No.738


 7月14日の夜、この日から公開された映画「ヴァチカンのエクソシスト」をシネプレックス小倉で観ました。一条真也の読書館『エクソシストは語る』で紹介した本を映画化したものです。悪魔祓いを描いた作品ですが、想像していたよりも怖くなく、ホラーというよりも宗教映画だと感じました。
 
 ヤフー映画の「解説」には、「カトリック教会の総本山ヴァチカンのチーフエクソシストとして、数多くの悪魔払いを行ったガブリエーレ・アモルト神父の回顧録を映画化。ローマ教皇からある少年の悪魔払いを依頼されたアモルト神父が、強大な悪魔に立ち向かう。監督は『オーヴァーロード』などのジュリアス・エイヴァリー。オスカー俳優のラッセル・クロウが主演を務め、『ドント・ブリーズ』などのダニエル・ゾヴァット、『セーラ 少女のめざめ』などのアレックス・エッソー、『続・荒野の用心棒』などのフランコ・ネロらが共演する」と書かれています。
 
 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「1987年7月、サン・セバスチャン修道院。ガブリエーレ・アモルト神父(ラッセル・クロウ)はローマ教皇から依頼され、ある少年の悪魔払いに向かう。変わり果てた姿の少年が面識のない自分の過去を語る様子を見て、アモルトはこの変異が病気ではなく、悪魔の仕業だと確信する。相棒のトマース神父と共に本格的な調査を開始した彼は、やがて中世ヨーロッパで行われていた宗教裁判を巡る記録にたどり着く」
 
 わたしは儀式研究の視点からカトリックの悪魔祓いに関心が深く、これまでに関連書を多く読んできましたが、そのすべてにカンディード・アマンティー二神父という人物が登場しました。カンディード神父は20世紀に活躍した「史上最高のエクソシスト」と呼ばれた人物です。彼の弟子筋であり、バチカン公認エクソシストでもある著者のガブリエーレ・アモルト神父がカンディード神父に取材した上で書かれたのが『エクソシストは語る』です。ローマ法王庁公認の祓魔師(エクソシスト)による、貴重な著書。国際祓魔師協会の創立者であり、1994年から2001年まで同協会会長を務めておられたアモルト神父は、本人ご自身もローマ教区直属の公認祓魔師(エクソシスト)であり、長年にわたって、悪魔の力との闘いに貴重な体験を積んできました。彼は2016年に亡くなるまで、数え切れないほど悪魔と闘ったといいます。
 
『エクソシストは語る』によれば、教会によって制定された準秘跡だけが祓魔式と呼ばれているそうです。その名を他に使用することは誤った印象を与えやすく誤解を招くといいます。カトリック教会のカテキズムによると祓魔式(エクソシズム)には2つのタイプしかありません。1つは洗礼の秘跡で、これは「簡単な祓魔式」の唯一の形式です。それと祓魔師のために指定された準秘跡があり、これは「大祓魔」と呼ばれる盛儀祓魔式です。祓魔式を個人または共同の祈りの形と呼ぶのは間違いだそうです。それは実際のところ単なる解放を求める祈りにすぎないといいます。アモルト神父は、「祓魔師は悪魔祓いの儀式どおりの祈りに従わなければなりません。祓魔式とその他すべての準秘跡との根本的な違いは、祓魔式は数分で終わることもあれば、何時間もかかることもあるところです。したがって、悪魔祓いの儀式の祈り全部を唱える必要がないこともあるでしょうし、もしくは、その同じ儀式のうちにそれとなく示されているその他の数多くの祈りを付け加える必要があるかもしれません」と述べています。
 
 また、アモルト神父は「祓魔式の第一の主要な目的は診断をするためであるとわたしは申し上げました。すなわち、その症状が悪魔の働きが原因で起きたものか、自然の成り行きで起きたものかどうかを確かめなければなりません。日付順の配列によって、これはわたしたちが求め、たどり着く第1の目的です。しかし、重要性という点からいうならば、祓魔式の明確な目的は、悪魔憑きもしくは、病気からの救済です。できごとの、この論理的な順序(第一は診断、その次に治癒)を頭に入れておくことが非常に重要です。祓魔式の前、式のあいだ、また式のあと、そして式の最中に起こる徴候の推移に気づくことも大変重要です」と述べています。儀式については、次に、悪魔が自分たちの存在を隠すのに使う多くの策略に対抗するよう、祓魔師に警告するもう1つの規準を課しているといいます。アモルト神父は、「わたしたち祓魔師は、精神を病んでいる人たち、あるいは悪魔の影響を受けていないためにまったくわたしたちを必要としていない人たちに騙されないように当然警戒しなければなりません」と述べます。
 
 アモルト神父は、悪魔憑きの徴候として、儀式が挙げている3つのしるしは、知らない言語を話し、超人的な力を発揮し、隠されていることを知っていることであると指摘し、「このしるしは祓魔式のあいだに必ずおもてに現れてくるもので、けっして式の前ではないのがわたしの重要な体験であり、また、わたしが質問した祓魔師全員の体験したことでした。祓魔式を続けて行う前に、それらのしるしがはっきりと現れないかと期待することは非現実的というものでしょう」と述べています。悪魔を追い払う水、もしくは少なくとも聖水、聖香油、塩のような適切な準秘跡が救済の祈りによって示された目標とともに使用されるときには非常に有益です。司祭は誰でも水と香油と塩を清めることができ、祓魔師はそれをする必要がありません。とはいっても、司祭は祓魔式のはっきりと限定された祝福を信じ、それを熟知している必要があります。これらの準秘跡を認識している司祭は非常に稀なのです。大多数の司祭がこれらの存在を知らず、祓魔式を依頼する人を笑うのです。このあたりも、映画「ヴァチカンのエクソシスト」では見事に描かれていました。アモルト神父を演じたラッセル・クロウも良かったです!
 
「エクソシスト」という言葉を多くの日本人が知ったのは、1973年12月26日にアメリカで、1974年7月13日に日本で公開された映画「エクソシスト」によってです。このホラー映画の歴史に燦然と輝く作品は、少女に憑依した悪魔と神父の戦いを描いたオカルト映画の代表作であり、その後さまざまな派生作品が制作されました。この映画によって、「エクソシスト」という言葉は一気に世界中で知られることになりました。「ヴァチカンのエクソシスト」では、エクソシストは「祓魔師(ふつまし)」と訳されていましたね。わたしは、「少年チャンピオン」に連載されていた藤子不二雄Aの「魔太郎がくる」の中で初めてこの映画の存在を知りました。公開時は確か小学5年生のときだったと思いますが、ドキドキしながら映画館に向かいました。最初に観たときは何が起こっているのかもよくわからず大変な恐怖を感じましたが、「ヴァチカンのエクソシスト」は悪魔の憑依や悪魔祓いの仕組みがわかっているため、それほど怖くはありませんでした。考えてみれば、「エクソシスト」の公開からちょうど50年も経過しているのですね。まさに「『エクソシスト』公開50周年記念作品」ですね!
 
 映画「エクソシスト」については、アモルト神父も言及し、「悪魔憑きというものへの関心が再び取り戻されたのは、映画『エクソシスト』のおかげです。1975年2月2日、バチカン放送局は映画『エクソシスト』の監督、ウィリアム・フリードキンと彼の専属アドバイザーである神学者、イエズス会のトマス・ハミンガム神父にインタビューを行いました。監督は1949年に実際に起きたと本に記されている事件を映画にしたいと申し出ました。映画は悪魔憑きに関して、なんの結論も引き出してはいません。監督によると、これは神学者たちの問題だったのです。イエズス会の司祭は『エクソシスト』はたくさんのホラー映画の1つなのかもしくは、まったく異なった類のものなのかと訊かれたとき、断固として後者であることを主張しました」と述べています。また、人間がサタンの活動の餌食となる理由についても述べています。わたしたちは自らの罪によってか、それともまったく気づかずに悪魔の餌食になります。その理由は、(1)神の許可で(2)悪魔の魔力の支配下にあるとき(3)頑なな大罪の状態のため(4)悪い仲間との交流や、悪い場所への出入りを通じての4つだそうです。
 
 アモルト神父の言葉をそのまま信じれば、この世は悪魔に支配されており、日常生活のあらゆるところに悪魔が影響を及ぼしていることになります。そう、「シャーマニズム」とか「解離性同一障害」といった用語は一切通用しないのです。わたしは上智大学グリーフケア研究所の客員教授を務めましたが、上智といえば日本におけるカトリックの総本山です。それで神父や修道女の方々にも知り合いが増えたのですが、カトリックの文化の中でもエクソシズム(悪魔祓い)に強い関心を抱いています。なぜなら、エクソシズムとグリーフケアの間には多くの共通点があると考えているからです。エクソシズムは憑依された人間から「魔」を除去することですが、グリーフケアは悲嘆の淵にある人間から「悲」を除去すること。両者とも非常に似た構造を持つ儀式といえるのです。「魔」も「悲」も放置しておくと、死に至るので危険です。しかし、「魔」や「悲」には対立概念であります。「悪魔」に対立するものは「天使」であり、さらには「神」です。そして、「悲嘆」に対立するものは「感謝」ではないかと思います。神の御名のもとに悪魔が退散するように、死別の悲嘆の中にある人は故人への感謝の念を思い起こせば、少しは心が安らぐのではないでしょうか。