No.564
シネスイッチ銀座でドキュメンタリー映画「夢みる小学校」をレイトショーで観ました。ネットでの評価が非常に高い映画です。次回作として子ども向けの倫理の本を執筆準備中で、何かの参考になるのではと思って観ました。正直、共感する部分と違和感をおぼえる部分の両方がありました。
ヤフー映画の「解説」には、「テストや宿題、先生が存在せず、『自己決定・個性化・体験学習』を重視する学校『きのくに子どもの村学園』を取り上げたドキュメンタリー。主に『南アルプス子どもの村小学校』での学校の様子や生徒の活動を映し出す。きのくに子どもの村学園学園長の堀真一郎氏のほか、脳科学者の茂木健一郎氏や教育評論家の尾木直樹氏らが出演。監督を『いただきます ここは、発酵の楽園』などのオオタヴィンが務める」とあります。
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「山梨県の『南アルプス子どもの村小学校』は、1992年に和歌山県で設立された『きのくに子どもの村学園』の堀真一郎氏が全国に開校した学校のうちの一つ。学校は『自己決定・個性化・体験学習』という三つの原則を大切にし、探求学習を実践する教育を行ってきた」
Wikipedia「学校法人きのくに子どもの村学園」の「概要」には、「京都大学教育学部出身、元大阪市立大学教授の堀真一郎が、イギリスのサマーヒルスクールなどを範として創立した。堀真一郎は、当初、学園長、現在は理事長を務めている。学園は、きのくに子どもの村小学校(1992年)、きのくに子どもの村中学校(1994年)、きのくに国際高等専修学校(1998年)、かつやま子どもの村小学校(1998年)、かつやま子どもの村中学校(2001年)、南アルプス子どもの村小学校(2009年)及び南アルプス子どもの村中学校(2012年)から構成される。括弧内は開校年」とあります。
また、「学校法人九州自然学園が設置し、福岡県北九州市小倉南区に所在する北九州こどもの村小学校(2006年開校)及び北九州子どもの村中学校(2011年開校)は系列校である。さらに、児童数の減少で閉校した長崎県東彼杵町の旧音琴小学校校舎に、ながさき東そのぎ子どもの村小学校を2019年4月、併設の中学校を2020年4月に開校した。また、イギリス・スコットランドで、サマーヒルと並んできのくに子どもの村の自由教育のモデルとなったキルクハニティ・ハウス・スクールが、イギリス教育省から度重なる視察と訓告で1996年、閉校に追い込まれたところ、2001年6月、きのくに子どもの村がその土地建物を買い取り、キルクハニティ子どもの村という名称で、子どもたちの短期留学、異文化教育の活動拠点として活用している」とも書かれています。
学園長の堀真一郎氏(映画com.より)
この「夢みる小学校」を観る前に、わたしが関心を持っていたテーマが2つありました。1つは、「どのような読書教育をしているか?」ということです。舞台となる「きのくに子どもの村小学校」は小学生の農業や料理や工作、大工仕事などに力を入れているようですが、たしかにユニークであり、創造性も高められると思います。映画で説いていたように、国語・算数・理科・社会などへの好奇心も育むことができるでしょう。しかし、わたしは小学校教育の最重要テーマとして、「読書の楽しさ」を子どもたちに気づかせることがあると考えています。その点、この映画には同校の図書室は登場せず、わずかに出てくる書棚もけっしてバラエティ豊かなものとは思えませんでした。
読書教育はどうだったのか?(映画com.より)
この学園は中学校まで一貫教育なのですが、小学校の卒業式(映画では「卒業祝いの会」と呼ぶ)で、ある生徒が「中学生になったら、中学校の図書室の本を全部読みます!」とスピーチしていました。わたしは、これを聴いて「?」と思いました。図書室の本を全部読むなんて、「その心意気や良し!」と言いたいところですが、中学の3年間で全部読める図書室の本とは、あまり冊数がない、すなわち蔵書が貧困なのではないかと思ったのです。そうでないと、「図書室の本を全部読みます」という発言は出てこないでしょう。わたしは、この生徒が小学生時代にたくさん本を読んだのか、それとも、あまり本を読まなかった(農業や料理や工作や大工仕事に忙しくて、本が読めなかったのか)を知りたいと思いました。
「いじめ」はなかったのか?(映画com.より)
もう1つ、わたしが関心を持っていたテーマが「いじめ問題に、どう取り組んでいるか?」ということでした。この小学校は「自由」であり、ゆえに子どもたちの間にストレスがなく、「いじめ」も存在しないということはありません。夢みる小学校であろうが、なかろうが、子どもたちの集団には必ず「いじめ」は発生します。映画では、全校集会のようなミーティングをときどき開いて、いじめられている子はそこで全員の前で「いじめられた」ことについて発言するのだそうです。そうすれば、わだかまりがなく、結果として「いじめ」もなくなってゆくといった説明がされていましたが、これはあまりにもお花畑というかユートピア的な理想主義だと感じました。この場面を観て、「この映画は、この小学校の良い側面しか取り上げていないのでは?」という疑念が生まれてしまいました。
子どもたちが教師のことを「先生」と呼ばず、友だちのように接しているのも違和感をおぼえました。というのも、『先生はえらい』(ちくまプリマリー新書)を書いた思想家の内田樹氏ではありませんが、わたしは「先生はえらい」と信じて、教師をリスペクトした方が学びの道が開かれると考えているからです。もうすぐ、わたしは、日本における儒教研究の第一人者である加地伸行先生との対談本『儒教と日本人』(現代書林)を上梓しますが、日本人の教育観には儒教の影響が色濃いです。江戸時代以降、日本人の「こころ」に最も影響を与えた書物は『論語』でした。こんなことを書くと、すぐ「儒教のような封建主義が日本の教育をダメにしたんだ!」と息まく人がいそうですが、まあ、わたしの言うことをお聞き下さい。
儒教の教育観には、人間というものの本質が考え抜かれています。孔子の最大の後継者といえる孟子は、人間はもともと良い性質を持っているのだという「性善説」を唱えました。それに対して荀子は、人間の本性は悪であって、善というのは「偽り」であると主張しました。ここで言う「偽り」は、現在の私たちが言う「偽り」(にせ)ではなく、ニンベン(つまり、人)にタメ(為)と書く「人為」、つまり後天的という意味です。先天的には人間の性は悪であるが、後天的に良くなるのだというのです。孔子から孟子に流れている説では「礼」を非常に重んじますが、荀子は「法」を重んじます。人間の性は悪であるから、この悪を法によって抑えようという考えです。
荀子の門下からいろいろな弟子が出ています。秦の政治を支えた宰相の李斯や『韓非子』で有名な韓非もそうです。荀子の性悪説に学んだ李斯は、世襲あるいは血縁で結ばれた、いわゆる封建勢力の制約というものを排除しようとしました。才能さえあれば、たとえ自分が殺した者の子でも重用してかまわない。血縁を重視したり、コネなど私的な情で政治を行なうのはよくない、ということを言っています。そして「偽」というもの、後天的なものを尊ぶのです。本来は悪である人の性を法によって正すというのが基本的な考え方です。性悪説の基本的な理論とは、次のようなものです。もしも性善説で言うように人間がすべて善人であるなら、聖人などいらないではないか。聖人というのは王、聖天子のことで、聖人が人々を教え導くことになるのですが、性善説ならば教え導く必要はない。もともと悪いことをする素地があるから、良い方向に導く必要があるのだ、というのです。
「きのくに子どもの村小学校」は基本的に、子どもたちに対して性善説で接しています。だから、「いじめ」もなくなるはずだという楽観的な考えなのかもしれませんが、性善説で接しても「いじめ」はなくなりません。民主主義の議会のような全校集会で「いじめ」をカミングアウトしたとしても、逆に陰湿な「いじめ」を再生産しこそすれ、絶対になくならないと思います。つまり、この学園の教育はお目出たいというか、どこかズレているように思えます。共感する部分もあります。映画の中に、かつてカトリックの小学校に通っていたという女子の談話がありますが、その学校では何事もカトリックの型に嵌めようとし、うまく嵌らない子は「発達障害」の病名を与えて放校(特殊学校への転向など)処分にしたそうです。そのようなカトリックの学校がたくさん存在するのはわたしも知っており、子どもの心への有害性を告発したのは深く共感しました。
脳科学者の茂木健一郎氏(映画com.より)
この映画には、脳科学者の茂木健一郎氏が登場し、「きのくに子どもの村小学校」を絶賛します。ブログ「茂木健一郎&奥田知志講演会」でも紹介したように、わたしは茂木氏と面識があります。茂木氏を紹介して下さったのは、「隣人愛の実践者」ことNPO法人抱樸の奥田知志理事長です。茂木氏は奥田理事長のホームレス支援活動をサポートしておられます。その点、わたしは奥田理事長と同じく茂木氏もリスペクトしています。ただ、茂木氏が最近、「ゆたぼん」なる小学校に登校しない沖縄の小学生YouTuberを持ち上げているのには違和感をおぼえています。昔も、映画監督の羽仁進が自分の娘を小学校に行かせないことが話題になりましたが、やはり小学生は小学校に行った方がいいと思います。まあ、茂木氏は「一条さん、奥田さん、松本清張、それにリリー・フランキーと、小倉の人はみな温かい人が多いというか、人間力がある方が多いですね」などと講演会で言って下さいましたが、とことんサービス精神のある方なのでしょうね。
作家の高橋源一郎氏(映画com.より)
茂木氏の他にも、教育評論家の尾木直樹氏、作家の高橋源一郎氏などが「夢みる小学校」に登場します。尾木ママはいつもテレビで訴えているような「自由」を重視した教育論を展開していますが、高橋氏が自分のお子さんを「きのくに子どもの村小学校」に通わせていたとは知りませんでした。その高橋氏は、同校の素晴らしさを説明する際に、同校が「入学式」を「入学祝いの会」、「卒業式」を「卒業祝いの会」と呼んでいることを強調していました。しかも、2回も強調していたので、「?」と思ってしまいました。そもそも、どうして「入学式」や「卒業式」と呼ばないことが素晴らしいのでしょうか? 「式」つまり「儀式」ではないことが評価すべきことであるように高橋氏は述べていましたが、『儀式論』(弘文堂)の著者であり、「儀式なくして人生なし」と考えているわたしにはまったく納得できません。まさか、式での整列や一同礼などが戦前の軍国主義教育を思い出させるなどという幼稚で馬鹿げたことは言わないでしょうが......。
『儀式論』(弘文堂)
わたしは、小学生に整列や一同礼をさせることは必要であると思います。なぜなら、全員が同じ行動をすることは「こころ」を1つにするからです。子どもの「自由」ばかり謳っていても、中学を卒業すれば、「きのくに」のユートピアから出なければなりません。人間がずっと1人では生きていけません。社会の中で生きるのは、他人と協力したり、衝突したり、妥協したりする必要も出てきます。ひたすら「自由」ばかり謳歌させることは、月並みな言い方ですが、子どもを不幸にするように思います。社会の中で生きていくには他人と良い関係を築くための技術を体得せねばならず、その技術の体系を「礼」というのです。そして、儀式での整列や一同礼はその「礼」の実践トレーニングとなります。この映画には、校則や定期テストを廃止した東京都世田谷区立桜丘中学校も取り上げていますが、元校長が「礼儀を大切にすること」を生徒に最も求めたことを知り、「この方は本物の教育者だ!」と思いました。
小学校教育というのは難しいと思います。かつて「ブタがいた教室」という映画がありました。平成2年から4年にかけて、大阪北部の小学校で、飼育した豚を食べるという「命の授業」が行われた実話を基にしています。この授業は、「命を見なおそうとした実践」として話題となりました。しかし、可愛がっていた豚を食べることによって心に深い傷を負った子どもたちも多かったといいます。わたしは、この話を知ったとき、『孟子』の梁惠王章句上に出てくる斉の宣王と孟子の対話の場面を連想しました。王様が、犠牲にする牛と目が合ったのですが、その牛が恐れ慄いていて可哀想だと思った。そこで牛を開放して、羊に替えさせたという話です。
「羊は可哀想だとは思わなかったのか?」と突っ込む人がいそうですが、王様が牛と目が合ったことが重要で、王様とその牛との間には「情」が生まれてしまったのです。その牛は、もう王様にとって世界中の他の牛とは違う「情」の生まれた特別な牛なのです。これを人間のエゴだという見方もできますが、「情があるから人間」という見方もできます。このような人間の本質を無視して、子どもたちとの間に「情」の芽生えた豚を殺して食べさせる教育というものをわたしは信用しません。「なんだ、お前は結局、儒教じゃないか」という人がいそうですが、そうです、わたしの考え方のベースは儒教です。さっき、もうすぐ『儒教と日本人』を上梓すると言ったではありませんか!