No.347

 公開されたばかりの日本映画「万引き家族」を観ました。
 第71回カンヌ国際映画祭「コンペティション」部門に正式出品され、最高賞であるパルムドールを受賞した話題作です。

 ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。

「『誰も知らない』『そして父になる』などの是枝裕和監督による人間ドラマ。親の年金を不正に受給していた家族が逮捕された事件に着想を得たという物語が展開する。キャストには是枝監督と何度も組んできたリリー・フランキー、樹木希林をはじめ、『百円の恋』などの安藤サクラ、『勝手にふるえてろ』などの松岡茉優、オーディションで選出された子役の城桧吏、佐々木みゆらが名を連ねる」

 また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。

「治(リリー・フランキー)と息子の祥太(城桧吏)は万引きを終えた帰り道で、寒さに震えるじゅり(佐々木みゆ)を見掛け家に連れて帰る。見ず知らずの子供と帰ってきた夫に困惑する信代(安藤サクラ)は、傷だらけの彼女を見て世話をすることにする。信代の妹の亜紀(松岡茉優)を含めた一家は、初枝(樹木希林)の年金を頼りに生活していたが・・・・・・」

 カンヌのパルムドールを受賞した話題作の公開初日とあって、映画館はほぼ満員でした。しかし、正直言って、わたしは「つまらない映画だな」と思いました。わたしは「あらゆる映画を面白く観る」主義者で、あまり観た映画を悪く言わない人間なのですが、この作品は本当につまらなかった。つまらないというより、腹が立って仕方がありませんでした。

 まず、「万引き」という犯罪行為を肯定的に描いているところが許せません。「万引き家族」では、スーパーマーケットだけでなく、老人が1人でやっている小さな商店からも万引きします。万引きという犯罪によってどれだけ多くのスーパーや商店が経営的にダメージを負っており、ひいては閉店に追い込まれる店もあるのか・・・その事実をわかっているのでしょうか。「それでは、殺人も犯罪だが、殺人が出てくる映画は多いではないか」と言う輩もいるかもしれませんが、エンターテインメントとしての犯罪映画なら理解できても、「万引き家族」のようなリアリズムの映画で、小さな子どもが万引きをする場面は非常に不愉快でした。

 そう、この映画はリアリズムというか、かつてのイタリアのネオレアリズモ映画を連想させました。「無防備都市」ロベルト・ロッセリーニ(1945年)、「自転車泥棒」ヴィットリオ・デ・シーカ(1948年)、「揺れる大地」ルキノ・ヴィスコンティ(1948年)などが代表的作品です。パルチザン闘争、労働者の要求、市民の暴動といった主題が多かったネオレアリズモですが、要するに反体制や社会批判の映画ですね。

 特に、「自転車泥棒」が「万引き家族」に似ていると思います。「自転車泥棒」には、イタリアの貧困層の父子が登場します。役所の広告貼りの仕事を得た失業労働者である父が、仕事に必要な自転車を盗まれてしまい、息子とローマの街を歩き回って自転車を探す物語です。どうしても自分の自転車が見つからずに途方に暮れた父は、ついに他人の自転車を盗もうとするのでした。「自転車泥棒」も「万引き家族」も、ともに「犯罪を行う者が悪いのではない。犯罪を行わせる社会が悪いのだ」というメッセージを秘めています。そして、このネオレアリズモの匂いを放っていることは、「万引き家族」がカンヌのパルムドールを受賞したことと決して無縁ではないと思います。

 これまで、是枝監督の映画はことごとくカンヌ映画祭に招待され、スタンディングオベーションを受けるなど、毎回のように絶賛されてきました。アカデミー賞の外国語映画賞などにはノミネートされないわけですから、アメリカでは受けなくてヨーロッパで受ける作品なのでしょう。

 もともと、1980年代の終わりに撮影所システムが実質的に終焉してから、日本映画の中から尖鋭化した作品群が出現しました。北野武、黒沢清、河瀬直美といった個性的な作家たちの映画が代表的ですが、それらの作品はヨーロッパでのシネフィル的評価へとつながっていきました。是枝監督の一連の映画もその流れにあると見ることができます。

 巣鴨子供置き去り事件をモチーフにして、「フランダース国際映画祭」のグランプリに輝いた「誰も知らない」(2004年)などもそうですが、是枝監督の作品にはいつも「家族」さらには「血縁」というテーマがあります。
 「血がつながっているのに」という作品が「誰も知らない」。
 「血はつながっていなくとも」が「そして父になる」。
 「血がつながっているのだがら」が「海街diary」。
 「血がつながっていても」が「海よりもまだ深く」。
 そのように、わたしは思いました。そして今回の「万引き家族」は一見、「誰も知らない」と「そして父になる」の間にあるようにも思えますが、その本質は「やっぱり血がつながっていないから」ということではないでしょうか。

 「万引き家族」に登場する人々は本物の家族ではありません。いわゆる「疑似家族」です。彼らは情を交わし合っているかのように見えますが、しょせんは他人同士の利益集団です。もちろん、家族などではありません。ここだけはもうネタバレ承知で書きますが、家族ならば樹木希林扮する初枝が亡くなったとき、きちんと葬儀をあげるはずです。それを彼らは初枝の遺体を遺棄し、最初からいないことにしてしまいます。わたしは、このシーンを観ながら、ナチスやオウムやイスラム国に通じる心の闇を感じました。1人の人間が亡くなったのに弔わず、「最初からいないことにする」ことは実存主義的不安にも通じる、本当に怖ろしいことです。初枝亡き後、信代(安藤サクラ)が年金を不正受給して嬉々としてするシーンにも恐怖を感じました。

 そもそも、「家族」とは何でしょうか。「一条真也の読書館」でも紹介した哲学者ヘーゲルの主著『精神現象学』では「家族の最大の存在意義とは何か」が考察されていますが、ヘーゲルは家族の最大の義務とは「埋葬の義務」であると喝破しました。どんな人間でも必ず死を迎えます。これに抵抗することはできません。死は、自己意識の外側から襲ってくる暴力といえますが、これに精神的な意義を与えて、それを単なる「自己」の喪失や破壊ではないものに変えること。これを行うことこそ、埋葬という行為なのです。家族は、死者を埋葬することによって、彼や彼女を祖先の霊のメンバーの中に加入させるのです。これは「自己」意識としての人間が自分の死を受け入れるためには、ぜひとも必要な行為なのであると、ヘーゲルは訴えました。わたしも同意見です。

 ヘーゲルの哲学はこれまでマルクス主義につながる悪しき思想の根源とされてきました。しかし、わたしは、ヘーゲルほど、現代社会が直面する諸問題に対応できる思想家はいないと思っています。拙著『唯葬論』(サンガ文庫)でも、彼の「埋葬の倫理」を詳しく紹介しました。このヘーゲルの「埋葬の倫理」があったからこそ、宗教を否定する共産主義国家でも葬送儀礼は廃止されなかったのだと思います。

 共産主義といえば、いま東京の岩波ホールで「マルクス・エンゲルス」という映画が上映されています。共産主義を唱えたカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの若き日の活躍を描いた人間ドラマです。産業革命が社会構造のひずみから経済格差を生み出していた1840年代のヨーロッパが描かれています。そこでは貧困の嵐が吹き荒れ、不当な労働条件がはびこっていました。「万引き家族」にも、格差社会、独居老人などに代表される現代日本社会への批判的視点も感じますが、中途半端です。そういうものを期待する人なら、「マルクス・エンゲルス」を観たほうがいいと思います。

 「万引き家族」で最も印象的だったのは児童虐待の描写でした。
 じゅり(佐々木みゆ)が実の親から虐待を受けるエピソードはやはり心が痛みます。最近、5歳の女の子が実の母親とのその交際相手に虐待され、その結果、死亡するという事件がありました。女の子は大学ノートに「ママとパパにいわれなくってもしっかりとじぶんからもっともっときょうよりかあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします」と鉛筆で反省文を書いていたそうです。「万引き家族」のじゅりも、実の母親から何かというと「ごめんなさい」と言わされます。このシーンでは、どうしても現実の事件とオーバーラップしてしまいました。このような悲劇を二度と繰り返さないためには、どうすればよいのでしょうか? 
 じつは、そのための具体案がわたしにはあるのですが、話が長くなるので、ここでは書きません。わたしも忙しいのです。ということで、また今度!