No.718


 6月2日、この日から公開の映画「ウーマン・トーキング 私たちの選択」をシネプレックス小倉で鑑賞。好き嫌いが別れる映画だと思いますが、わたしの好みではありませんでした。女性たちの命がけの話し合いを描いた作品ですが、性被害がテーマとあって、いま日本を騒がせている芸能事務所の性加害事件を連想せずにはいられませんでした。
 
 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「実在の事件を基にしたミリアム・トウズによる小説を、『アウェイ・フロム・ハー 君を想う』などのサラ・ポーリーが映画化。とある宗教コミュニティーを舞台に、性暴力に遭った女性たちが自分たちの今後について議論を交わす。『キャロル』などのルーニー・マーラを主演に、『ファースト・マン』などのクレア・フォイ、『ワイルド・ローズ』などのジェシー・バックリー、『007』シリーズなどのベン・ウィショー、製作も務めたオスカー女優のフランシス・マクドーマンドらが共演。製作陣にはブラッド・ピットが名を連ねる」
 
 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「2010年の架空の村。独自の生活を営むキリスト教一派の人々が暮らす村で、女性たちに対する性的暴行が多発する。これまで女性たちは、そのことを悪魔の仕業や作り話だと男性たちから否定され、真剣に取り合ってもらえずにいたが、やがてそれが明らかな犯罪であることを知る。男性たちが街へ出かけ不在となる2日間、彼女たちは自らの未来を懸けた話し合いを行う」
 
 この映画は実際にあった事件に影響を受けています。2005年から2009年にかけて、ボリビア中部に暮らすキリスト教の教派「メノナイト」の女性100名以上が被害を受けた性加害事件です。2011年に詳細が明らかになり、女性達は動物用の精神安定剤などを調合したスプレーをまかれ、被害は悪魔や幽霊のせいにされていました。被害を受けた女性たちが被害を訴え始めたとき、他のメノナイトたちは「女性達のバカげた想像」だと批判したといいます。原作小説はこの集団昏睡連続レイプ事件に着想を得た作品で、作者のミリアム・トウズ自身もメノナイトの両親に育てられた女性でした。
 
 この映画で女たちが男たちと闘うことを迷う背景には、メノナイト信仰における赦しの重要性があります。『新約聖書』「マタイによる福音書」18章21-22節には、「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか』イエスは言われた。『あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい』」と書かれていますが、ここでイエスは過ちを犯した者を赦す寛大さを説いています。神は罪深い人間を赦してくれるのだから、敬虔な信徒は自分が神から罪を赦してもらっているのだという謙虚な気持ちを持ち、他人の罪も赦さなければならないということが書かれているのです。信心深いメノナイトの女性にとって、赦すのをやめることはアイデンティティに関わります。自分たちを蹂躙した男どもさえ「赦す」ことが求められるのです。
 
 メノナイトは、メノ・シモンズの名前に因んで名付けられたキリスト教アナバプテストの教派です。ブレザレン、クエーカーと共に歴史的平和教会の1つに数えられ、非暴力、暴力を使わない抵抗と融和および平和主義のために行動しています。「メノナイト」という言葉は教派そのものと、その信徒を指すときの両方に使われます。メノナイトは16世紀に現在のオランダやスイスなどにあたる地域で成立・発展した宗派ですが、過激だとしてカトリックからもプロテスタント系の宗派からも迫害を受け、多数の殉教者が出ました。こうした弾圧はメノナイトの間では記憶されていましたが、主流のキリスト教史の中ではあまり語られてきませんでした。メノナイトへの弾圧は、20世紀末になってようやく注目されるようになり、2004年にチューリヒにおいて、改革派教会が謝罪し、メノナイト教会が赦すという和解の催しが行われました。
 
 こうした歴史の振り返りと、それに伴う「謝罪」と「赦し」は、改革派教会およびメノナイト教会両宗派にとって癒しにつながるものとして位置づけられています。メノナイトが赦しを重視していることはこうした歴史的な経緯からもうかがえますが、一方で「ウーマン・トーキング」に登場する女たちは、赦しに必要となるこれまでの記憶の反省とそれに基づく謝罪を受けていません。ここで男たちが罪を認めて「謝罪」すれば、女たちは「赦し」を選択する者が多かったのでしょうが、そうではなかったのです。メノナイトは電気や自動車などを使わず、一般的な社会から離れたコミュニティを築いています。そのため、女性や子どもへの性暴力が問題になったり、女性が加害から逃げられたりする機会も少なく、この事件は宗教コミュニティにおける性暴力の深刻さに光を当てました。
 
 多くの観客がそうだと思いますが、わたしは、メノナイトの特殊なコミュニティから「アーミッシュ」を連想しました。アーミッシュは、メノナイトから分派した人々です。基本的な宗教に関する考え方は、ほとんど違いません。異なるのは、生活スタイルで、アーミッシュは19世紀の生活スタイルを理想として生活していることです。アーミッシュは、自分たちの学校に通い、自分たちだけの生活スタイルを守り通すことが、信仰であると考えています。アーミッシュの映画といえば、なんといってもピーター・ウィアー監督、ハリソン・フォード主演の「刑事ジョン・ブック/目撃者」(1985年)でしょう。殺人現場を目撃した少年とその母親。だが事件に巻き込まれた親子は、宗派に背くことなく戒律を重んじ前近代的な営みを続ける「アーミッシュ」と呼ばれる異文化の人でした。傷つきながらも親子を村へ送り届けた刑事は、体が治るまで滞在しアーミッシュの人々と触れ合います。
 
「ウーマン・トーキング 私たちの選択」を観て連想した映画は「刑事ジョン・ブック/目撃者」だけでありません。シドニー・ルメット監督でヘンリー・フォンだ主演の「十二人の怒れる男」(1957年)も連想しました。すでに法廷劇の代名詞となって久しい、アメリカ映画史に輝く傑作ドラマです。もともとは高い評価を受けたTV作品で、その脚本・演出コンビによる映画版です。「ウーマン・トーキング 私たちの選択」の冒頭では、事件の真相が説明され、男たちが被疑者の保釈金を払いに街に出ている間に、女たちが投票を行います。投票の選択肢は、「赦す」「この地に留まり、男たちと戦う」「この場を去る」の3つでした。どれを選択するかについての女たちの議論を観客が延々と聴かされる...それが「ウーマン・トーキング 私たちの選択」という映画の本質です。それは「十二人の怒れる男」もまったく同じで、17歳の少年が起こした殺人事件に関する陪審員の討論を延々と聴かされます。そう、この両作品はともに会話劇なのです。
 
 同じ会話劇でも、上映時間95分の「十二人の怒れる男」で展開される議論は非常にスリリングで、まったく飽きません。一方、「ウーマン・トーキング 私たちの選択」での女たちの議論は宗教的な内容も相まって不可解で退屈に感じる部分もありました。わたしは寝不足だったこともあり、暗い納屋で展開される女たちの話し合いを聴きながら寝てしまいました。その眠りを覚ましたのは、大音響で流れ出したロックのメロディーです。その曲は、モンキーズが1967年に発売した「デイ・ドリーム・ビリーバー」です。4週週連続全米1位を記録しました。"Daydream Believer"とは直訳すれば「白昼夢を信じる人」です。「夢見心地で幸せな人」とも言えるでしょう。ブログ「デイ・ドリーム・ビリーバー」にも書いたように、モンキースの歌詞全体のイメージは、「夢見心地のボクと学園の人気者の彼女が、恋愛して結婚して、幸せな生活を始めたよ。最高に幸せだけど、現実感がない。なんか不安だなあ」といったニュアンスでしょうか。
 
 この「デイ・ドリーム・ビリーバー」は、白昼夢ならぬわたしの眠気を吹っ飛ばしました。なぜなら、その曲をかけている車からは「2010年の国勢調査です」というアナウンスも流れてきたからです。ここで観客は、女たちの古くさいファッションや電灯もない生活ぶりから時代劇とばっかり思っていたこのドラマが21世紀の現代劇であると知って、愕然とするのです。もうひとつ、愕然とするのは、信じられないほど非人間的な性加害の内容です。女たちへのレイプはしばらくは悪魔の仕業ではないかなどと言われていましたが、実際は男たちが家畜用鎮静剤を使って女たちの意識を失わせ、強姦を繰り返していたのです。被害者は小さな子どもから高齢者まで、少なく見積もっても100名を大きく超えると考えられており、男性が被害にあった可能性もあるとか。この鬼畜のような行為も、性加害を行った少年の数が2500人以上というアノ人の犯罪に比べたら大したことないと思えてくるのが怖いですね。ぜひ、誰か勇気ある日本人監督に「ジュニア・トーキング 僕たちの選択」を作っていただきたい!