No.443
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『母なる証明』などのポン・ジュノが監督を務め、第72回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した人間ドラマ。裕福な家族と貧しい家族の出会いから始まる物語を描く。ポン・ジュノ監督作『グエムル -漢江の怪物-』などのソン・ガンホをはじめ、『新感染 ファイナル・エクスプレス』などのチェ・ウシク、『最後まで行く』などのイ・ソンギュンらが出演」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「半地下住宅に住むキム一家は全員失業中で、日々の暮らしに困窮していた。ある日、たまたま長男のギウ(チェ・ウシク)が家庭教師の面接のため、IT企業のCEOを務めるパク氏の豪邸を訪ね、兄に続いて妹のギジョン(パク・ソダム)もその家に足を踏み入れる」
この作品、映画通の友人が昨年末に東京での先行上映で観ていました。その人から、「パラサイト凄かったです。評判通り、予測もつかない展開で、とても考えさせられる映画でしたね。ネタバレするとつまらないので1月にぜひ劇場へ!」とLINEにメッセージが届きました。というわけで、今日ようやく観たわけですが、その人が言う通り、予測もつかない展開の連続でしたね。ブラック・ユーモア映画というふれこみですが、とても良くできたサスペンス映画だと思いました。
映画通の友人は「予測もつかない展開で、とても考えさせられる映画」と表現していましたが、確かに「考えさせられる映画」でした。それは、ずばり貧富の問題、あるいは格差社会の問題です。この映画には富める家族と貧しい家族が極端なコントラストで描かれています。貧しい家族は全員が失業中ですが、彼らが何の能力もないのかというと、そんなことはありません。兄は英語の家庭教師、妹は美術の家庭教師、父は運転手、母は家政婦として、それなりに高いスキルを持っています。こんな人々がなかなか就職できないというのも社会が悪いのでしょうか?
富める者と貧しい者との対比といえば、日本映画の名作「天国と地獄」(1963年)を思い出します。巨匠・黒澤明監督による傑作サスペンスです。ナショナル・シューズの権藤専務(三船敏郎)は、自分の息子と間違えられて運転手の息子が誘拐され、身代金3000万円を要求される。苦悩の末、権藤は運転手のために全財産を投げ出して3000万円を用意する。無事子どもは取り戻したが、犯人は巧みに金を奪い逃走してしまい、権藤自身は会社を追われてしまいます。逮捕された犯人は、高台に建つ権藤の豪邸を見上げているうちに強い憎悪を抱いたと告白するのでした。
一条真也の映画館「アス」で紹介したジョーダン・ピール監督のスリラー映画のことも連想しました。休暇で海辺にやって来た一家が、自分たちにそっくりな人物に遭遇するのですが、彼らはアメリカ合衆国の地下に棲息する人間ならざるものたちでした。映画「アス」では、地上に住む「人間」と地下に住む「人間もどき」との対立構造を描きましたが、「パラサイト 半地下の家族」でも同じ構造を見ることができます。なぜなら、半地下とは地上ではないからです。ネタバレにならないように注意深く書くと、この映画には半地下だけでなく地下に住む人間も登場します。地上・半地下・地下という三層構造になっているのですが、その最大の違いは太陽光線が届くかどうかです。地上には太陽光線が降り注ぎますが、半地下では少しか陽の光が届かず、地下にはまったく届きません。
異色の哲学者・中村天風は「太陽の光線は、美人の顔も照らせば、犬の糞も照らしている」とは強烈なインパクトのある言葉を残しています。天風が言いたかったのは、「太陽は万物にとって平等である」ということです。そう、太陽はあらゆる地上の存在に対して平等ですね。わが社の社名は「サンレー」ですが、万人に対して平等に冠婚葬祭を提供させていただきたいという願いを込めて、太陽光線(SUNRAY)という意味を持っています。ただし、太陽光線が降り注ぐのはあくまで地上であり、「太陽は万物にとって平等である」という言葉の前には「地上において」という前置きが付くわけです。地下というのは「地獄」のメタファーにほかなりません。キリスト教の死後の世界は、天国・煉獄・地獄という三層構造になっていますが、映画「パラサイト 半地下の家族」の地上・半地下・地下の三層構造は「不平等な世界」を見事に表現しています。
たしかに、わたしも「この世は不平等だ」と感じることが多々あります。裁判中にもかかわらず、海外に逃亡したレバノン人経営者も、恋人と破局したわずか2カ月後にTVのお見合い番組の企画に乗る日本人経営者も、ともに資産が1000億円だそうですが、こういう連中に巨額の富が集中するには、わたしのような経営者の端くれでもやはり強い違和感を感じます。ましてや、その日の食事にも困っているような人から見たら、格差社会を呪いたくなる気持ちもわかります。「パラサイト 半地下の家族」はカンヌ映画祭のグランプリである「パルムドール」を受賞していますが、前年には一条真也の映画館「万引き家族」で紹介した日本映画が同賞を受賞しています。カンヌの審査員というのは、アジアの貧しい家族の物語が好きなんですかね?
『香をたのしむ』(現代書林)
万人に対して平等に冠婚葬祭を提供させていただきたいと願って「サンレー」という社名を持っているわが社のミッションは「人間尊重」です。そこでは「人間の尊厳」というものが重要になります。「パラサイト 半地下の家族」では、ある人物が悪臭を放つことを指摘され、プライドをズタズタにされます。そして、その人物はある破滅的な行動を起こしてしまうのですが、その原因はすべて「くさい」と言われて人間の尊厳を損なわれたことにありました。拙著『香をたのしむ』(現代書林)で、わたしは悪臭について書きました。だいたい耐えられないほどの悪臭というのは、糞便か遺骸が放つ臭いに大別できます。そこでいつも思い起こすのは、アウシュビッツなどの強制収容所で犠牲になったユダヤ人たちのことです。わたしは人類最大の愚行であるナチスのユダヤ人虐殺について関心が深く、さまざまな本を読み漁っています。
その中に、シモン・ラックスとルネ・クーディーによる『アウシュビッツの音楽隊』というノンフィクションがあります。その本で知ったのですが、各地のユダヤ人たちはすし詰めの列車に乗せられて収容所へと送られてきましたが、車両ごとに便所がわりのタライが載せられていました。当然ながらタライは悪臭を放っていましたが、その底には蓋が付いており、その蓋を外して中の糞便を空にする係がいたそうです。それは、もう鼻がひんまがるほどの臭いだったとか。本を読んでいるわたしまで気分が悪くなるようでしたが、そんな劣悪な環境に閉じ込められて収容所に送られ、最後は殺されたユダヤ人たちの無念さを思うと涙が出てきました。
もう1冊、印象深い本があります。映画化もされたジョン・ボインの寓話『縞模様のパジャマの少年』という本です。強制収容所のすぐ近くにドイツ人である所長一家が住んだのですが、収容所の煙突から時々流れてくる煙の悪臭がひどいという描写がありました。その悪臭とは、もちろんユダヤ人たちの遺骸を焼いた臭いです。人間は生きている間は糞便の臭いを撒き散らし、死んでからは死臭を撒き散らすわけです。いずれにしても、わたしは匂いというものが人間の尊厳に深く関わっていることを感じずにはおれませんでした。
介護を受ける必要のある高齢者の最大の悩みは、自身の大小便の臭いだそうです。自分が不快だというのではなく、その臭いを他人から嗅がれることが非常な屈辱であるというのです。「匂い」の問題は、「人間尊重」と直結しているのです。ちなみに、「パラサイト 半地下の家族」は韓国映画ですが、現在の日韓の関係は最悪です。 以前、在日朝鮮人の差別問題の背景には、キムチなどの料理に入っているニンニクの匂いの問題が大きいと聞いたことがあります。キムチの匂いが漂う人を「くさい」と言って差別するわけです。それで、差別解消のために無臭のキムチを開発した人がいるそうです。それほど、「匂い」は人間の尊厳に深く関わっているのです。くれぐれも他人に対して「口臭」とか「加齢臭」などを露骨に指摘してはなりません。