No.439


 日比谷のTOHOシネマズシャンテで映画「ライフ・イットセルフ」を観ました。わたしのテーマであるグリーフケアについて考えさせる内容の映画で、非常に興味深かったです。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「世代も国籍も異なる二つの家族の運命が、ある事故を通して交差する人間ドラマ。『Dearダニー 君へのうた』などのダン・フォーゲルマンがメガホンを取り、過酷な試練にさらされる人々の物語をボブ・ディランの曲に乗せて描く。『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』などのオスカー・アイザック、『トロン:レガシー』などのオリヴィア・ワイルドのほか、アネット・ベニング、アントニオ・バンデラスらが出演」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「ニューヨークで学生時代から付き合っていたウィル(オスカー・アイザック)とアビー(オリヴィア・ワイルド)は、第一子の誕生を間近に控え幸せに満ちあふれていたが、悲惨な事故に巻き込まれる。一方、旅先のニューヨークで偶然その事故に深く関わってしまった少年は、その出来事をきっかけに、スペインで両親と父の雇い主であるオリーブ園のオーナー(アントニオ・バンデラス)の人生を変えることになる」

 じつは、この映画、公開前のネットのレビューが低かったです。平均2点だったのですが、よく見ると投稿者がたったの1人でした。この人が本当に鑑賞していたのかどうかは知りませんが、公開後はすぐに平均4点以上にはね上がっています。世の中には、試写会や海外や飛行機の中などで公開前に映画鑑賞する人もいるでしょうが、わたしはレビューは基本的に公開後に発表するのが良いのではないかと思います。公開前に無闇に低評価をつけるのは、これから作品を観ようとする人たちに悪影響を与えますし、営業妨害にもなりかねませんから。ちなみに、わたしは公開前の作品がアメリカ映画なら、米国映画批評サイトの名門「ロッテン・トマト」の評価を参考にするようにしています。

 この映画の中では、クエンティン・タランティーノ監督の「パルプ・フィクション」(1994年)にオマージュが捧げられています。ウィルとアビーが友人宅でのハロウィーン・パーティに参加するシーンで、「パルプ・フィクション」の仮装をした恋人たちが「あなたは運命の人。でも時々その愛の深さが怖くなる」「毎日が負担なら1日おきに愛する」と愛を交わしています。「パルプ・フィクション」のトレードマークともいえるツイストダンス・コンテストのシーンが完コピされており、ギャングのビンセント(ジョン・トラヴォルタ)にウィルが、ビンセントのボスの妻・ミア(ユマ・サーマン)にアビーが、それぞれ扮しているのですが、アビーのコスプレは胸元に注射器が刺さったところまで同じです。

 一応ネタバレを気にしながら書きますが、予告編を見た人なら誰でも、この映画の結末は予想できるでしょう。実際、その通りの結末です。すべての出来事が必然的につながっており、わたしは仏教の「縁」を連想しました。「無縁社会」などという言葉がありますが、仏教の考えでは、この世はもともと「有縁社会」です。すべての物事や現象は、みなそれぞれ孤立したり、単独であるものは1つもありません。他と無関係では何も存在できないのです。すべてはバラバラであるのではなく、緻密な関わり合いをしています。この緻密な関わり合いを「縁」と言うのです。

 この「縁」の不思議さを描いた物語は多く、日本でも明治期の落語家・三遊亭圓朝によって創作された落語(怪談噺)の 「真景累ヶ淵」があります。江戸時代に流布した「累ヶ淵」の説話を下敷きにした作品ですが、圓朝の代表作の1つとされ、古典的評価を得ています。「真景累ヶ淵」は「四谷怪談」と並ぶ日本を代表する怪談として知られ、これまでに何度も映画化されています。「ライフ・イットセルフ」は怪談ではありませんが、わたしはこの物語は西洋版「真景累ヶ淵」のように感じました。
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図解でわかる!ブッダの考え方』(中経の文庫)



「縁」の不思議さ、大切さを誰よりも説いたのが、かのブッダです。ブッダは生涯にわたって「苦」について考えました。そして行き着いたのが、「縁起の法」です。縁起とは「すべてのものは依存しあっている。しかもその関係はうつろいゆく」というものです。 モノでも現象でも、単独で存在しているものはないと、ブッダは位置づけました。この考えは、主に『華厳経』に代表される華厳思想で説かれています。拙著『図解でわかる!ブッダの考え方』(中経の文庫)でも紹介しましたが、「帝釈(たいしゃく)の網」という、華厳の縁起思想を巧みに表現した比喩があります。帝釈とは「帝釈天」のこと。もともとは「インドラ」というヒンドゥー教の神ですが、仏教に取り入れられ、仏法および仏教徒の守り神になりました。 その帝釈天が地球上に大きな網をかけたというのです。

 地球をすっぽり覆うほどの巨大な網が下りてきたわけで、当然わたしたちの上に網はかかりました。1つ1つの網目が、わたしたち1人1人です。網目にはシャンデリアのミラーボールのようにキラキラ光る「宝珠」がぶら下がっています。つまり、人間はすべて網目の1つでミラーボールのような存在としたのです。この比喩には、きわめて重要な2つのメッセージがあります。1つは、「すべての存在は関わり合っている」ということ。もう1つは、個と全体の関係です。全体があるから個があるわけですが、それぞれの個が単に集合しただけでは全体になりません。個々の存在が互いに関わり合っている、その「関わり合いの総体」が全体であると仏教では考えるのです。網目の1つが欠けたら、それは網にはなりません。
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世界一わかりやすい「論語」の授業』(PHP文庫)



 仏教の次は儒教です。「ライフ・イットセルフ」にはスペイン人の母親と息子が登場しますが、死の床にある母が最愛の息子に「私が死んでも、あなたの中に永遠に私は生き続ける」と語りかけるシーンがあります。また、ラスト近くでは、ある登場人物が「私の中には、母の母も生きているし、父の父も生きている」と語ります。これらは儒教の「孝」の思想そのものであると思いました。『世界一わかりやすい「論語」の授業』(PHP文庫)などでも言及しましたが、現在生きているわたしたちが自らの生命の糸をたぐっていくと、はるかな過去にも未来にもつながります。祖先も子孫も含め、みなと一緒に生きているわけです。わたしたちは個体としての生物ではなく1つの生命として、過去も現在も未来も、生を共有しているのです。これが儒教のいう「孝」であり、DNAにも通じる「生命の連続」を自覚するということです。

 中国哲学者で儒教研究の第一人者である加地伸行氏によれば、「遺体」とは「死体」という意味ではありません。人間の死んだ体ではなく、文字通り「遺した体」というのが、「遺体」の本当の意味です。つまり遺体とは、自分がこの世に遺していった身体、すなわち「子」なのです。あなたは、あなたの祖先の遺体であり、ご両親の遺体なのです。あなたが、いま生きているということは、祖先やご両親の生命も一緒に生きているとうことです。孔子は「孝」という思想によって「人は死なない」ということを宣言したわけです。この「ライフ・イットセルフ」という映画、アメリカとスペインというキリスト教圏を舞台としていながら、仏教と儒教の香りが漂ってくる不思議な映画に仕上がっています。宗教映画と呼べるかもしれません。

 そして、この映画はグリーフケア映画でもあります。わたしは最近、どんな映画を観ても、その中にグリーフケアの要素があることを発見して驚いているのですが、この「ライフ・イットセルフ」は「グリーフケアの要素がある」などというレベルではなく、完全なグリーフケア映画です。最愛の妻であるアビーを失ったウィルの悲嘆はあまりにも深く、あまりにも悲惨でした。結果、最悪の事態を迎えてしまいます。配偶者の死は、うつ病発症の最大の契機となり、うつ病は自死の最大の原因になりうるという事実を改めて痛感しました。
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唯葬論』(サンガ文庫)



 拙著『唯葬論』(サンガ文庫)にも書きましたが、わたしは、うつ病 → 自死という最悪の事態を回避するために、葬儀というものは存在していると思っています。約7万年前にネアンデルタール人が初めて仲間の遺体に花を捧げたとき、サルからヒトへと進化しました。その後、人類は死者への愛や恐れを表現し、喪失感を癒すべく、宗教を生み出し、芸術作品をつくり、科学を発展させ、さまざまな発明を行いました。つまり「死」ではなく「葬」こそ、われわれの営為のおおもとなのです。葬儀は人類の存在基盤です。葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。もし葬儀を行われなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きたことでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。
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グリーフケアの時代』(弘文堂)



 ブログ「グリーフケアと葬儀」で紹介した上智大学グリーフケア研究所での講義でも、グリーフケアの根幹が葬儀にあることを話しました。同研究所の所長である島薗進先生と副所長である鎌田東二先生とともに、わたしは『グリーフケアの時代』(弘文堂)という共著を上梓しました。同書の第3章「グリーフケア・サポートの実践」で、わたしは葬儀とともに、グリーフケアの方法として読書や映画鑑賞に言及しました。ブログ「グリーフケアと読書・映画鑑賞」で紹介したように、11月20日の講義では多くのグリーフケア映画を紹介しました。じつは昨日、生徒さんたちが書かれたリアクションペーパーを読んだのですが、「グリーフケアにおける映画の力の大きさを痛感しました」とか「グリーフケア映画という考え方が、目からウロコでした!」とか「紹介していただいた映画はすべて観たいと思います」などの感想を頂きました。生徒さんたちには、ぜひ、「ライフ・イットセルフ」をおススメしたいと思います。

 最後に、「ライフ・イットセルフ」を貫く思想は「また会えるから」という一言に集約されるように感じました。別れの後には、必ず再会があります。「また会えるから」という言葉こそ、仏教、儒教、キリスト教をはじめとした、あらゆる宗教に共通する普遍思想のような気がしてなりません。わたしが作詞し、最近は自分で歌っているグリーフケア・ソングのタイトルも「また会えるから」です。