No.542


 11月25日、社外監査役を務める互助会保証株式会社の取締役会が想定外の早い時間に終わりました。夕方に予定していた打ち合わせまでかなり時間が余ったので、地元では鑑賞できない映画をTOHOシネマズシャンテで観ました。この日に観たのは、「モスル~あるSWAT部隊の戦い~」です。非常に評価が高い作品ですが、戦闘シーンはすごい臨場感でした。搭乗するSWAT部隊が、日本で非常に有名な某組織に似ていることを発見してしまいました。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『アベンジャーズ』シリーズなどのアンソニー、ジョー・ルッソ兄弟が製作を務めたアクション。イラクを舞台に、SWAT部隊の隊員となった警察官がイスラム過激派組織ISに立ち向かう。メガホンを取るのは『ワールド・ウォー Z』などの脚本を手掛けてきたマシュー・マイケル・カーナハン。スハイル・ダバック、アダム・ベッサ、イシャク・エリアスのほか、クタイバ・アブデル=ハック、アフマド・ガーネムらが出演する」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「イラク第2の都市、モスル。21歳の新人警察官カーワ(アダム・ベッサ)は、イスラム過激派組織ISに襲われたところをジャーセム少佐(スハイル・ダバック)が率いるSWAT部隊に救われる。彼らは十数名の元警察官で編成された特殊部隊で、本部からの命令を聞かずに独自の行動を展開していた。カーワがISに身内を殺されたと聞いたジャーセム少佐は、彼を隊員として迎え入れる。激しい戦闘を重ねながら部隊はISの要塞に乗り込むが、部隊にはカーワの知らない任務があった」

「モスル~あるSWAT部隊の戦い~」は、いわゆる戦争映画です。しかし、戦争映画に付きもののエンターテインメント性が一切ありません。ひたすら敵を見つけて殺し合う。殺すシーンはリアルで、当然ながら全編が殺伐としています。それにしても、これほど臨場感のある戦闘シーンも珍しいですね。アクション映画というよりドキュメンタリー・フィルムを観ているようでした。これまでのハリウッド大作とは一線を画し、劇中で使われる言語はすべてアラビア語で、米国人俳優も起用されていません。アメリカ映画でありながら、米国の視点でもまったく描かれていません。この映画では、ISに奪われた家族を奪還するために戦うイラクの男たちが英雄として描かれているのです。きわめて異例だと言えるでしょう。

 ISは、イスラム教スンニ派の過激組織です。メディア上で「イスラム国」あるいは「ISIL」などとも呼ばれていましたが、「IS」の呼称が定着しつつあります。サダム・フセイン政権崩壊後の2004年イラクの米軍収容所(キャンプブッカ)に収容されていたバグダディが、同じ収容所にいたジハード主義者たちと結成した小組織が原形とされます。このジハード主義組織に宗派間対立で混乱の続くイラクでフセイン政権残党の政治家や旧イラク軍幹部が合流し、ISの指導体制の中核を担うことになりました。ウサマ・ビン・ラディンのアル・カーイダとも連携し、次第に勢力を増していきました。

 イラクの石油生産の要衝を押さえ、石油の密売と拉致した人質の交換などを資金源とし軍事力を増強しました。さらには、インターネットを駆使したメディア戦略で西欧諸国からも多くの兵士の募集に成功。メディア戦略として、ジャーナリストなどの拉致した人質を殺害するビデオ映像をインターネット上で公開し、世界に恐怖を与えたことは記憶に新しいですね。「モスル~あるSWAT部隊の戦い~」は、ISの拠点だったイラク北部モスルを舞台に、地元の元警察官で編成された特殊部隊(SWAT)がISと戦う姿を描いた戦争アクション映画です。いわゆる「モスルの戦い」は、イラク政府軍が、ISにより2014年6月に奪われた都市モスルを奪還するため、同盟関係にある民兵組織「クルディスタン地域政府」ならびに国際的な有志連合と共同で2016年に開始した大規模軍事作戦です。「モスル奪還作戦」と呼ばれることもあります。

「ウィ・アー・カミング・ニネヴェ」 と名付けられたこの作戦は、2016年10月16日に開始され、ニーナワー県のIS支配地域(モースルを中心とする)への包囲が始まりました。続いて、イラク軍部隊とペシュメルガが3方面からISと交戦し、モースル周辺の村々を制圧していきました。配置されたイラク軍部隊の規模は、2003年のアメリカによるイラク侵攻作戦以来最大となりました。同時に、この戦いは2003年のイラク侵攻作戦以降の15年間における世界最大の軍事作戦でもありました。また、第二次世界大戦以来最も激しい市街戦であったとも評されています。これは物凄いことだと思います。

 2014年9月国連安保理が全会一致でIS壊滅に向けて対策強化を求める議長声明を採択。アメリカはそれまでイラクのISに対して限定的に空爆を実行していましたが,アメリカをはじめとする有志連合はシリアのISの拠点にも空爆を開始しました。しかし,アメリカは地上軍の派遣には消極的で、ISとの地上戦はISによって自らの居住地を追われたクルド民兵部隊が主力となったのです。映画「モスル~あるSWAT部隊の戦い~」では、長引く紛争により、荒廃したイラク第二の都市モスルで、21歳の新米警察官カーワは重武装したISに襲われたところを、ジャーセム少佐率いるSWAT部隊に救われます。カーワが身内をISに殺されたと聞いたジャーセムは、その場で彼をSWATの一員に招き入れるのでした。

 わたしは、この映画を観て、日本の各メディアで社会現象になるほど大ヒットした「鬼滅の刃」を連想しました。若きSWAT隊員のカーワは竈門炭治郎のように見えます。彼らにとってのISとはまさに鬼の集団。愛する家族を殺した鬼畜にほかなりません。その憎き仇を殺すことは、彼らにとっての負のグリーフケアとなります。「鬼滅の刃」のテーマも、グリーフケアです。鬼というのは人を殺す存在であり、悲嘆(グリーフ)の源です。そもそも冒頭から、主人公の炭治郎が家族を鬼に惨殺されるという巨大なグリーフの発生から物語が始まります。また、大切な人を鬼によって亡き者にされる「愛する人を亡くした人」が次から次に登場します。それを鬼殺隊に入って鬼狩りをする人々は、復讐という(負の)グリーフケアを行うのです。炭治郎は、心根の優しい青年です。鬼狩りになったのも、鬼にされた妹の禰豆子を人間に戻す方法を鬼から聞き出すためであり、もともと「利他」の精神に溢れています。

 その優しさゆえに、炭治郎は鬼の犠牲者たちを埋葬し続けます。さらに、炭治郎は人間だけでなく、自らが倒した鬼に対しても「成仏してください」と祈ります。まるで、「敵も味方も、死ねば等しく供養すべき」という怨親平等の思想のようです。『鬼滅の刃』には、「日本一慈しい鬼退治」とのキャッチコピーがついており、さまざまなケアの姿も見られます。鬼も哀しい存在なのです。それと同様に、「モスル~あるSWAT部隊の戦い~」の主人公・カーワも優しい青年で、いきなり敵を殺す仲間に反発して、「まずは尋問すべき」と訴えます。また、仲間は死ぬ間際に苦しんでいる敵を見て、「苦しませておけ」と言い放ちますが、カーワは楽にしてやろうと思います。
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「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林)



 「鬼滅の刃」の炭治郎は鬼から殺された犠牲者を埋葬しましたが、この映画には、幼い兄弟の兄が「パパとママを自分が埋葬しなければ」と、弟だけを安全な場所に逃がし、自分は逃亡せずに危険な場所に留まるシーンがありました。戦場の中の「礼」であり、「孝」です。亡くなった親を弔うというのは、儒教もイスラム教も超越した「人の道」なのです。その兄の健気な姿を見て、わたしは「幼くても、さすがは長男だ!」と思いました。そういえば、炭治郎も「俺は長男だから我慢できた」というセリフを吐いていましたね。というわけで、わたしには、モスルのSWAT部隊が「鬼殺隊」に見えたのであります。

 最後に、カーワの所属するSWAT部隊には、ある「ミッション」がありました。それが戦争という非人間的な状況において非常に人間的な使命だったのですが、わたしは、ちょうど読書中だった『死生論』曽野綾子著(産経新聞出版)の中の「『ミッション・コンプリート』とともに」というエッセイの内容に通じると思いました。テレビで放映されるアメリカの戦争映画を夢中になって観るという著者の曽野氏は、「戦争を賛美するつもりはいささかもないが、人間が自分の生涯の意味を深く考えるのは、戦争に巻き込まれた時と、大病の時だけなのかもしれない。少人数の特殊部隊が、目的を果たして基地に帰投した場面で、最後の場面はたった2つの言葉で締めくくられていた。『ミッション・コンプリート(任務完了)』という意味だ。私はこの簡潔な表現に思いがけず感動した。私が死んだ時、誰かが私の胸の上に、手書きで書いたこの言葉を載せてくれないか、と思う」と書いています。
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ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教



 また、クリスチャンである曽野氏は「人間の任務は、キリスト教の私から言うと、神から与えられた任務だ。どんなに小さなものでも、汚れたものでもいい。神からの命令はどれも重く、深い意味がある」とも書いています。イラク人であるSWAT部隊の隊員たちの神はイスラム教のアッラーであり、曽野綾子氏の神はキリスト教のゴッドです。しかし、ユダヤ教のヤーヴェを含めて、人間にミッションを与える神の正体は1つなのだということを、わたしは『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)に書きました。ある意味で、戦争映画とは「神」について思いを馳せる宗教映画でもあるのです。