No.0231


 日本映画「僕だけがいない街」を観ました。本当は映画を観ている暇などないのですが、ここ最近の書評ブログを見てもおわかりのように、次回作である『儀式論』の参考文献を読み過ぎて精神的に疲れたので、気分転換を図ったのです。映画を観ることは、わたしにとっての儀式かもしれません。ブログ『僕だけがいない街』で紹介したミステリーコミックが原作です。「このマンガがすごい!」3年連続ランクイン、「マンガ大賞」2年連続ランクイン、「これ読んで漫画RANKING」1位獲得の傑作の実写映画化です。

 ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。

「三部けいによるミステリー漫画を、『ツナグ』などの平川雄一朗監督が映画化。自分の意志に関係なく時間が巻き戻る現象により18年前に戻った主人公が、記憶を封印していた過去の未解決事件と向き合い、時空移動を繰り返しながら事件の解明に挑む。主演は『カイジ』シリーズなどの藤原竜也、彼が心を開くきっかけを作るヒロインに『映画 ビリギャル』などの有村架純。そのほか及川光博、石田ゆり子らがキャスト陣に名を連ねている」

 また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。

「パッとしない漫画家でフリーターの藤沼悟(藤原竜也)は、事件や事故を看破するまで時間がループする現象・再上映(リバイバル)が起きるようになる。何度もリバイバルを経験する中、母が何者かに殺害され彼は突如18年前に戻る。小学生のころに起きた児童連続誘拐殺人事件と母の死の関連に気付いた悟は、過去と現在を行き来しながら事件の真相に迫っていく」

 過去と現在が連動する時空間サスペンス、つまりはタイムループものです。 原作コミック第1巻のカバー裏には、以下のような内容紹介があります。
 「上手くいかない現実を抱えた青年は、日々もがき続ける。 自らの身にのみ起きる【時が巻き戻る】という不可思議な現象すら、青年の不満を加速させていた。・・・だが、それはある日を境に変わった。
 大きな事件が、青年の周囲を否応なく変化させていく。
 『同級生の少女の死』『連続誘拐殺人事件』
 『救えなかった友人』『犯人の正体・・・。』
 "過去"に起きた出来事に向き合う時、青年の"今"が動き始める・・・!!」

 青年漫画家の藤沼は、毎日を懊悩しながら暮らしています。
 彼には、彼にしか起きない特別な症状を持ち合わせていました。
 それは「リバイバル(再上映)」すなわち、時間が巻き戻るということでした。
 時間を超える物語というのなら、「SFの父」であるH・G・ウェルズの『タイムマシン』から筒井康隆の名作『時をかける少女』まで、それこそ無数に存在します。かの『ドラえもん』にだって、そんなエピソードは山ほど登場します。しかし、この物語が独特なのは、何らかの事件が起こっているときに主人公の意識だけが過去に戻り、その事件が解決するまで動かないという設定にあります。わたしは、映画「バタフライ・エフェクト」の内容を連想しました。


 わたしは映画を含む動画撮影技術が生まれた根源には人間の「不死への憧れ」があると思います。写真は一般に「時間を殺す芸術」と呼ばれます。その瞬間を「封印」するという意味です。しかし動画は「時間を生け捕りにする芸術」です。かけがえのない時間をそのまま「保存」します。そのことは、わが子の運動会を必死でデジタルビデオで撮影する親たちの姿を見てもよくわかります。「時間を保存する」ということは「時間を超越する」ことにつながり、さらには「死すべき運命から自由になる」ことに通じます。写真が「死」のメディアなら、映画は「不死」のメディアなのです。だからこそ、映画の誕生以来、無数のタイムトラベル映画が作られてきたのでしょう。

 映画は、いわゆる「総合芸術」と言われています。アカデミー賞の各賞の多さをみてもよくわかるように、監督、脚本、撮影、演出、衣装、音楽、そして演技といった、あらゆる芸術ジャンルの結晶だからです。最近読んだ本の中に「総合芸術と呼ばれるジャンルは、映画、演劇、茶道の3つである」と書かれていて、納得しました。わたしは次回作『儀式論』の章立てで「芸術と儀式」という一章を考えているのですが、そこで演劇と茶道についても言及するつもりです。演劇とはもともと古代の祭式つまり宗教儀式から派生したものですし、茶道は儀式を芸術にまで高めました。では、映画と儀式は関係あるのでしょうか。わたしは、オープニングに登場する映画会社のクレジットや最後のエンドロールがまさに儀式であることに気づきました。映画を観ることは非日常の時間に突入することですが、オープニングはその「開始」を、エンドロールはその「終了」を告げる儀式なのではないでしょうか。
 宗教儀式は洞窟の中で生まれたという説がありますが、洞窟も映画館も暗闇の世界です。暗闇の世界の中に入っていくためにはオープニングという儀式、そして暗闇から出て現実世界に戻るにはエンドロールという儀式が必要とされるのかもしれません。そのあたりは、これも次回作である『死が怖くなくなる映画』(現代書林)の「まえがき」に書くつもりです。

 「僕だけがいない街」のストーリーですが、とにかく、主人公が小学生の頃に起こった誘拐殺人事件が謎に満ちています。主人公はその事件で殺された雛月という女の子の同級生を救うために全力を尽くします。この雛月ちゃんの境遇があまりにも哀れで、読んでいて胸が締めつけられました。この作品はコミックというより、小説のような味わいがあります。とにかく、ストーリー展開が素晴らしいのです。タイトルは殺される前の雛月ちゃんが学級文集に書いた「私だけがいない街」という作文に由来します。この作文の題名を改変した「僕だけがいない街」というタイトルそのものに物語全体の結末のヒントが隠れています。

 過去に少女を殺害した事件の真犯人を探すという点では、湊かなえの『贖罪』に雰囲気が似ていると思いました。『贖罪』は黒沢清監督によって映像化され、WOWOWで放映されました。主役は小泉今日子でした。
 黒沢監督の映像作品をコレクションしているわたしはDVD-BOXを入手して一気に観ましたが、物語に引き込まれました。やはり、わたしにも娘がいるので、女の子が殺される話というのは胸が痛みます。
 本当は、わたしは「僕だけがいない街」の監督は黒沢清を希望していたのですが、平川雄一朗監督もなかなか良かったです。

 わたしは先日インドを訪れましたが、インドには過酷な環境にある少女たちがいます。というのも、年端もいかない15歳以下の少女が年上の男と強制的に結婚させられているのです。世界保健機関が正式に発表した数字によれば、15歳以下で結婚を強要される少女たちは、なんと毎年1420万人だといいます。この低年齢結婚はインドを中心に、中東やアフリカにも多く見られます。これらの地域では、8歳から15歳の少女が年上の男性と強制的に結婚させられているのです。そして、多くの少女が結婚を理由に教育の機会を奪われています。早過ぎる出産の強制や、それによる死亡例 も多く報告されています。日本のように、七五三や成人式や結婚式で女の子が綺麗な着物を着ることができるとは、なんと幸せなことでしょうか。わたしは、そのように思いましたが、「僕だけがいない街」に登場する雛月のように、過酷な運命を生きる少女は日本にも多くいるのでしょうね。

 「僕だけがいない街」に話を戻しますが、原作コミックを3巻までしか読んでいなかったわたしとしては、物語の結末を知って大いに納得するとともに、とても温かい気持ちにあることができました。それにしても、原作者である三部けい氏の緻密なストーリー構築には感心しました。昔から「タイム・パラドックス」という言葉があるように、時間を遡るという物語は矛盾が発生しやすく、非常に難しいジャンルなのです。三部氏の才能にはただならぬものを感じてしまいます。

 そして、この物語の根底には「正義」への熱い眼差しがあります。
 大人になってから「正義の味方」を主人公にした漫画を描くことになる悟は、少年時代に「正義の味方は、最後まで投げ出しちゃダメなんだ」というセリフを口にします。この言葉に代表されるように、この物語には「義を見てせざるは勇なきなり」という思想が流れています。「義」とは、正義のことです。『論語』為政篇には「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉が出てきますが、孔子は「勇」を「正義を実行すること」の意味で使っています。

 2008年6月、東京で「秋葉原事件」が発生し、7人が死亡、10人が重軽傷を負いました。多くの人々が事件発生時に被害者の救助に協力し、警視庁は72人に感謝状を贈ったといいます。救護中に容疑者に刺されて負傷した3人には、警視総監から感謝状が贈られた。わたしは、感謝状を贈られた方々を心から尊敬し、同じ日本人として誇りに思います。中には、被害者の救護中に刺されたため命を落とした方もいました。痛ましい限りですが、この方々は本当の意味で「勇気」のあった人々です。

 最後に、有村架純と石田ゆり子の2人の女優が良かったですね。 大ヒットした「映画 ビリギャル」を観ていないわたしとしては、有村架純の出演する映画を初めて観ました。とてもピュアな魅力にあふれていると思いました。それから、石田ゆり子が綺麗でしたね。北海道の田舎のオバサン役で、セリフの語尾には「だべさ」という方言がつくのですが、そんな姿がまったく似合わないほど上品で知的な美しさを感じました。やはり、映画の最後の味つけは女優サンですね!(微笑)

  • 販売元:KADOKAWA / 角川書店
  • 発売日:2016/08/03
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