22日に公開されたばかりの映画「レヴェナント:蘇えりし者」を観ました。第88回アカデミー賞では作品賞、監督賞、主演男優賞など同年度最多の12部門にノミネート、ディカプリオが主演男優賞を受賞して自身初のオスカー像を手にしました。イニャリトゥ監督も前年の「バードマン」に続いて2年連続の監督賞を、撮影のルベツキも3年連続で撮影賞を受賞しました。

 ヤフー映画の「解説」には、以下のように書かれています。

「レオナルド・ディカプリオと、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』などのアレハンドロ・G・イニャリトゥ監督がタッグを組んだ話題作。狩猟中に瀕死の重傷を負ったハンターが、自分を荒野に置き去りにした仲間に復讐するため壮絶なサバイバルを繰り広げるさまを描く。主人公の宿敵には、『インセプション』でディカプリオと共演しているトム・ハーディ。オスカー常連のカメラマン、エマニュエル・ルベツキが自然光のみで撮り上げた臨場感あふれる映像にも注目」

 また、ヤフー映画の「あらすじ」には、以下のように書かれています。

「アメリカ西部の原野、ハンターのヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)は狩猟の最中に熊の襲撃を受けて瀕死(ひんし)の重傷を負うが、同行していた仲間のジョン・フィッツジェラルド(トム・ハーディ)に置き去りにされてしまう。かろうじて死のふちから生還したグラスは、自分を見捨てたフィッツジェラルドにリベンジを果たすべく、大自然の猛威に立ち向かいながらおよそ300キロに及ぶ過酷な道のりを突き進んでいく」

 アカデミー受賞作品の公開直後とあって、映画館は満員でした。
 わたしは、最前列で鑑賞したのですが、ずっとスクリーンを見上げっぱなしでした。そこで、次々にスクリーンに映し出される圧倒的な自然の映像を神のように崇める姿勢で2時間37分を過ごしたのです。
 率直な感想は面白かったです。異様にセリフが少ない映画なのですが、ディカプリオの鬼気迫る演技に魅了されました。ある意味で、究極の「死が怖くなくなる映画」であると思いました。なぜなら、一度死んだはずの者が蘇える話だからです。数少ないセリフの中に「死など怖れない」というディカプリオのセリフが出てきますが、確かに死者にとって死は怖くないでしょうね。よく「死んだ気になって頑張る」などと言いますが、心の底から「自分は死者である」と思い込んでしまえば、死の恐怖など消えていくのです。

 ところで、この映画の舞台となる自然はあまりにも過酷でした。
 このたびの熊本大地震でも自然の脅威を嫌というほど思い知らされました。よく、「自然を守ろう」とか「地球にやさしく」などと言います。しかし、それがいかに傲慢な発想であるかがわかります。やさしくするどころか、自然の気まぐれで人間は生きていられるのです。生殺与奪権は人間にではなく、自然の側にあるということです。
 
 そんな過酷な自然な中で人間が生きていくには動物を必要としました。 そして、古代からずっと人間は馬を重宝してきました。馬に乗れば、人間だけでは行けない場所にも行けますし、遠くまで行くことができます。わたしは最近、次回作『儀式論』を書くために大量の参考文献を読みました。ブログ「名古屋に向かいながらフロイトを読む」に書いたように、前日にもフロイトの『トーテムとタブー』を読んだばかりです。そこで、わたしはトーテミズムに強い関心を抱きました。

 『世界大百科事典』(平凡社)の第2版では、「トーテミズム【Totemism】」について以下のように解説しています。

 「未開社会に見いだされた,社会集団と動植物や事物の特定の種speciesとの間の特殊な制度的関係を、研究者たちはトーテミズムと呼んできた。その特定の自然種がトーテムtotemであるが、この語はアメリカ・インディアンのオジブワ族の言葉に由来する。はじめはトーテムの像として〈トーテム・ポールtotem pole〉を作るアメリカ・インディアン諸族に固有の習俗と思われていたが、トーテミズムという用語が生まれるとともに、オーストラリアやメラネシア、ポリネシア,インド、アフリカなど各地の事例が報告されるにつれ、19世紀後半から多くの研究者の関心を集めるようになった」

 「レヴェナント:蘇えりし者」を観て、北米の地で馬や熊や鹿がトーテムの対象になった理由がよくわかる気がしました。
 
 この映画では人間のみならず、熊や馬などの動物も次々に死にます。
 優秀なハンターである主人公のグラスは人間も殺せば、動物も殺します。しかし、そこにはある種の美学や作法のようなものが存在していました。彼はけっして無駄な殺生はしません。彼が何らかの生命を奪う場合は、自らの身を守るためとか、食糧にするためとか、寒さを凌ぐためなどの明確な理由があったのです。

 その彼にとって、唯一殺してもいい相手、殺す理由が100%存在する相手がいました。ネタバレになるのを避けるために詳しくは言えませんが、その「憎んでも憎みきれない」宿敵に復讐する場面では、おそらくすべての観客が溜飲を下げたのではないでしょうか。正直、このわたしも大きなカタルシスを得ました。つまり、そこにいた全員が映画を観ながら「この殺人は正しい」と心を1つにしているわけです。よく考えると、このへんがいかにもアメリカ的であると感じました。

 というのは、この映画を作ったアメリカという国が「この殺人は正しい」と大衆に思わせることに長けた国家だからです。71年前、真珠湾攻撃の復讐として広島と長崎に原爆が落とされました。あのとき、多くのアメリカ人は「この殺人は正しい」と思ったはずです。いま、オバマ大統領の広島訪問が取り沙汰されていますが、ぜひ実現してほしいものです。いや、本当は広島だけでなく長崎にも来てほしいです。アメリカ大統領にはその責任があります。

 ブログ「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」でも書きましたが、建国200年あまりで巨大化した神話なき国・アメリカは、さまざまな人種からなる他民族国家であり、統一国家としてのアイデンティー獲得のためにも、どうしても神話の代用品が必要でした。それが、映画です。映画はもともと19世紀末にフランスのリュミエール兄弟が発明しましたが、他のどこよりもアメリカにおいて映画はメディアとして、また産業として飛躍的に発展しました。映画とは、神話なき国の神話の代用品だったのです。
 それは、グリフィスの「國民の創生」や「イントレランス」といった映画創生期の大作に露骨に現れていますが、その後、続々と製作された西部劇こそはアメリカの神話であったと思います。巨匠ジョン・フォードは最大の神話作家であり、彼の代表作である「駅馬車」(1939年)こそは最も有名なアメリカ神話の1つと言えるでしょう。

 「駅馬車」をはじめとした一連の西部劇映画には、北米大陸の先住民、いわゆる「ネイティブ・アメリカン」の人々が登場します。かつては、「インディアン」と呼ばれました。西部劇のインディアンは開拓者である白人を襲う悪者でした。このあたりにアメリカ神話の本質が露骨に現れているわけですが、ケビン・コスナーが主演した「ダンス・ウィズ・ウルブス」(1990年)などには等身大のネイティブ・アメリカンの姿が描かれていました。

 「レヴェナント:蘇えりし者」のラストシーン近くで、ネイティブ・アメリカンの一行がグラスの傍らを通りかかり、かつてグラスが助けた女性が彼に憐れみのような視線を投げかけます。それは「殺し合いを続けるあなた方が気の毒でならない」と言っているようで、強く心に残りました。
 この映画では「野蛮人」とか「猿ども」といったネイティブ・アメリカンを蔑む言葉がたくさん出てきます。わたしはここ最近、文化人類学関係の文献を固め読みしているのですが、それらの本には「未開人」とか「野蛮人」といった単語が頻出します。しかし、一方的に侵略してきて略奪や殺戮を繰り返す白人たちのほうが野蛮人であることは明白です。この映画の核心となるメッセージはそのあたりにあるように思いました。

 暴力に明け暮れる白人などよりも、ネイティブ・アメリカンの人々のほうがずっと豊かな精神世界を持っています。ブログ『今日は死ぬのにもってこいの日』で紹介した本には、ネイティブ・アメリカンであるタオス・プエブロ族の古老たちから聞き出した伝承を詩と散文で綴られています。同書のすべてのページには、ネイティブ・アメリカンの人生哲学が語られていますが、その核となっているのは、やはり彼らの死生観です。プエブロ族の古老たちは、大地への深い共生感とともに、万物は死ぬことによって再び生命を得るということ、つまり「人は死なない」という真理をシンプルな語り口で告げています。たとえば、彼らは次のような詩を残しています。

 長い間、わたしは君とともに生きてきた。
 そして今、わたしたちは別々に行かなければならない、
 一緒になるために。
 恐らくわたしは風になって
 君の静かな水面を曇らせるだろう、
 君が自分の顔を、あまりしげしげと見ないように。
 恐らくわたしは星になって
 君の危なっかしい翼を導いてあげるだろう、
 夜でも方角がわかるように。
 恐らくわたしは火になって
 君の思考をえり分けてあげるだろう、
 君が諦めることのないように。
 恐らくわたしは雨になって
 大地の蓋(ふた)をあけるだろう、
 君の種子が落ちてゆけるように。
 恐らくわたしは雪になって
 君の花弁を眠らせるだろう、
 春になって、花開くことができるように。
 恐らくわたしは小川となって
 岩の上で歌を奏でるだろう、
 君独りにさせないために。
 恐らくわたしは新しい山になるだろう、
 君にいつでも帰る家があるように。
 (ナンシー・ウッド、金関寿夫訳)

 ネイティブ・アメリカンの人々は、自然界における自分の位置を知っているがゆえに、死を少しも恐れないのでしょう。じつは、それは日本人の祖霊観に近いものです。それは、日本民俗学の事実上のスタートとされている柳田國男の『先祖の話』の内容からも明らかです。死者は近くの山や森林に上って、そこから子孫を見守る。そして、風や光や雪や雨となって、子孫を助ける。正月には「年神さま」、お盆には「ご先祖さま」というかたちで、愛する子孫を守ってくれる。死者はどこか遠い世界ではなく、残された者のすぐ近くの自然のなかにいるのです。

 最後に、この映画では「埋葬」が重要なキーワードであると思いました。
 グラスの死期が近いことを悟った隊長は、「彼の死を看取って、必ず埋葬するように」と部下に言い渡しました。その約束が守られずにドラマは展開していくのですが、「埋葬する」というのは人間同士が交わす約束の中でも最も重要なものなのです。『唯葬論』(三五館)に詳しく書きましたが、家族の存在意義というものは「埋葬する者」であることに尽きると、孟子もヘーゲルも述べています。「自分が死んだら、自分を弔ってくれ」という約束を交わせる者ほど信頼できる相手はおらず、それは普通では家族であるわけです。

 しかし、現代日本では血縁のない独居老人が激増しています。この方々の弔いは誰がするのか。『隣人の時代』(三五館)などにも書いたように、わたしは、血縁のないときは地縁の、家族がないときは隣人の出番であると考えています。しかしながら、現実はなかなか厳しいものがあります。そこで冠婚葬祭互助会に入会しておけば、自分の死後も必ず葬儀が行われることになります。死後を託すという意味で、互助会というのは非常に信用が求められる業種であることを改めて痛感しました。
 そんなわけで、さまざまなことを考えさせられた映画でした。
 全篇を通じて流れていた坂本龍一の音楽が心地よかったです。

  • 販売元:20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • 発売日:2017/06/09
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