No.531
シネプレックス小倉で日本映画「キャラクター」を観ました。いま日本の男優では一番のお気に入りである菅田将暉の主演作ということで、楽しみにしていました。かなりグロテスクなスリラーでしたが、面白かったです。いつもながら、グリーフケアについて考えさせられました。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『アルキメデスの大戦』などの菅田将暉と、バンド『SEKAI NO OWARI』のメンバーで本作が俳優デビューとなるFukaseが共演するサスペンス。悪を描けない漫画家が、偶然目撃した猟奇的な殺人犯を参考に漫画のキャラクターを生み出すも、それにより人生を翻弄される。原案・脚本を担当するのは、漫画原作者として『MASTERキートン』などを手掛けてきた長崎尚志。監督を菅田が主演した『帝一の國』などの永井聡が務める」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「漫画家のアシスタントをしている山城圭吾(菅田将暉)は、画力は高いが、お人好しな性格のためか悪役をリアルに描けない。ある日、圭吾はスケッチに訪れた一軒家で、殺害された家族と犯人(Fukase)の顔を見てしまう。圭吾は犯人をモデルにキャラクターを創り上げ、ついに売れっ子漫画家になるが、漫画をなぞるような事件が次々と発生。そして、犯人の男が圭吾の前に現れる」
冒頭から陰鬱で不気味なムードが漂っています。漫画家としてなかなか独り立ちできない山城圭吾を、菅田将暉は見事に演じていました。ブログ「花束みたいな恋をした」で紹介した映画では、菅田は売れないイラストレーターを演じていましたが、こういう陽の目を見ないクリエーターがすごくハマり役ですね。売れっ子になってからの彼がデジタルで描く漫画は殺人鬼の物語です。その漫画に描かれる惨殺場面、またそれが現実化する殺人現場のシーンはとても残酷です。「もしかすると、日本映画史上最もグロい殺人現場の描写ではないか」とさえ思えるほどでした。
わたしは「SEKAI NO OWARI」というバンドにはまったく興味がなく、その存在もNHK紅白歌合戦で知った程度でしたが、Fukaseの殺人鬼役は素晴らしかったです。これが俳優デビューだとは思えないほど不気味なサイコ野郎を演じていました。「羊たちの沈黙」でレクター博士を演じたアンソニー・パーキンスに勝るとも劣らない存在感を示していました。シリアルキラーである彼は何組もの一家を殺害しますが、やはり「世田谷一家殺害事件」などの実際の事件を連想してしまいます。
2000年の年末に起こった「世田谷一家殺害事件」の犯人はまだ逮捕されていません。被害者の妹さんがグリーフケアのお仕事に関わっていらっしゃいますが、世間を騒がす「殺害事件」の陰には、巨大な悲嘆を抱えた遺族がいることを忘れてはなりません。遺族の方々にとっては、何よりも犯人逮捕を望んでおられると思います。そして、これは敢えて書きますが、殺人犯への極刑を望む遺族もこの世にはたくさんおられます。それがグリーフケアとして最大の力を発揮することもあります。遺族の深い悲嘆の前には、「死刑は良くない」などという安易なヒューマニズムは色褪せていくのではないでしょうか。
『「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林)
拙著『「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林)にも書きましたが、コミック・アニメ・映画において空前の大ヒットとなった「鬼滅の刃」の本質はグリーフケアの物語です。鬼というのは人を殺す存在であり、悲嘆(グリーフ)の源です。そもそも冒頭から、主人公の竈門炭治郎(かまどたんじろう)が家族を鬼に惨殺されるという巨大なグリーフから物語が始まります。また、大切な人を鬼によって亡き者にされる「愛する人を亡くした人」が次から次に登場します。それを鬼殺隊に入って鬼狩りをする人々は、復讐という(負の)グリーフケアを行います。そして、「キャラクター」を観ながら、仇討ちや復讐とともに、死刑執行もグリーフケアになりうることを再認識しました。
グリーフケアはわたしの専門分野ですが、じつは開幕まで残り40日となった東京五輪の開催問題にも深く関わっています。どうやらコロナ禍にもかかわらず、東京五輪は強行開催される流れになっていますが、わたしは義によって東京五輪の開催中止を訴えてきました。国民のほとんどが望んでいない祭典ですが、経営者で表立って中止を訴える人は、ソフトバンクの孫氏や楽天の三木谷氏などの一部を除いては多くはありません。わたしがブログで五輪中止を訴えてきたことを、互助会業界の仲間たちも心配してくれているようで、大手互助会の経営者の方から弟を通じて、「反対派のイメージがつくことは、作家でもある一条さんのマイナスになりますよ」とアドバイスを寄せてくれました。本当にありがたいことであり、その方には感謝しています。作家業だけならまだしも、わたしは業界団体の副会長および互助会政治連盟の副会長も務めていますので、正直言って、業界の仲間たちを心配させるのは辛いです。
わたしが冠婚葬祭互助会という経済産業省の許認可事業の経営者でありながら、業界団体の副会長および互助会政治連盟の副会長でもありながら、政府および自民党が強行開催しようとしている東京五輪の中止を願うのは何故か。その最大の理由は、じつは冠婚葬祭という儀式そのものにあります。コロナ禍で多くの方々が、本来は行われるはずだった儀式を断念しました。入学式、卒業式、成人式、入社式・・・日本人が断念した儀式は数知れません。日本中の祭礼も新型コロナウイルスの感染拡大防止のためにことごとく中止されました。そして、冠婚葬祭。多くの新郎新婦が夢に描いていた結婚式や結婚披露宴を断念し、今も延期されている方々も少なくありません。葬儀においても、家族葬を希望しなくても結果的に参列者を制限して寂しい葬儀が多く生まれました。新型コロナウイルスの感染によって亡くなられた方に至っては看取りもできず、葬儀さえできませんでした。その悲しみは大きいものでした。
それは日本だけではなく、世界中がそうでした。人類全体が理不尽な悲嘆に包まれたのです。その遺族の方々の無念、披露宴を挙げられなかった新郎新婦の落胆、卒業式や成人式を体験できなかった若者たちの悲しみはどこに向かうのでしょうか。こんな状況で東京五輪が開催されれば、彼らの悲しみは増大するばかりです。逆に五輪が中止されれば、「パンデミックの状況下では、オリンピックでも開催できないのだから仕方ない」と少しはあきらめがつくのではないでしょうか。それは仇討ちや復讐とは違うけれども、負のグリーフケアではあります。しかし、日本中、いや世界中の人々の巨大な悲嘆を汲み取る可能性が高いという一点において、わたしは東京五輪の強行開催に最後まで反対いたします。古代ギリシャの葬送儀式として生まれたオリンピックは、コロナで亡くなった世界中の犠牲者および中止されたあらゆる儀式・祭典関係者の悲嘆と無念を受け入れ、今回の東京大会は開催されないことを願います。
話を「キャラクター」に戻します。この映画、タイトルの通りに登場人物たちのキャラが立ちまくっていました。菅田将暉が演じた主人公の漫画家・山城、Fukaseが演じた殺人鬼はもちろんですが、小栗旬と中村獅童が演じた2人の刑事がすごく良かったです。あえて難を言えば、高畑充希が演じた山城の妻がイマイチ存在感が薄かったですね。売れっ子の彼女でなくとも、他の新人女優などの方がマッチしたかもしれません。ストーリーはわかりやすく、一気にラストまでスクリーンに引き込まれましたが、登場人物が急に刺されたり、銃撃されたりする展開には、大いに驚かされました。ラストシーンは原作とは違うそうですが、わたしは「せっかく面白い話なのに、最後がちょっとなあ・・・」と思ってしまいました。悪しからず。