No.543
シネプレックス小倉で日本映画「189」を観ました。鑑賞当日までまったく知らなかった作品ですが、児童虐待をテーマとしており、非常に見応えがありましたね。かなり辛い内容ですが、ミステリーの要素もあり、夢中になって観ました。次回作となる著書『心ゆたかな映画』で取り上げたいと思います。主演の中山優馬が良かった!
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「実際に起こった事件をモチーフに、『ホーンテッド・キャンパス』などの中山優馬が児童虐待対策班で働く児童福祉司を演じるヒューマンドラマ。保護した児童が帰宅後に亡くなる事件が発生し、虐待を受ける子供たちを守ろうと奔走する主人公の葛藤を描く。共演にはドラマ『純と愛』などの夏菜など。監督を『eiko[エイコ]』『ゆずりは』などの加門幾生が務める」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「安定した職業に憧れて公務員試験を受けた坂本大河(中山優馬)は、東京都の児童相談所児童虐待対策班で児童福祉司として働き始める。そこでは児童福祉司が1人40から50の家庭を担当しており、大河は過酷な現実を目の当たりにする。ある日、大河が保護し、親元へ戻った児童が、虐待を受けて死亡してしまう。事件を受けて大河は心に傷を負い、苦悩する」
「189」とは、児童虐待の緊急連絡用の電話番号です。「いちはやく」という意味だそうです。この映画を観て、児童虐待の悲惨さに胸が痛みました。わたしはホラーやSFといったエンターテインメント性の強い映画が大好きなのですが、犯罪、虐待、差別、貧困、病気などを扱った社会派の映画も努めて観るようにしています。多少のフィクションが入っていたとしても、映画で初めて知る現実というものは貴重だからです。また、そういった映画は必ず人間の悲嘆(グリーフ)を描いており、わたしの専門分野に入ってくるからです。一条真也の読書館『それでも映画は「格差」を描く』で紹介した町山智浩氏の著書を読んだときも思いましたが、自分が知らなかった社会の闇を映画によって知ることは、「これまで、自分は何も知らなかった」というショックと「これから、この現実を少しでも良くしたい」という志の芽生えを与えてくれます。
正直言って、わたしは、いじめ・虐待などをテーマにした映画が苦手です。自分がそういう目に遭ってトラウマがあるというわけではなく、可哀想で観ていられないのです。ですから、これまで児童虐待の映画はあまり観ていませんが、その中で「愛を乞うひと」(1998年)は忘れられない作品です。下田治美による長編小説『愛を乞う人』を映画化したもので、監督は平山秀幸でした。10歳まで孤児院で育った後実母に引き取られ、凄惨な虐待を受けて母への愛の渇望と憎しみを抱きつつ大人へと成長した少女が、ふとしたきっかけから母の過去を見つめる旅に出て、真の母の姿に向き合うことにより自分を取り戻していく様子を描いています。対照的な母と娘の両方を真正面から演じた原田美枝子の演技力が圧巻で、1998年日本アカデミー賞最優秀賞8部門受賞、モントリオール世界映画祭の国際批評家連盟賞などに輝きました。
児童虐待といえば、ミラン国際映画祭グランプリを受賞した「ひとくず」(2020年)も話題になりました。「劇団テンアンツ」を主宰する俳優の上西雄大が監督、脚本、主演などを務め、児童虐待や育児放棄をテーマに描いたヒューマンドラマです。母親の恋人から虐待を受け、母親からは育児放棄されている少女・鞠。ガスも電気も止められた家に置き去りにされた彼女のもとに、ある日、さまざまな犯罪を繰り返してきた男・金田が空き巣に入ります。幼い頃に自身も虐待を受けていた金田は、鞠の姿にかつての自分を重ね、自分なりの方法で彼女を助けようと、鞠を虐待していた母親の恋人を殺してしまいます。一方、鞠の母親である凜も、実は幼い頃に虐待を受けて育ち、そのせいで子どもとの接し方がわからずにいました。金田と凜と鞠の3人は、不器用ながらも共に暮らし始め、やがて本物の家族のようになっていくのでした。
「愛を乞うひと」の母親も、「ひとくず」の母親も、自らの娘を虐待します。しかし、彼女たちもまた幼い頃に親から虐待を受けていたという負の連鎖がそこにはありました。「189」の場合は、継父が妻の連れ子である6歳の娘を虐待します。その母も夫からDVを受けており、娘を救うことができないばかりか、夫からの指示で虐待に加担する有り様です。この映画の児童虐待シーンは、少しばかり演出過剰かもしれません。「まさか、子どもの体にこんな酷い傷や火傷の跡が残っているのはリアルじゃないだろう」というほどのレベルです。こんな体をした子どもがいたら、一発で児童虐待を認めるようなもので、本当にタチの悪い親はもっとうまく虐待するのではないかと思います。「189」の父親が幼い頃に虐待を受けていたことを示すシーンはありませんでしたが、千葉の君津にある実家には厳格そうな先祖たちの遺影が飾られており、幼少期に彼がかなりの重圧を受けながら育ったことが窺えました。
『ご先祖さまとのつきあい方』(双葉新書)
その君津の実家の壁には「先祖を敬え」と毛筆で書かれた紙が貼られていました。これは虐待親父の先祖たちの教えなのでしょうが、わたしは、まさに祖先を敬わないからこそ、この父親は幼い子どもを虐待するのだなと思いました。というのは、拙著『ご先祖さまとのつきあい方』(双葉新書)に詳しく書きましたが、先祖を敬っていれば、子どもや子孫を大切にするはずだからです。わたしたちは、先祖、そして子孫という連続性の中で生きている存在です。遠い過去の先祖、遠い未来の子孫、その大きな河の流れの「あいだ」に漂うもの、それが現在のわたしたちに他なりません。その流れを意識したとき、何かの行動に取り掛かる際、またその行動によって自分の良心がとがめるような場合、わたしたちは次のように考えるのです。「こんなことをすれば、ご先祖様に対して恥ずかしい」「これをやってしまったら、子孫が困るかもしれない」...こんな先祖や子孫に対する「恥」や「責任」の意識が日本人の心の中にずっと生き続けてきました。こういった意識がなくなった、あるいは薄れてきたことが児童虐待が増加している一因であると思います。
『ご先祖さまとのつきあい方』では、七五三のことも書きました。わたしは、児童虐待のニュースに接するたびに、いつも「この子は七五三を祝ってもらえたのだろうか?」と思います。古来わが国では「七歳までは神の内」という言葉がありました。また、七歳までに死んだ子どもには正式な葬式を出さず仮葬をして家の中に子供墓をつくり、その家の子どもとして生まれ変わりを願うといった習俗がありました。子どもというものはまだ霊魂が安定せず「この世」と「あの世」の狭間にたゆたうような存在であると考えられていたのです。七五三はそうした不安定な存在の子どもが次第に社会の一員として受け容れられていくための大切な通過儀礼です。そして、親がわが子に「あなたが生まれたことは正しい」「あなたの成長を世界が祝福している」と言うメッセージを伝える場です。「人間尊重」を掲げるわが社では、児童養護施設のお子さんたちにも七五三祝いをプレゼントする活動を行っています。
2001年11月に、「児童虐待の防止等に関する法律」が施行されました。これは、児童に対する虐待の禁止、児童虐待の防止に関する国および地方公共団体の責務、児童虐待を受けた児童の保護のための措置などを定めたもの。警察では、児童虐待問題を少年保護対策の最重要課題の一つとして位置づけ、関係機関などと連携し、児童の生命および身体を守るとともに、児童の精神的な立ち直りを支援する活動に積極的に取り組んでいるといいます。大人が子どもをいじめてはならないというのは至極当然の話であり、こんな法律ができること自体、この国が病んでいる証かもしれません。しかし、この国は大人たちも病んでいます。わが子を虐待する親の心が病んでいるのは当然ですが、児童相談所の人々の心も悲鳴を上げています。
映画「189」でも、中山優馬演じる主人公・坂本大河の上司は家庭崩壊で離婚に至り、東京都多摩市の児童相談所を去って都庁に移ります。若い職員たちもメンタルをやられて、次々に職場放棄していきます。大河本人も、4歳の女の子の命を救えなかった罪の意識から一度は辞表を書きます。児童虐待に関わる仕事は、まさに「ケア」の仕事ですが、その現場で奮闘する彼らにもケアが必要なことを痛感しました。あと、彼らにもう少し権限を持たせ、暴力をふるうような親には、「それでも親ですか!」とか「あなたに親の資格はありません!」ぐらいの言葉は吐かせてやるべきだと思います。そうでないと、子どもも救えませんし、彼らの心も壊れてしまうのではないかと心配です。
大河が、親から殺されそうになっている子を救おうとしたとき、新任の児童相談所の所長がそれを邪魔します。そして、「余計なことはするな」と言います。「あの子が死んでしまったら、どうするんですか?」と泣きながら直訴する大河に対して、彼は「そうなったら、そうなったで仕方がない」と言い放つのでした。所長の言い分は、虐待児童の受け入れ先も130%と収容能力を超えており、これ以上、認定を増やすわけにはいかないという、まことに小役人的な発想でした。わたしは、一条真也の映画館「護られなかった者たちへ」で紹介した日本映画を思い出しました。東日本大震災から9年が経った宮城県の都市部で、被害者の全身を縛った状態で放置して餓死させるむごたらしい連続殺人事件が起こる物語ですが、この映画には、食べるものもなく餓死せざるをえないような人が登場します。本来はそういう人は生活保護を受けるべきですが、不正受給する輩なども後を絶たず、役所の申請の現場は過酷です。映画ではそのへんのシーンはけっこうリアルに描かれていて、胸が痛みました。現在、世界的にSDGsが重視されています。SDGsといえば、環境問題が注目されがちですが、人権問題も貧困問題も、そして児童虐待も、すべての問題の根が繋がっています。そういう考え方に立つのがSDGsであるわけです。その意味で、わが社は、貧困に苦しむお子さんや高齢者の方々に出来ることはないかと考えており、順次実行していきます。
さて、「助けを求めている子を救いたい」という大河の想いを邪魔した上司を演じたのは井上肇でした。彼は、ブログ「『ありがとう』を伝えたい人」で紹介したキリン午後の紅茶「私がありがとうを伝えたい人」篇という動画に出演していた俳優です。そのときの彼の役は、海辺の街の子どもの登下校の交通指導員でした。井上肇は、いわば正反対の役を演じたわけですが、「役者というのはすごいなあ!」と思いましたね。キリン午後の紅茶「私がありがとうを伝えたい人」篇の動画を観て、わたしは「エッセンシャルワーク」について考えました。医療・介護などをはじめ、社会に必要な仕事のことです。わたしは、冠婚葬祭業も含まれると考えています。しかも、冠婚葬祭業は他者に与える精神的満足も、自らが得る精神的満足も大きいものであり、いわば「心のエッセンシャルワーク」「ハートフル・エッセンシャルワーク」とでも呼ぶべきでしょう。
映画「189」を観て、児童相談員のみなさんも素晴らしいハートフル・エッセンシャルワーカーであると思いました。また、そうであってほしいと心から願います。最後に、エンドロールで主題歌の降幡愛「東から西へ」(Purple One Star)が流れました。しかし、これは正直言って、良くなかったです。というより映画のイメージに全然合っていませんでした。歌そのものが悪いというより、選曲ミスですね。そこが残念でした。