No.461
19日、新型コロナウイルス対策を話し合う政府の専門家会議が行われましたが、加藤厚生労働大臣は、感染リスクの高い場所での活動の自粛などを引き続き求めてく方針を明らかにしました。イタリアやフランスのように日本もいつ映画館が閉鎖されるかもしれない状況下で、「春分の日」かつ「地下鉄サリン事件」から25年目となる20日、この日公開された日本映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」を観ました。わたしは、「この映画さえ観ることができれば、もう感染しても仕方ない」という覚悟をもって鑑賞を決行。そして、魂が震えるような感動をおぼえました。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「作家の三島由紀夫が自決する1年半前に行った東大全共闘との討論会に迫ったドキュメンタリー。2019年に発見されたフィルムの原盤を修復したことにより、多くの学生が集まった討論会の様子が鮮明に映し出され、当時の関係者や現代の文学者、ジャーナリストなどの証言を交えて全貌が明らかになる。監督はドラマシリーズ『マジすか学園』などの豊島圭介」
ヤフー映画の「あらすじ」は以下の通りです。
「1969年5月13日、三島由紀夫は、大学の不正運営などに反対した学生によって始まった学生運動の中でも武闘派といわれた東大全共闘の討論会に、警視庁からの警護の申し出を断り単身で乗り込んだ。およそ1000人の学生が集まった教室で、2時間半に及ぶ熱い討論を交わす」
わたしが、どんなにこの映画の公開を心待ちにしていたか。みなさんには、おわかりでしょうか。わたしは高校時代に三島の文学と思想に傾倒し、全集も読破した経験を持っています。1969年に新潮社から刊行された『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争』という本も古書店で求め、何度も繰り返して読みました。そのとき、討論の内容よりも何よりも「敵陣にたった1人で乗り込んだ」三島の勇気とダンディズムに痺れて、「自分もこんな漢になりたい」と思ったものです。それから長い年月を経て、ついに伝説の討論会のドキュメンタリー映画を鑑賞できる機会に恵まれたのでした。
1969年5月13日、東京大学駒場キャンパス900番教室で行われた討論会の映像がスクリーンに映し出された瞬間、わたしは異様な高揚感をおぼえました。そこには1000人を超える学生が集まっています。いま、日本は新型コロナウイルス感染拡大のさ中にあり、各種のイベントが自粛されています。人が集まることは「集合罪」のような状況で、結婚式は延期され、卒業式や送別会などは中止になっています。1000人もの討論会など絶対に開けません。そんな最中にマスク姿で映画館にもぐりこんだわたしの目に映ったのは「人が集まる」ことの圧倒的な迫力と熱気でした。現在のような社会状況が続けば、社会が「個人」に分断され、文化的活力は減退する一方であると、まず思いました。
それにしても、なぜ伝説の討論会を半世紀ぶりに蘇らせるドキュメンタリー映画が作れたのか。それは、テレビ局としては唯一取材していTBSが撮影していた討論会の映像(TBS緑山スタジオで新たに発見されたフィルム)を高精細映像として復元することができたからです。そこに当時の関係者や現代の文学者・ジャーナリストなどの識者らの三島に関する証言から、その全貌に迫っています。右翼vs左翼、保守vs革新のシンボルのような存在同士が対峙する姿はそれだけで感動的ではありますが、それゆえ現場は殺気立っており、類を見ない緊迫感が流れています。そこで三島の発する日本語は耳触りの良い江戸弁です。非常に明瞭で、滑舌も良く、声量も十分ありました。そして、何よりも論理的である。日本を代表する作家であった彼は、どんな政治家よりも見事な演説ができる雄弁家でもあったのです。
討論会の冒頭、三島由紀夫は約10分間のスピーチを行います。基調講演などという生易しいものではなく、三島の全人生を賭けたような情熱あふれる、それでいて落ち着いていて威厳に満ちたスピーチです。そこで三島は「体制側の連中は諸君(東大全共闘)のことをキチガイだと言うが、キチガイならば看護して精神病院に入れて薬を与えればいいだけのこと。わたしは諸君をキチガイだとは思いません」といきなり言い放ちます。ここで「キチガイ」という放送禁止用語を三島が何度も使うので、(わたしを含む)現在の人権意識の発達した観客は度肝を抜かれます。もちろん、東大全共闘の学生たちは「キチガイ」ごときの言葉には驚かないでしょうが、彼らはじつは他のことに驚いていました。それは、あの三島由紀夫が自分たちに対して丁寧な言葉遣いで語りかけてきたからです。映画の中で、哲学者の内田樹氏が「三島は1000人を相手に全員を説得しようとしているんですよ!」とコメントする場面がありますが、わたしには学生たちに接する三島の目に慈愛を感じました。それから、三島の話にはつねにユーモアがありました。聴衆は何度も爆笑するのですが、こんな緊迫した討論会によって笑いを絶やさない三島のユーモアのセンスには驚きました。
かつて三島由紀夫の本を愛読したという元格闘家・プロレスラーの前田日明氏は高校時代は喧嘩に明け暮れていたそうですが、プロレスラーの蝶野正洋選手との対談で、「喧嘩というのは相手を驚かせた方が勝ちなんだよ」と述べています。その意味では、礼儀正しい態度とユーモアによって東大全共闘を驚かせた三島の先制攻撃は功を奏したのでした。ところが、ここでもう1人、当時の討論会の聴衆や現在の映画の観衆を驚かせる人物が登場します。幼い赤ん坊を肩車したキツネ目の男です。彼こそ、「東大全共闘一の論客」と呼ばれた芥正彦(俳優、劇作家、演出家、劇団ホモフィクタス主宰者)でした。1946年、東京都生まれの彼は、埼玉県立浦和高等学校卒業後、1年間の浪人生活を経て東京大学文科III類に入学。在学中に全学共闘会議(全共闘)のオーガナイザーとして活躍する傍ら、劇団駒場で夏際敏生と共にアングラ演劇運動を指導。また、寺山修司と「地下演劇」誌を発行。在学中、東大美学科4年の女子学生と結婚。そして生まれた女児を連れてこの討論会に乗り込んできたのでした。
芥正彦はかなりの論客で、滔々と自説を展開します。それに対して、三島も誠実に対応していくのですが、「そんな理屈はいいから、三島を殴らせろ!」と野次る学生に対して、「それなら、お前がここに上がれよ、オラ!」と一喝したり、「関係なんか、どうでもいいんだよ!」という野次に対しては「関係を逆転させるのが革命じゃねえのか、馬鹿野郎!」と怒鳴り返したり、なかなかの迫力です。思うに、芥は結果的に三島の身が危険に晒されるのを防いだのでした。そもそも、赤ん坊を抱きながら登壇する行為自体に「ここで暴力沙汰を起こすなよ」というメッセージが込められています。それにしても、あの赤ちゃん、あの後どんな人生を歩んだのか気になりますね。三島と芥の討論は形而上的過ぎるものの(芥がやたらと「事物」という単語を多用するので、「お前は事物主義者か!」と思いましたが)、2人の言葉のボクシングはスリリングで刺激的でした。討論の最中にタバコを口に咥えた三島に芥が火をつけてあげるシーンがあります。三島は火をつけてもらった後、芥に軽く一礼するのですが、この場面は観ていて、ほっこりしました。こんな殺伐とした討論の中で示された「礼」に癒されました。
しかし、三島が自説を述べている最中に芥が「もう俺、帰るわ。退屈だし」と捨て台詞を吐いて、実際に帰ったのは残念でしたね。あの「中二病」とでも呼ぶべき幼稚な一言をもって、わたしは芥正彦という人間を絶対に認めません。だいたい、彼は演劇人というけれども、Wikipedia「芥正彦」によれば、テレビドラマの出演作は3本、映画の出演作は2本だけです。アングラ舞台にはたくさん出演したのかもしれませんが、演劇界に名を轟かせたとは決して言えません。彼は「三島さんは敗退してしまった人」などと言いましたが、彼のほうが全共闘運動での挫折も含めて、どこから見ても敗者ではないですか。現在の彼の発言シーンを見ても、負け惜しみの連続で、わたしの一番嫌いな種類の人間です。
そんな無礼な若者たちの前でも礼儀正しくふるまった三島は「大したもの」です。ブログ「渡部昇一先生と対談しました」にも書きましたが、ある意味で三島なき後の保守論壇を支えた渡部昇一氏から、わたしは「真の教養人は礼儀正しい」ということを学びました。その意味で、三島由紀夫こそは真の教養人でした。それは討論の中にも登場する大正教養主義から脱却できない学者などとは異なる、孔子が説いた「君子」に近い存在です。討論の最後に、三島は「言霊」について発言します。「天皇」という言葉を発した学生の「われわれと共闘してほしい」という呼びかけに対して、三島は「言葉が翼をもって、今この会場を飛び回っている」「わたしは諸君の熱情だけは信じる」「その言葉を、言霊を残して、わたしは去っていく」と述べます。言葉には霊力とでもいうべき不思議なエネルギーが宿っています。これを「言霊」といいますが、『万葉集』で山上憶良が「言霊の幸はふ国と語り継ぎ言ひ継がひけり」と歌を詠んだように、古来、日本は言霊の霊妙な働きによって幸福がもたらされる国と語り伝えられてきました。その「言霊」の力を信じて、わたしも短歌などを詠んでいるわけですが、この討論会の最後に三島が「言霊」について述べたことが非常に印象的でした。
わたしは、1000人もの東大全共闘のメンバーは、三島由紀夫の言霊を感じたと思います。三島が語る言葉を一言でも聞き漏らすまいと真剣な眼差しで彼を注視していましたが、映画の中で作家の平野啓一郎氏が「言葉の力ですよ。結局、言葉しか社会を変えることができない」とコメントします。考えてみれば、三島由紀夫も東大全共闘もその思想は真逆のようで、「反米愛国」という共通点を持っていました。両者はともに反米主義者であり、愛国主義者だったのです。その意味で、東大全共闘の1000人は三島をリスペクトしていたのかもしれません。この討論会から1年半後の1970年11月25日、三島は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会メンバー4名とともに訪れ、隙を突いて益田兼利総監を人質に取って籠城しました。そこで、バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説を行いました。東大全共闘の数と同じでした。しかし、自衛隊員らは三島の演説を真面目に聴かず、罵声を浴びせたり、嘲笑するばかりでした。その直後、三島は割腹自決します。いわゆる「三島事件」です。
そのときの自衛隊員の数は奇しくも約1000人。1年半前の討論会に参加した東大全共闘の学生数と同じです。同志だと信じていた自衛隊に裏切られ、魂を込めたラスト・メッセージを受け取ってもらえなかった三島の無念、絶望感を想像すると、わたしは今でも泣けてきます。バルコニーの上の三島の目には1000人の自衛隊員の顔が東大全共闘のメンバーの顔に見えたのではないかという気さえします。くだんの芥正彦は映画の中で、「人と人の間の媒体としての言葉が力を持った最後の時代だった」と述べ、さらには「相手のことを否定していたら、話も聞かないし、対話なんか成立しないよ」とも語っています。まさに、三島が東大全共闘と言葉で対決した東京大学駒場キャンパス900番教室は、どんな言葉でも発することができ、あらゆるイデオロギーの主張が許される奇跡の「解放区」であり、そこには「熱」と「敬意」と「言葉」が存在したのです。
さて、作品としては素晴らしい内容であった映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」ですが、唯一残念だったのは、ナレーターが東出昌大だったことです。不倫騒動で世間を騒がせた彼ですが、不倫したこと自体をどうこう言いたくありません。そんなことは夫婦間の問題であり、観客には無関係だからです。しかし、この知性の洪水ともいうべきドキュメンタリー映画において、彼のナレーションには知性をまったく感じませんでした。台本を棒読みで、ナレーションそのもののレベルが低いです。なぜ、豊島監督は彼をナレーターに選んだのでしょうか。もしかして、名前の中に「東」と「大」が入っていて「東大」になるとか考えたのではないかと邪推したくなるほどのミスキャストでした。
東出は3月17日、この映画のトークイベントに出席しました。集まったマスコミの関心は映画の内容よりも、東出の不倫問題に関心が集中し、まことに不愉快でした。イベントの後、彼は1人で囲み取材に応じ、「妻に謝罪したい」と言いましたが、わたしは「妻よりも三島に謝罪しろ!」と思いました。東出にとって、謝罪の場はこの日しかなかったようですが、言えること、言ってはいけないことなど、想定問答を頭に叩き込んで会見に臨んだのでしょうが、「これ以上、妻を傷つけたくないので、お答えできることには限りがある」と前置きし、慎重に言葉を選びました。
その囲み取材で、東出は時には涙ぐみ、時には声が震え、口を真一文字にし、天を仰ぎ、沈黙し苦悶の表情を浮かべました。何度も沈黙した彼の姿を見て、おそらく妻も愛人も愛想を尽かしたことでしょう。愛人にまだ想いがあるのなら口にすればいいし、妻に想いがあるのならそれを言葉にすればよろしい。言葉ではなく沈黙で答えた、いや逃げた東出は男として最低でした。何よりも、言葉の力を信じることを訴えたこの映画のナレーションを、言葉に見放された東出昌大という最も不適格な人間が担当したという事実に腹が立って仕方がありません。どうして、このようなこの上なく高尚な映画の公開イベントがこれほど下劣な話題で持ち切りになったのか......悔しくて仕方がありません。
わたしにとって、東出昌大が最もカッコ悪い男だとしたら、最もカッコ良い男こそ、三島由紀夫その人です。映画で描かれた討論会が開催されたのは1969年ですが、60年代の三島由紀夫とは、いかなる存在だったのか。国際的な評価を得た日本を代表する作家であることにとどまらず、時代を代表するスーパースターでした。当時80万部を発行していた若者向きの雑誌「平凡パンチ」が1967年に「現在の日本でのミスター・ダンディ」は誰かを読者投票で選んだ結果、総投票数11万1192の中で、三島は1万9590票で堂々の1位に輝きました。2位が三船敏郎、3位が伊丹十三、4位が石原慎太郎、5位が加山雄三、6位が石原裕次郎、7位が西郷輝彦、8位が長嶋茂雄、9位が市川染五郎(現・松本幸四郎)、10位が北大路欣也というのですから、凄いではないですか。つまり、当時の青年にとって、三島は映画スターやスポーツ選手よりもずっと人気のあるスーパースターだったのです!
全葬連青年部の講演のようす
東大全共闘1000人という敵陣に単身で乗り込んでいった三島の行動は、わたしの人格に甚大な影響を与えました。わたしの心の中には「単身で敵陣に乗り込んでこそ男である」という信念のようなものが植え付けられたのです。ブログ「青年フューネラル講演」でで紹介したように、2010年11月19日、わたしは全葬連青年部が博多で開催した講演会の講師を務めました。専門葬儀社からなる連盟である全葬連はわたしが属する冠婚葬祭互助会と敵対関係に近い状態にあり、反互助会キャンペーンなども展開していました。そこに講師として呼ばれたときは驚きましたが、『葬式は必要!』(双葉新書)を上梓した直後で、同書で述べた考えを伝えたいという想いもあり、わたしは講師をお引き受けしました。会場にはフューネラル業界を担う若き経営者の方々が全国から集まり、わたしの話を熱心に聴いて下さいました。講演後は活発な意見交換も行われました。
全冠協講演会のようす
また、ブログ「全冠協講演」で紹介したように、2019年7月24日には、冠婚葬祭互助会の業界団体である全日本冠婚葬祭互助支援協会(全冠協)主催の講演会が大塚の「ホテル・ベルクラシック東京」で開かれ、わたしは講師として招かれました。全冠協といえば、わたしが会長を務めた全互連のライバル団体とされています。全互連の元会長が全冠協で講演することなど考えられないことでしたが、わたしは慎んで講師をお引き受けし、「葬儀はなぜ必要か」という演題でお話をさせていただきました。いわゆる「アウェイ感」などまったくなく、渡邊理事長をはじめ全冠協の方々には礼を尽くしていただきました。講演後に、有意義な質疑応答が行われたことも嬉しかったです。
島田裕巳氏との対談のようす
意見の異なる者同士の対話といえば、ブログ「島田裕巳氏と対談しました」で紹介したように、2016年7月27日、宗教学者の島田裕巳氏との対談が忘れられません。わたしは、島田氏のベストセラー『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)に対抗して、『葬式は必要!』(双葉新書)を書きました。また、島田氏の『0葬――あっさり死ぬ』(集英社)に対して、『永遠葬――想いは続く』(現代書林)を書きました。わたしたちは天敵のように見られ、NHKの討論番組でも激論を交わしました。そして2016年、島田氏とわたしの共著である『葬式に迷う日本人』という本が三五館から刊行されることにあり、その巻末企画として対談したのです。
『葬式に迷う日本人』(三五館)
六本木ヒルズで実現した対談は、島田氏との意見の一致も多々あったこともあり、まことに有意義な時間を過ごすことができました。ヘーゲルの弁証法のごとく、「正」と「反」がぶつかって「合」が生まれたような気がします。それも非常に密度の濃いハイレベルな「合」です。その当時、原発や安保の問題などで、意見の違う者同士が対話しても相手の話を聞かずに一方的に自説を押し付けるだけのケースが目立ちました。ひどい場合は、相手に話をさせないように言論封殺するケースもありました。そんな大人たちの姿を子どもたちが見たら、どう思うでしょうか。間違いなく、彼らの未来に悪影響しか与えないはずです。
対談後、島田裕巳氏と
わたしたちは、お互いに相手の話をきちんと静聴し、自分の考えもしっかりと述べました。当事者のわたしが言うのも何ですが、理想的な議論が実現したのではないかと思います。けっして馴れ合いではなく、ときには火花を散らしながら、ある目的地に向かっていく。今後の日本人の葬送儀礼について、じつに意義深い対談となったように思います。考えてみれば、意見の異なる者同士が正々堂々と意見を述べ合うことこそ民主主義の基本ではないでしょうか。現代日本において、民主主義は過去のものとなったのでしょうか?
ネットの世界を見ると、さらに状況は酷いです。自分の顔も名前も隠した連中が意見の違う相手に対して「うざい」「消えろ」「死ね」などの罵詈雑言をぶつけ合っています。そこには相手への敬意など微塵もありません。媒体となる言葉も存在しません。ただ、ひたすら「うざい」「消えろ」「死ね」です。日本人がこんな情けないコミュニケーションを行っていることを霊界の三島が知ったら何と言うでしょうか。1969年5月13日の東京大学駒場キャンパス900番教室に確かに存在した「熱」と「敬意」と「言葉」を、今こそ日本人は取り戻す必要があります。それは、東京五輪の開催よりもずっと大切なことではないでしょうか。