は「魂」を描いた非常にスピリチュアルな映画であると思います。しかし、それは死者の魂というよりも合体した夫婦の「結魂」を描いています。
まったくの赤の他人同士であるのもかかわらず、人と人とが認め合い、愛し合い、ともに人生を歩んでいくことを誓い合う。まさに、結婚とは「最高の平和」ではないでしょうか。わたしは、結婚は最高に平和な「出来事」であり、「戦争」に対しての唯一の反対概念であると考えています。
わが社では、日々お世話させていただくすべての結婚式が「世界平和」という崇高な理念を実現する営みであるととらえています。そして、冠婚スタッフである「むすびびと」一同が心からのサービスに努めています。 わたしは、『結魂論』(成甲書房)や『むすびびと~こころの仕事』(三五館)などで、結婚の重要性を訴えました。
さて、この映画に出てくる夫婦は、夫の不倫によって心が離れてしまいます。一緒には生活するものの、お互いに傷つけあい、わざと相手から「ありがとう」という感謝の言葉を口にさせない日々が続きます。ストレスフルな毎日を送るうちに、妻はアルコールに溺れ、ついには脳腫瘍になるのでした。
ちょうど日本は、ベッキーと「ゲスの極み乙女。」のボーカル・川谷絵音の不倫騒動がようやく終焉を迎えようとしていますが、不倫は周囲を不幸にするばかりでなく、当事者の魂を傷つける罪深い行為です。この映画からも不倫の愚かさ、怖さが伝わってきます。ぜひとも、川谷絵音さん、乙武洋匡さん、とにかく明るい安村さん、宮崎謙介さんに観ていただきたいですね。
妻の病がわかった後、夫婦は心から愛し合い、お互いを思いやります。
そして、死ぬ直前の妻は「どうして、わたしは、あんなに怒ってばかりいたのだろう」と夫と仮面夫婦を続けた日々を悔やむのでした。この場面を観て、わたしはブログ「エンディングノート」で紹介した日本映画を連想しました。1人のモーレツ・ビジネスマンが67歳で退職後、がんの宣告を受けます。毎年の健康診断は欠かさなかったのですが、がんはすでにステージ4でした。段取り人間として知られた主人公は、その集大成として、自身の葬儀までの段取りを記したエンディングノートを作成するという映画です。
家族に見守られながら旅立って行った主人公の姿は静かな感動を呼びますが、わたしが最も感動したのは、死の間際に彼の妻が放った一言でした。元気なときはいつもケンカばかりしていた夫婦だったのですが、妻は「こんなにお父さんがいい人だったなんて! なんで早く気がつかなかったんだろう!」と言って泣き崩れるのです。これには、わたしも貰い泣きしました。最後の最後に、夫婦の愛は輝きます。なんといっても「浜の真砂」の中からお互いに選ばれて結ばれるという最強の「縁」を持った二人なのですから。
エンディングノートといえば、わたしは「追憶の森」で不治の病に冒されて亡くなった妻も、エンディングノートを使用すればよかったと思いました。エンディングノートについて、さらに具体的に紹介しましょう。
エンディングノートの目的の1つは、「残された人たちが迷わないため」というものです。どんな葬儀にしてほしいかということはもちろん、病気の告知や延命治療といった問題も書き込むことができます。
「お父さんはどうしてほしいのか」「お母さんの希望は何?」。
たとえ子供であって、なかなか相手の意思というのはわかりません。本人も迷うでしょうが、そばにいる家族や知人はもっと迷い、悩んでいます。そんなときにエンディングノートに意志が書かれていれば、どれだけ救われるかわかりません。葬儀にしても「あの人らしい葬式をしてあげたい」と思う気持ちが、エンディングノートに希望を書いてもらえているだけで実現できます。
たしかに自分の死について書くことは勇気のいることです。
しかし、自分の希望を書いているのですが、じつは残された人のためだと思えば、勇気が湧くはずです。また、エンディングノートには、もう1つ大きな役割があります。それは、自分が生きてきた道を振り返る作業でもあるのです。いま、自分史を残すことが流行のようですが、エンディングノートはその機能も果たしてくれます。気に入った写真を残す、楽しかった旅の思い出を書く、そんなことで十分です。そして最後に、愛する人へのメッセージを書き添える。残された人たちは、あなたのその言葉できっと救われ、あなたを失った悲しみにも耐えていけるのではないでしょうか。
「追憶の森」では、妻の好きだった「色」や「季節」を夫は知らず、そのことが物語の大きな鍵となるのですが、エンディングノートさえつけておけば、妻の好みの色も季節も「謎」ではありませんでした。
エンディングノートには特にスタイルはありません。書店や文具店に行けば、エンディングノートと呼ばれるものも市販されています。
また遺言書は自筆ということが決められていますが、エンディングノートは別にパソコンで作成してかまいません。映画「エンディングノート」の主人公がとった方法ですね。わたしは、現代人にとって最も使いやすく、死への恐怖さえ薄れてゆく究極のエンディングノートが作れないかと長年考えていました。ようやく2009年に『思い出ノート』(現代書林)が完成しました。おかげさまで非常に好評で、版を重ねています。
アマゾンなどのネットでも購入できますので、よろしければお使い下さい。
もうすぐ、まったく新しいエンディングノートとして、『修活ノート』(仮題)の出版も計画しています。どうぞ、お楽しみに!