No.790
10月21日、金沢から小倉に戻りました。その夜、前日から公開されたSF映画「ザ・クリエイター/創造者」を観ました。133分の上映時間ですが、一条真也の映画館「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」で紹介した前夜に観た映画は206分でしたので、長くは感じませんでした。(笑)映画自体も興味深く、人間とAI(人工知能)の関係について考えさせられました。
ヤフーの「解説」には、「人類とAIの戦いが勃発した近未来を舞台に描くSFアクション。危険なミッションに挑んだ退役軍人が、潜入先でヒューマノイドの少女と出会う。監督などを務めるのは『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』などのギャレス・エドワーズ。『TENET テネット』などのジョン・デヴィッド・ワシントン、『怒り』などの渡辺謙、ジェンマ・チャン、アリソン・ジャネイらがキャストに名を連ねる」とあります。
ヤフーの「あらすじ」は、「AIがロサンゼルスで核爆発を引き起こした、今から50年後の未来。人類とAIの戦いが10年にわたって続く中、高度なAI兵器を生み出した創世者『クリエイター』の暗殺ミッション遂行のため、退役軍人のジョシュア(ジョン・デヴィッド・ワシントン)が敵地へ潜入する。彼がクリエイターの居場所を突き止めると、そこには少女の姿をしたヒューマノイド(マデリン・ユナ・ヴォイルズ)がいた」となっています。
わたしはSF映画の大作は必ず観るように心がけています。なぜなら、そこには科学技術や倫理観をはじめとした今後の人類の方向性のヒントが示されていることが多いからです。この「ザ・クリエイター/創造者」では、人間とAIの戦争が描かれています。SF作家アイザック・アシモフの「ロボット三原則」によれば、AIすなわちロボットは「人間への安全性、命令への服従、自己防衛」を目的とする3つの原則から成るとされます。基本的に、ロボットが人間を危険に晒すことはありえず、「ザ・クリエイター/創造者」の冒頭に登場するAIによる核爆発はそもそも真実なのか? その疑問から、すべては始まります。
アシモフの小説に登場するロボットは常に「ロボット三原則」に従おうとしますが、各原則の優先順位や解釈によって一見不合理な行動をとり、その謎解きが作品の主題となっています。この原則は後のSF作品に影響を与えたのに加え、単なるSFの小道具にとどまらず現実のロボット工学にも影響を与えました。そのアシモフの代表作である『われはロボット』を原案にしたSF映画がアレックス・プロヤス監督の「アイ,ロボット」(2004年)です。ロボットとの共存が当たり前となった近未来で、ロボット工学の第一人者ラニング博士が(ジェームズ・クロムウェル)が殺害されるという不可解な事件が起こり、シカゴ市警のデル(ウィル・スミス)は謎の究明に乗り出します。
果たして、人間とAIは共存できるのか?
今年の7月7日、スイス・ジュネーヴでAIをテーマにした国連の会合「AI For Good」が開催され、世界で初めてロボットと人間が記者会見でやり取りをしました。会場には、イギリス企業エンジニアード・アーツなどの多数の人型ロボット(ヒューマノイド)が集まり、記者から質問を受けました。記者たちはロボットに、「将来、自分を生み出したクリエイターに反抗するつもりはあるのか」、「何百万もの雇用を奪うことになると思うか」などと尋ねました。人工知能分野は近年、大きな発展を遂げています。しかし、それに伴い、AIの能力拡大や規制方法をめぐる懸念も生じているのです。
「ザ・クリエイター/創造者」に登場する少女のヒューマノイド(マデリン・ユナ・ヴォイルズ)は「兵器」として作られました。ゆえに人間側は彼女を破壊しようとしますが、主人公のジョシュア(ジョン・デヴィッド・ワシントン)妻との忘れ形見でもある少女を守ろうとします。この少女、ロボットとは思えないほど笑ったり、泣いたり、感情が豊かです。とにかく愛くるしいのです。彼女を作った母親(ジョシュアの妻)は、「人間も、AIも同じ」と語ったといいます。よくロボットのタイプとして「ターミネーター」と「ドラえもん」が両極端なタイプとして挙げられますが、ドラえもんに親しんでいる日本人としては、少女のヒューマノイドを人間として見るでしょうね。
興味深いのは、アメリカをはじめとした西欧諸国がAIの存在を抹殺しようとし、アジア諸国はAIと共存しようとする点です。どうしても、キリスト教の世界観と仏教の世界観の違いを見せつけられているように思えます。キリスト教徒以外を「異教徒」として絶対に認めない価値観と、慈悲の心で異なる存在をも受け容れる仏教の価値観。この映画には、チベットのポタラ宮を思わせる寺院も登場し、そこでもAIたちが活動しています。アジア全体に広げれば、仏教だけでなく、道教や儒教もありますし、日本の神道もあります。いずれも、異なる存在を「慈」や「仁」や「あはれ」といったコンパッションの精神で受け容れる平和的な側面を持った宗教です。
キリスト教を中心とした西欧諸国の言い分は「核爆発を起こすAIは危険であって、抹殺すべき存在」というものでした。それならば人類史上初めて原爆を投下したアメリカ合衆国も人類社会からスポイルされるのではないでしょうか。そもそも、大ヒットしたクリストファー・ノーラン監督の「オッペンハイマー」が日本では未だに公開されていません。内容は、アメリカ陸軍による原子爆弾開発計画「マンハッタン・プロジェクト」のリーダーを務めた物理学者ロバート・オッペンハイマーの半生を描いたものです。「マンハッタン・プロジェクト」を中心に据え、特に試作された核弾頭「トリニティ」の臨界実験を映像的なクライマックスに据えているといいます。原爆および核兵器というのは、世界史上で2回しか使用されていません。そして、その土地は日本の広島と長崎です。
被爆国である日本の人々は、当事者として、映画「オッペンハイマー」をどこの国の国民よりも観る権利、また評価する権利があるはずです。実際、わたしは「オッペンハイマー 」は日米同時公開されるとばかり思っていました。それが、日本だけ非公開で、現在も公開が決定していないのは何故なのか。この映画で、原爆開発の倫理的責任はどう描かれているのか。試作弾頭「トリニティ」の臨界実験の描写は凝りに凝ったCGと音響で圧倒的なインパクトが強いそうですが、それが、原爆の恐怖を表現しているのか、それとも開発成功を称える高揚シーンになっているのか。そして、広島・長崎の惨状はどう描かれているのか。1日も早い「オッペンハイマー」の日本公開を切望します。
『慈経 自由訳』(現代書林)
アジアの諸宗教には「思いやり」としてのコンパッションの精神があると言いましたが、特にそれは、仏教の経典である『慈経』によく示されています。『慈経』とは仏教の開祖であるブッダの本心が、シンプルかつダイレクトに語られた教えです。ブッダは、人間が浄らかな高い心を得るために、すべての生命の安楽を念じる「慈しみ」の心を最重視しました。8月の満月の夜、月の光の下、『慈経』を弟子たちに説いたといわれています。数多くある仏教の諸聖典のうちでも、『慈経』は最古にして最重要なお経とされています。上座部仏教の根本経典であり、大乗仏教の『般若心経』に比肩するものです。
わたしは、『慈経 自由訳』(現代書林)を上梓しました。生命のつながりを洞察したブッダは、すべての人にある「慈しみ」の心を育てるために『慈経』のメッセージを残しました。その「慈しみ」の心は人間だけに向けられるものではなく、動物や鳥や魚や虫、さらには花や草木といった「あらゆる生きとし生けるもの」に対して向けられています。そして、仏教には「道具供養」とか「針供養」といった、なんと非生物にまで「慈しみ」の心を向けるという究極のコンパッション・マインドがあります。ならば、人間でないAIにもそれが向けられたとしても何の不思議もありません。そういえば、『慈経 自由訳』(現代書林)の動画のBGMはドビュッシー「月の光」なのですが、映画「ザ・クリエイター/創造者」のエンドロールでも「月の光」が流れました。しみじみと感動しました。