No.440


 映画「ドクター・スリープ」を観ました。わたしの愛してやまないホラー映画の金字塔「シャイニング」の続編です。予想とは違う内容でしたが、非常に面白かったです。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「スティーヴン・キングのホラー小説をスタンリー・キューブリック監督がジャック・ニコルソン主演で映画化した『シャイニング』の続編。一家を襲ったホテルでの恐ろしい出来事から40年後、生き延びた息子ダニーが遭遇する新たな恐怖を描く。『ムーラン・ルージュ』などのユアン・マクレガー、『ミッション:インポッシブル』シリーズなどのレベッカ・ファーガソンらが出演。『オキュラス/怨霊鏡』などのマイク・フラナガンがメガホンを取った」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「40年前、雪山のホテルで父親に殺されかけたことがトラウマになっているダニーは、人を避けるようにして生きてきた。同じころ、彼の周囲で子供ばかりを狙った殺人事件が連続して起こり、ダニーは自分と同じような特殊能力によってその事件を目撃したという少女アブラと出会う。事件の真相を探る二人は、あの惨劇が起きたホテルにたどり着く」

 この映画の主人公ダニー・トランスは、映画「シャイニング」の主人公でもあります。Wikipedia「シャイニング」の「原作との違い(ダニー・トランス)」には、以下のように書かれています。
「原作でのダニー・トランスは霊的な存在が前面に押し出されている以上、ある意味で物語の主役であり、自らが持つ超能力(シャイニング)を駆使し、悪霊に取り付かれた父親と立ち向かおうとする勇敢な少年として描かれる。(中略)映画版でのダニーは一介の愛らしい少年で、徐々に狂っていく父親に不穏な空気を感じつつも心配する素直な子供として描かれる。超能力も同じ力を持つハロランを知ってからもそれを隠し、普通の子供として振舞っている。ジャックが狂い始めた際には母親と共にそれに振り回され、最終的な結末も『シャイニング』ではなく咄嗟の機転で切り抜ける形で迎えている」

 不朽の名作ホラー映画「シャイニング」とは、どういう物語か。小説家志望であり、アルコール依存症を患っているジャック・トランス(ジャック・ニコルソン)は、管理人としての職を求めて、雪深く冬期には閉鎖されるコロラド州のロッキー山上にあるオーバールック・ホテルを訪れます。妻のウェンディ、一人息子のダニーも一緒でした。支配人のアルマンは、「このホテルは以前の管理人であるチャールズ・グレイディが、孤独に心を蝕まれたあげく家族を斧で惨殺し、自殺したといういわく付きの物件だ」と語りますが、ジャックは気にも留めず、家族と共に住み込むことを決めます。ダニーは不思議な能力「シャイニング」を持つ少年であり、この場所で様々な超常現象を目撃します。

 ホテルが閉鎖される日、料理長であるハロランはダニーとウェンディを伴って、ホテルの中を案内します。自身も「シャイニング」の能力を持つハロランは、ダニーが自分と同じ力を持つことに気付き、「何かがこのホテルに存在する」と彼に語ります。そして、猛吹雪により外界と隔離されたオーバールック・ホテルで、ジャックの家族3人だけの生活が始まります。 ホテルのさまざまな怪異で徐々に精神を病んだジャックは、謎の存在に命じられるまま妻と息子を手に掛けようとします。しかし、シャイニングの能力を持つ息子ダニーの機転によって、その目的は頓挫します。ラストシーンでは、ホテルの記憶の一部となったジャックが、写真の中で微笑むのでした。多くのホラー映画を観てきたわたしでさえ、心底ゾッとする映画でした。

「シャイニング」の大ファンであるわたしは、「ドクター・スリープ」にくだんのホテルがいつ登場するかと心待ちにしていましたが、これがなかなか登場しません。映画の開始から2時間ちかく経過して、ようやく主人公たちがそのホテルを訪れるというストーリーでした。とにかく、スタンリー・キューブリックが監督した「シャイニング」ほど怖い映画はありませんでしたが、原作者のスティーヴン・キングは気に入らなかったそうです。キングの原作が大幅に変更され、ほとんど別作品に近い趣になっていたからです。原作者であるキングはキューブリックへの批判を繰り返し、後に「映画版へのバッシングを自重する」事を条件にドラマ版で再映像化を試みたほどでした。ただし、キューブリックの死後は映画版への批判を繰り返しています。
「シャイニング」の原作と映画版はどこが違ったのか。
Wikipedia「シャイニング」の「原作との違い」には、以下のように書かれています。
「猛吹雪に閉ざされたホテルで狂気にとらわれた男が家族を惨殺しようとする、という大まかな流れはほぼ原作通りである。一方、原作では邪悪な意志をもつ巨大な存在であるホテル自体が、過去のできごとなども含めて圧倒的な存在感をもって描かれているのに対して、映画ではそれが薄い。さらに、「シャイニング」の原作ではホテルの邪悪な意志がジャックを狂気へと導くのに対して、映画ではホテルがグレイディを遣ってジャックを狂気に導く描写は存在するものの、仕事のプレッシャーや孤独に耐え切れず自ら発狂したともとれる曖昧な描写がなされています。これらは作品の非常に重要な部分であるため、原作と映画の印象を決定的に異なるものにしています」

 あと原作では、ウェンディもダニーもジャックの発狂はホテルのせいだということを理解していますが、映画版では不明です。さらには、原作では大きな役割を果たす、ダニーの「シャイニング」や、同じ能力を持つ料理人ハロランもあまり効果的には取り上げられていません。こういったこともあって、「シャイニング」の完成版を初めて観たキングは原作者として怒髪天を衝く思いであったのでしょう。しかし、今回の「ドクター・スリープ」では、キングは「傑作だ!」と絶賛しています。ちなみに、「モダンホラーの帝王」と異名をとるキングは、著書『死の舞踏』の中で、恐怖小説やホラー映画は、誰もがいずれは直面することになる「死」へのリハーサルなのだという意味のことを述べています。これは素晴らしい名言であると思います。

「ドクター・スリープ」は超能力バトル映画でもあります。映画.com「『ドクター・スリープ』映画版『シャイニング』のソースを受け継ぎ、かつ原作の幹をむき出しにした超能力大戦」では,映画評論家の尾崎一夫氏が「原作は成人したダニーが父ジャックの暗黒面を受け継ぎ、重度のアルコール依存症や、特殊能力の扱いに苦悩する姿が克明に描かれている。しかしフラナガンはそんな枝葉を削ぎ、正義VS悪の『ザ・超能力大戦』ともいえる幹をむき出しにした。こうしたキャッチーさも、それを好むキングへの配慮がうかがえるし、トゥルー・ノットの女ボス・ローズ(レベッカ・ファーガソン)の脅威的な存在も、対決モノとしての性質をより濃厚にしていく」と述べています。

 そう、ザ・超能力大戦としての「ドクター・スリープ」はアメコミ原作映画のような趣もあるのですが、それだとSF映画になってしまいます。でも、「ドクター・スリープ」はあくまでスティーヴン・キング原作の正統派ホラー映画です。ということで登場人物たちのパワーは「超能力」ではなく「魔術」として描かれるのでした。魔術大戦をテーマにした映画といえば、「現代イギリスのデュマ」と呼ばれたデニス・ホイートリの代表作『黒魔団』を映画化した「悪魔の花嫁」(原題"The Devil Rides Out")が思い起こされます。1968年の作品ですが、主演はドラキュラ俳優として有名なクリストファー・リー。DVDでも発売されており、わたしは10回くらい観ました。「悪魔の花嫁」と「ドクター・スリープ」には遠隔地でサイキック・ウォーが展開されるという点で共通しています。

 ところで、40年前の少年ダニーも、現代の少女アブラも幽霊を怖がりません。特に、オーバールック・ホテルの237号室の浴室に出没する全裸の老女に対する2人の態度に象徴されているのですが、幽霊を恐怖する対象というよりも救済するべき対象と見ている観さあります。これは「魔」を封殺するキリスト教というよりも、異人への慈愛に満ちた仏教的な世界観を感じさせます。わたしは、同じくホラー映画史に燦然と輝く金字塔である「シックス・センス」を連想しました。同作品で名子役ハーレイ・ジョエル・オスメントが演じた死者が見える第六感の持ち主の少年コール・シアーが、少年ダニーと重なって見えました。

 かつて「シャイニング」でわたしを震え上がらせたオーバールック・ホテルの幽霊たちは「ドクター・スリープ」にも総出演するのですが、どこか「アダムス・ファミリー」的な親しみやすさを感じてしまい、わたしには大いに不満でした。それでも、幽霊とは怖がるものではなく慰めるものであるという思想には共感します。そして、「ドクター・スリープ」のラストシーンでは「魂は永遠」ということを強く印象づけられました。そういえば、わたしが作詞し、最近は自分で歌っているグリーフケア・ソング「また会えるから」のサビの歌詞が「魂は永遠だから♪」であります。