No.988
 

 2025年の元旦、喪中で新年行事はありませんでしたが、実家に寄って母の顔を見た後、シネプレックス小倉でディズニー映画「ライオン・キング:ムファサ」を鑑賞。今年の元旦は神社の代わりに映画館に初詣したわけですが、「これこそ映画!」と思える素晴らしい作品でした。劇中には擬人化されたライオンたちのさまざまなグリーフも描かれており、グリーフケア映画としても優れています。新年早々に一条賞大賞候補作品に出合いました!
 
 ヤフーの「解説」には、「アニメーションやミュージカルなどで知られる作品を実写映画化した『ライオン・キング』の前日譚を描くドラマ。前作の主人公であるシンバの父ムファサの若かりし日々を映し出す。監督を務めるのは『ビール・ストリートの恋人たち』などのバリー・ジェンキンズ。『レベル・リッジ』などのアーロン・ピエール、『シュヴァリエ』などのケルヴィン・ハリソン・Jrのほか、マッツ・ミケルセン、セス・ローゲン、タンディ・ニュートンらがボイスキャストを担当する」とあります。
 
 ヤフーの「あらすじ」は、「両親と別れたムファサは、ある群れと出会い共に行動するようになる。やがて彼は王の血を引くタカ(後のスカー)と強い絆で結ばれる。ある日、ムファサとタカは強敵であるキロスから仲間たちを守るべく約束の地を目指す旅に出るが、それは彼らの予想をはるかに超えた苦難の日々の始まりだった」です。
 
 前作の実写版「ライオン・キング」は2019年に公開されました。アフリカの雄大な自然を背景にライオンの王子シンバの成長と冒険を描いたディズニー・アニメの名作「ライオン・キング」(1994年)を、「ジャングル・ブック」(2016年)のジョン・ファブロー監督が、フルCGで新たに映画化。アフリカの広大なサバンナで、動物たちの王であるライオンのムファサの子として生まれたシンバは、いつか父のような偉大な王になることを夢見ながら成長していきます。しかし、ある時、王位を狙う叔父スカーの策略によって父の命を奪われ、シンバ自身もサバンナを追われてしまいます。やがてたどりついた緑豊かなジャングルで、イボイノシシのプンバァとミーアキャットのティモンといった新たな仲間との出会いを得たシンバは、過去を忘れて穏やかに時を過ごしていきます。一方、スカーが支配するサバンナは次第に荒れ果て、存続の危機が迫っていました。
 
「ライオン・キング」の前日譚となる「ライオン・キング:ムファサ」は、「ライオン・キング」の物語の後、タンザニアのプライド・ランドを舞台に、マンドリルのラフィキが、ムファサの孫であり、シンバとナラの娘であるキアラに2頭のライオン、ムファサとタカの起源の物語を語るという物語です。息子シンバを命がけで守った父ムファサ王の物語です。孤児であった彼の運命を変えたのは、ムファサの命を奪った"ヴィラン"スカーとの幼き日の出会いでした。この物語は孤児であるムファサが、若き王子タカと出会い、タカの家族に迎え入れられるところから始まります。2頭は血の繋がりはありませんが、兄弟のように親しくなります。ミーアキャットのティモンとイボイノシシのプンバァも解説役として登場し、ユーモアを添えます。
 
 血のつながりを越えて兄弟の絆でむすばれた彼らは、群れを守るために新天地を目指す旅に出ます。「ずっと"兄弟"でいたかった」と互いが言わずにおれなかった切ない出来事を描いています。公開初日の映画館は、待ち望んでいたディズニー・ファン、20―40代男女、ファミリー層、カップルなど幅広い客層で賑わい、SNSでは「ディズニー史上、1番切ないお話だった...でも本当に美しくて悲しくてかっこよくて、勇気をもらえる素敵なお話でした」「ムファサとタカの絆と決別が切なすぎて涙なしで観られませんでした」など、ムファサとタカの知られざる兄弟の絆に、涙したという声が続出しました。
 
「ライオン・キング」を最初に観たとき、兄弟でありながら、ムファサ王とスカ―のあまりの違いに違和感をおぼえました。「同じ親から生まれているのに、どうしてここまで違うのか」と怪訝に思ったものでした。また、ムファサに対するスカ―の心ない行いに心を痛めたものですが、じつはムファサとスカ―は実の兄弟ではなかったのですね。そのことが「ライオン・キング:ムファサ」を観て初めてわかりました。そして、タカが後にムファサと結ばれるサラビに恋をして、それが報われなかった恨みをムファサに向けたことも理解できました。タカがスカ―になる瞬間は、一条真也の映画館「ジョーカー」で紹介した2019年の映画でのジョーカー誕生を連想させる暗黒の瞬間でしたね。
 
「ライオン・キング:ムファサ」はヒューマンドラマならぬ、アニマルドラマの名作です。特にムファサとサラビの出会いと恋に落ちる場面などは、人間の俳優同士が演じる恋愛映画を観ているようでした。しかしながら、キャラクターたちの関係や心の描写の素晴らしさもさることながら、まずはその映像美に圧倒されました。アフリカの野生動物たちの生き生きとした姿もそうですが、彼らが疾走するシーンは躍動感があって美しかったです。さらに、ライオンたちが水中で闘うシーンなどはリアルそのもので、「これ、どうやって撮影したの? 本当にCGなの?」と思ってしまうほどの完成度の高さで、臨場感に溢れていました。まさに、最新の映像技術を駆使して実写もアニメーションも超越した"超実写映画"です!
 
 マンドリルのラフィキは、「おじいちゃんに会いたかったなあ...」と言うキアラに対して、「君の中におじいちゃんはいるよ」と言います。これは儒教が「孝」と呼んだ生命の連続のことですが、ムファサからシンバへ、シンバからキアラへという「キング」の継承について考えたとき、キアラが女の子であることが重要になってきます。映画のラストでキアラに弟が生まれたことがわかりますが、シンバの後継者はメスライオンのキアラになるのか、それともオスにこだわってキアラの弟になるのか......わたしは、これはディズニーの多様性路線を超えて、「日本の皇室に対するメッセージではないか」と思いました。ちなみに、わたしは愛子さまが次の天皇になるのがふさわしいと思っています。天皇をはじめ、総理大臣でも、会社の社長でも、男性にこだわらず、優秀な女性がどんどん就任するべきだと考えています。
 
 日本の皇室も儒教の影響を強く受けています。孔子が開いた儒教における「孝」は、「生命の連続」という観念を生み出しました。自分という個体は死によってやむをえず消滅するけれども、もし子孫があれば、自分の生命は存続していくことになります。わたしたちは個体ではなく1つの生命として、過去も現在も未来も、一緒に生きるわけです。つまり、人は死ななくなるわけです。「遺体」という言葉の元来の意味は、死んだ体ではなくて、文字通り「遺した体」です。つまり本当の遺体とは、自分がこの世に遺していった身体、すなわち子なのです。親から子へ、先祖から子孫へ......孝というコンセプトは、DNAにも通じる壮大な生命の連続ということなのです。孔子はこのことに気づいていたのですが、「ライオン・キング」の主題歌のタイトルにもなった"CIRCLE OF LIFE"というコンセプトはまさに「孝」のことです。

孔子とドラッカー 新装版』(三五館)
 
 
 
 拙著『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)に書いたように、孔子は「孝」という概念を発見しましたが、ピーター・ドラッカーが提唱した「会社」という概念も「生命の連続」に通じます。世界中の伝統ある優良企業には、いずれも創業者の精神が生きています。重要なことは、会社とは血液で継承するものではないということです。思想で継承すべきものです。創業者の精神や考え方をよく学んで理解すれば、血のつながりなどなくても後継者になりうる。むしろ創業者の思想を身にしみて理解し、指導者としての能力を持った人間が後継となったとき、その会社も関係者も最も良い状況を迎えられるのでしょう。逆に言えば、超一流企業とは創業者の思想をいまも培養して保存に成功しているからこそ、繁栄し続け、名声を得ているのです。
 
「孝」も「会社」も、人間が本当の意味で死なないために、その心を残す器として発明されたものではなかったかと、わたしは考えています。ここで孔子とドラッカーはくっきりと1本の糸でつながってきますが、陽明学者の安岡正篤もこれに気づいていました。安岡はドラッカーの"The age of discontinuity"という書物が『断絶の時代』のタイトルで翻訳出版されたとき、「断絶」という訳語はおかしい、本当は「疎隔」と訳すべきであるけれども、強調すれば「断絶」と言っても仕方ないような現代であると述べています。そして安岡は、その疎隔・断絶とは正反対の連続・統一を表わす文字こそ「孝」であると明言しているのです。老、すなわち先輩・長者と、子、すなわち後進の若い者とが断絶することなく、連続して1つに結ぶのです。そこから孝という字ができ上がりました。そうして先輩・長者の一番代表的なものは親ですから、親子の連続・統一を表わすことに主として用いられるようになったのです。

 
 
 
 安岡正篤は言います。人間が親子・老少、先輩・後輩の連続・統一を失って疎隔・断絶すると、どうなるか。個人の繁栄はもちろんのこと、国家や民族の進歩・発展もなくなってしまう。革命のようなものでも、その成功と失敗は一にここにかかっている。わが国の明治維新は人類の革命史における大成功例とされている。それはロシアや中国での革命と比較するとよくわかるが、その明治維新はなぜ成功したのか。その最大の理由は、先輩・長者と青年・子弟とがあらゆる面で密接に結びついたということだというのです。このように、「ライオン・キング:ムファサ」はライオンの物語でありながら、人間社会の「孝」について学べる物語なのです。そして儒教には「孝」と並んで「悌」という大切な徳目があります。「孝」が親子愛なら、「悌」は兄弟愛。つまり、弟は兄を慕い支えるものであるという考え方ですが、ここはムファサとタカ(スカ―)が実の兄弟ではなかったことが悲劇のすべてでした。
 
 ムファサは真に「キング」の名に値するリーダーでした。冷酷な敵ライオンのキロスが率いるはぐれもの集団が楽園「ミレーレ」を襲ったとき、ムファサは断崖の上に立って、あらゆる動物たちに共闘を呼びかけます。彼は「ライオンはゾウほど大きくないし、水牛ほど重くない。チーターより速く走れないし、鳥のように空も飛べない。キリンのように背も高くない。ライオンだけでは何もできない。みんなの協力が必要だ!」というアジテーションを行います。その気迫に押されて他の動物たちも共闘を決意するのですが、それはまさに民主主義的リーダーの演説でした。その演説者が民主主義国ではなく、王国の支配者に収まるところがいろんな意味で興味深かったですね。
 
 最後に、今は亡き先帝についての物語ということで、わたしはわが社の先代社長であった父のことを思い出しました。父が亡くなったことを知ったグリーフに暮れるムファサに対して、ラフィキは「父はお前の中に生きている!」と言うのですが、このセリフには泣けましたね。やはり、「映画は、愛する人を亡くした人への贈り物」でした。ムファサの父は死にましたが、ムファサの母はミレーレで生きていました。わたしはこの映画を観る直前に会った母のことを想いました。じつは母にお年玉を渡したのですが、想像していた以上にとても喜んでくれました。その姿を見て、わたしは「父への恩は返しきれないが、そのぶんまで、これからは母をもっと大切にしよう」と思いました。

父のぶんまで母を大切にします