No.927


 7月19日の朝、銀座で映画関係の打ち合わせ後、シネスイッチ銀座で、この日から公開されたイタリア・スイス・フランス合作映画「墓泥棒と失われた女神」の初回上映を観ました。連日の早起きで最初は睡魔に襲われましたが、わたし好みのテーマであり、映画そのものは楽しめました。
 
 ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「第76回カンヌ国際映画祭で上映された、1980年代のイタリア・トスカーナ地方を舞台にしたドラマ。古代の遺跡を見つけられるという特殊な能力を持った男が、埋蔵品の盗掘を繰り返すうちに闇市場を巻き込む騒動を引き起こす。監督は『無垢の瞳』などのアリーチェ・ロルヴァケル。『チャレンジャーズ』などのジョシュ・オコナー、『最高の人生をあなたと』などのイザベラ・ロッセリーニ、ロルヴァケル監督作『幸福なラザロ』などのアルバ・ロルヴァケルらが出演する」
 
 ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「1980年代、イタリア・トスカーナ地方の田舎町。考古学愛好家のアーサー(ジョシュ・オコナー)は、かつての恋人を忘れられずにいたが、その一方で紀元前に繁栄した古代エトルリア人の遺跡を発見できるという特殊能力を駆使して盗掘に手を染めていた。墓泥棒の仲間たちと掘り出した埋葬品を売りさばく中、アーサーは稀少な価値を持つ美しい女神像を発見する。しかしそのことが、やがて闇のアート市場を揺るがす騒動を引き起こす」
 
 ジョシュ・オコナーが演じる主人公・アーサーは墓泥棒です。「文明のシンボルとは墓である」と言われています。約7万年前にネアンデルタール人が死者を埋葬した瞬間、人類の文明の幕が開かれたという見方もできます。しかしながら、拙著『唯葬論』(三五館、サンガ文庫)にも書きましたが、埋葬と墓は違います。埋葬とは「霊魂」の存在を前提とするきわめてスピリチュアルな行為ですが、墓をつくるというのはある意味でマテリアルな行為です。サルがヒトになった大きな契機として埋葬行為があったことは明らかですが、ピラミッドや古墳に代表されるように、墓づくりは建築技術の進歩とも密接に関わって文明の発展に寄与してきました。いずれにせよ、映画「墓泥棒と失われた女神」の墓泥棒たちは霊魂の存在を信じない唯物論者であると言えるでしょう。
 
 この映画で墓泥棒たちが荒らすのはエトルリアの墓地遺跡です。イタリアの世界遺産に、チェルヴェーテリとタルクイーニアのエトルリア墓地遺跡群があります。イタリア中部ラツィオ州にある、エトルリア人が残した2ヶ所のネクロポリス(チェルヴェーテリ近郊のバンディタッチャ遺跡と、タルクイーニア近郊のモンテロッツィ遺跡)が対象となっています。エトルリア期の墓には、2つの様式が見られます。道なりに一直線に並んで築かれている「立方体」状の墳丘と、凝灰岩の中に築かれた「円形状」の墳丘です。岩を直接刳り抜いた内部は、玄室、羨道や幾つかの部屋があります。墓にはすぐれたフレスコ画群や薄浮彫、生活用具の数々を描いた彫刻などが見られます。
 
 映画「墓泥棒と失われた女神」では、エトルリアの墓地遺跡から大地母神の石像が掘り出されます。ただし、愚かな墓泥棒あっちによって頭部が切り離されていましたが......。この失われた大地母神像について、登場人物の1人は「ミロのヴィーナス、サモトラケのニケよりも価値のあるもの」と評していました。古代のエトルリア文明では、母なる大地の女神を崇拝し、自然と共存していたといいます。エトルリアに限らず、古代ヨーロッパのどこにおいても豊穣の女神である大地母神への信仰がありました。しかし、青銅器時代になると大地の豊穣を支配しているのは実は天候なのだということに気づき、大地母神にかわり天候神が優位に立ったといいます。そして、キリスト教では大地が神聖な性格を喪失し、異教徒神が住み着く森林は宣教師によって積極的に破壊されたのでした。
 
 さて、映画「墓泥棒と失われた女神」の主人公であるアーサーは、古代エトルリア人の遺跡を発見できるという特殊能力の持ち主です。そして、その特殊能力を発揮する方法はダウジングでした。ダウジングというのは、地下水や貴金属の鉱脈など隠れた物を、棒や振り子などの装置の動きによって発見できると謳う手法です。『旧約聖書』のアロンの杖に見られるように、古代から多くの文明で木の枝は神の意志を行う道具と見なされており、木の枝を使った占いは古代ギリシアや古代ローマ、北ヨーロッパの諸民族で行われていました。18世紀以降には科学者による検証実験が何度も行われ、棒占いは筋肉の無意識な運動として科学界からは懐疑的に見られています。しかし、水脈と鉱脈の発見に関しては、近代に入っても棒占いが廃れることはありませんでした。
 
 本作には、魅惑的なお祭りシーンが登場します。トスカーナの「公現祭(エピファニア)」の様子です。刑務所から戻ってきたばかりのアーサーが1人で歩いていると、後ろから奇声をあげる集団が追いかけてきます。彼らは墓泥棒の一味で、農業用トラックに乗り込み、なにやら全員奇妙な格好をしています。アーサーは無視を続けようとするが、絡みつくように何度も名前を呼びかける彼らは、「またこちらの仲間に戻ってきなよ」とアーサーを良からぬ世界に誘惑するのでした。毎年1月6日はカトリックの国イタリアでは盛大に祝う公現祭(エピファニア)の日。騎士や貴族、お祝いを持った東方3博士などをモチーフにした派手な仮装して、街中をパレードする習わしです。
 
 エピファニアでは、練り歩きながら酒を飲み、ハグをして、「おめでとう!」と言い合います。その様子は、わたしの大好きなフェリーニ作品の大団円のような多幸感があります。ロルヴァケル監督は、生まれ育ったトスカーナを舞台に映画製作を続けていますが、パゾリーニ、フェリーニからロッセリーニまで、豊かなイタリア映画史の伝統を受け継いでいます。本作においてはロベルト・ロッセリーニ監督「イタリア旅行」(1953年)、フェデリコ・フェリーニ監督「フェリーニのローマ」(1972年)、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督「アッカトーネ」(1961年)、マルチェロ・フォンダート監督「サンド・バギー ドカンと3発」(1975年)、アニエス・ヴァルダ監督「冬の旅」(1985年)の5本の映画からインスピレーションを受けたと公言しています。本作の中には随所にそれらのオマージュを見つけることができますが、さながら"ザ・イタリアン・シネマ"といった観がありますね。