No.442


 シネスイッチ銀座でロシア映画「私のちいさなお葬式」を観ました。主役のおばあちゃんが可愛らしく、ほのぼのとした気分で「終活」や「お葬式」について考えました。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「元教師の主人公が余命宣告を受けた後、前向きに自分の葬式の準備に取り組む姿を描く人間ドラマ。ロシアの小さな村を舞台に、最後の時間を明るく過ごす女性を映し出す。ヒロインをマリーナ・ネヨーロワが演じ、『ボリショイ・バレエ 2人のスワン』などのアリーサ・フレインドリフらが共演する」

 ヤフー映画の「あらすじ」は以下の通りです。
「村の唯一の学校で教師を務めてきた73歳のエレーナ(マリーナ・ネヨーロワ)は定年後、年金生活を送っていた。ある日彼女は余命を宣告され、たまに帰省してくる一人息子のオレク(エフゲニー・ミロノフ)に内緒で葬式の計画を立てる。エレーナは都会で仕事に忙殺されている息子に余計な心配をかけたくないと考え、周りの力を借りながら着々と葬式の準備を進めていく」

 この映画は、73歳の女性が突然の余命宣告を受け、自身のお葬式計画に奮闘する姿が描かれています。村にただ1つしかない学校で教職をまっとうし、定年後は気のおけない友人たちと大好きな本に囲まれ、慎ましくも充実した年金暮らしを送っている彼女の名前はエレーナ。彼女には1人息子のオレクがいますが、都会で仕事に忙しい毎日を過ごし、5年に一度しか顔を見せません。自分で自分の葬式の準備をスタートさせたエレーナは、惨めな死に方だけはしたくないと思います。お葬式に必要な棺や料理の手配を済ませた彼女の不安は、死後に火葬されることです。彼女の希望は、最愛の夫が眠るお墓の隣に埋葬されることでした。そのために、彼女はいろいろとややこしい計画を立て、生前に死亡診断書を用意し、最後は親友に命を絶つ手伝いをしてもらおうとさえするのですが、このくだりには強い違和感をおぼえました。

f:id:shins2m:20170323175037j:image
人生の修め方』(日本経済新聞出版社)

 どうして、彼女は息子に「お父さんの隣に埋めてね」と頼まなかったのでしょうか。この映画はいわゆる「終活映画」ですが、「終活」という言葉には、死を間近にした人が、仕方なく死の準備をしてこの世から去っていくというニュアンスがあり、それではあまりに寂しすぎます。ですから、わたしは、人生の最期まで「修生活動」をして人間として成長し、人生を堂々と卒業していくのが良いと考え、「修活」という言葉を提案しています。現代日本の終活で私が一番おかしいと思っているのは、「迷惑をかけたくない」という言葉です。流行語にもなった「無縁社会」のキーワードも、「迷惑」という言葉ではないかと思います。「遺された子供に迷惑をかけたくないから、葬儀は簡素でいい」「子孫に迷惑をかけたくないから、墓はつくらなくてもいい」「招待した人に迷惑をかけたくないから、結婚披露宴はやりません」などと、家族や隣人、友人に迷惑をかけたくないという言葉が日本中に広がることによって、人間関係がどんどん希薄化し、社会の無縁化が進んでいるように思えてなりません。

f:id:shins2m:20161222143341j:image
人生の修活ノート』(現代書林)

 最近では、迷惑をかけたくないと言って、自殺する人も、孤独死する人も増えてきています。ひと言、助けて欲しいとSOSを出せばいいのに、迷惑はかけられないということでSOSが出ません。しかし、家族や親戚にすれば、自死や孤独死をされるほうが、よほど迷惑ではないでしょうか。親が亡くなっても、皆さんに知らせないということにしても、親は家族だけの所有物ではありません。学生生活や仕事などを通じて、いろいろな仲間や友人などと人生を過ごしてきたのに、この世を去る時に誰にも知らせないというのは、きわめておかしなことだと、わたしは思います。いずれにしても、いま流行っている終活というのは、「迷惑をかけたくない」ということを「錦の御旗」のようにして、葬儀を簡素にしたり、お墓をつくらなかったり、人と人のつながりをどんどん絶っていく方向にあるので、わたしは好ましくないと思っています。「迷惑をかけたくない」という言葉は、実は口実にすぎないと思います。

 迷惑をかけたくないと言うと、聴こえは非常に良いわけです。人様のことを思って、自分は我慢しているようなイメージがあるのでそう言っていますが、本音は「迷惑」ではなく「面倒」だという人が多いと思います。葬儀に皆さんに来ていただいて、接待したり、返礼したりするのは面倒だ。結婚式に皆さんに来ていただいて、ちゃんとした披露宴をするのは面倒だ。すべてにおいて、人をもてなすのは面倒だという本音を、迷惑をかけたくないという美名のもとに隠しているのです。

f:id:shins2m:20190720115011j:plain
修活読本』(現代書林)

 そもそも、家族や親しい友人とは、お互いに迷惑をかけあうものではないでしょうか。子供が親の葬儀を挙げ、子孫が先祖のお墓を守る。これは当たり前のことであって、どこが迷惑なのでしょうか。逆に言えば、葬儀を挙げたり、お墓を守ったりすることによって、家族や親族、友人などとの絆が強くなっていくのだと思います。迷惑をかけることで絆が強くなるということでは、阪神・淡路大震災や東日本大震災という未曽有の事態を体験した人は、家族や地域の結びつきが強くなっています。

 筋力トレーニングなどでも楽なメニューでは無理です。いつもよりハードなメニューで負荷を与えられ、ストレスを与えられることによって強靭な筋力がつきます。それと同じで、大変な経験をし、一種の負荷を与えられることによって、家族や親族、友人などとの絆は強くなっていくのです。そして、一番重要なのは、死生観を持つことだと思います。死なない人はいませんし、死は万人に訪れるものですから、死の不安を乗り越え、死を穏やかに迎えられる死生観を持つことが大事だと思います。「私のちいさなお葬式」というロシアの終活映画を観て、そんなことを考えました。