No.430


 世界中で大ヒットしている超話題の映画「ジョーカー」を小倉のシネコンでようやく観ました。当ブログの多くの読者の方々から、「早く、一条さんの『ジョーカー』評が読みたい」などのお言葉をいただき、ついに鑑賞いたしました。いやあ、強烈でした。脳にガツンと来ました。一条真也の映画館「ホテル・ムンバイ」で紹介した映画とともに、今年の「一条賞」の最有力候補です!

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『ザ・マスター』『ビューティフル・デイ』などのホアキン・フェニックスが、DCコミックスの悪役ジョーカーを演じたドラマ。大道芸人だった男が、さまざまな要因から巨悪に変貌する。『ハングオーバー』シリーズなどのトッド・フィリップスがメガホンを取り、オスカー俳優ロバート・デ・ニーロらが共演。『ザ・ファイター』などのスコット・シルヴァーがフィリップス監督と共に脚本を担当した」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「孤独で心の優しいアーサー(ホアキン・フェニックス)は、母の『どんなときも笑顔で人々を楽しませなさい』という言葉を心に刻みコメディアンを目指す。ピエロのメイクをして大道芸を披露しながら母を助ける彼は、同じアパートの住人ソフィーにひそかに思いを寄せていた。そして、笑いのある人生は素晴らしいと信じ、底辺からの脱出を試みる」

 ジョーカー(The Joker)とは、言わずと知れた架空のスーパーヴィランで、DCコミックスの出版するアメリカンコミック『バットマン』に登場します。Wikipedia「ジョーカー (バットマン)」の「概要」には、以下のように書かれています。
「ビル・フィンガー、ボブ・ケイン、ジェリー・ロビンソンによって創造され、 "Batman#1"(1940年4月25日)で初登場した。初登場時に一話限りで死ぬ予定だったが、編集上の介入によって免れた。ジョーカーは犯罪の首謀者として描かれ、歪んだユーモアを持つサイコパスとして登場した。コミックス倫理規定委員会による規制に対応して1950年代はイタズラをするマヌケなキャラクターになり、1970年代に暗いキャラクターに戻った」

 また、Wikipediaにはこうも書かれています。
「バットマンの最大の敵として名高いジョーカーは、"Clown Prince of Crime"(犯罪界の道化王子)、"the Jester of Genocide"(虐殺する宮廷道化師)、"the Harlequin of Hate"(憎悪するハーレクイン)、"ace of spades"(スペードのエース)など様々なニックネームで呼ばれる。DCユニバースの進化の間に、ジョーカーの解釈およびバージョンは、次の2つの形式をとっている。オリジナルの知性と歪んだユーモアを持つサディスティックなサイコパスと、1940年代から1960年代にかけて人気があった、1960年代のテレビシリーズのような無害なイタズラ泥棒である 。服装はロングテール、パッド入りショルダージャケット、ネクタイ、紫のスーツ、手袋、時々つばの広い帽子、尖ったつま先の靴、ストライプのパンツやスパッツである」

 さらに、Wikipediaにはこうも書かれています。
「数十年の間に様々なオリジン・ストーリーが生まれた。基本的なオリジンでは、工場の化学薬品の溶液に落ちて真っ白な皮膚、緑の髪の毛、裂けて常に笑みを湛えた口に変化した。また、ジョーカーは超人的な能力を持っていない。カミソリのついたトランプ、笑気ガス、酸を噴霧する花などの有毒物質の調合、兵器を開発する化学工学の専門知識を駆使する。ジョーカーの性格や外観は、バットマンのアンチテーゼとして完璧な敵であると批評家によって考えられている。 大衆文化の中で最も象徴的なキャラクターの一つとして、ジョーカーはこれまでに創造された最も偉大なコミックのヴィランと架空の人物の中に挙げられている。キャラクターの人気から彼の衣類やコレクターアイテムとして多様な商品が存在する」

 さて、ネタバレにはなりますが、映画「ジョーカー」のストーリーについて、Wikipediaには以下のように書かれています。
「ゴッサム・シティでピエロの派遣業で働いてるアーサー・フレック。認知症の母を介護する傍らスタンダップコメディアンを目指しながらピエロの仕事をして下積みをしている。幼い頃からトゥレット障害により感情が高ぶると反射的に笑いだす障害を持っていた。福祉サービスによって薬が提供され症状は抑えられていたが、トーマス・ウェインによる政策で医療福祉の解体によって、薬の服用が出来なくなり悪化する事になる。ゴッサムの治安の悪さから、仕事中に路上でチンピラによる暴行等を受けても耐えてきたが、同僚が防犯のためと渡した銃がきっかけとなり事態が一転する」

 続けて、Wikipediaにはこう書かれています。
「医療施設でピエロを演じている際、しまっていた銃を落とした事がきっかけで解雇される。その帰宅中に地下鉄内でナンパをしていたウェイン産業の社員の前で笑いの発作を起こした為に勘違いで暴行され、感情が昂り銃を発砲し全員を殺害してしまう。更に母親がかつてトーマス・ウェイン邸で働いていた事から支援の手紙を書いていたのを偶然目撃し、愛人であったという文面から自分がトーマスの息子ではないのかという疑惑が高まり独自に調査をする。結果、母親は若い頃から精神に異常をきたし、一方的にトーマス・ウェインを恋人だと思い込んでいただけでなく、自分は養子で、母親の元恋人に虐待を受け障害を患った事を知る」

 さらに、Wikipediaにはこう書かれています。
「マンションの隣人と恋仲となり、わずかながら幸せを感じていたが、それもまた自分が苦境の中から作り上げた妄想だと知る。自分が目標とするコメディアン、マーレイに自分が発作を起こしながらネタを披露する姿をテレビで笑い物にされるなどの不幸が重なり、完全な狂気に追い込まれる。狂気に追い込まれてからは、母親をはじめ自分を陥れた身近な友人を殺害し、出演依頼を受けたマーレイの番組で拳銃自殺をしようと考えていた。警察に追われている際、自分が起こした地下鉄銃撃の反響が大きな暴動に変わって行く様を観て次第に社会が混沌をきたしていることに快感を感じるようになる。見た目は赤いスーツに仕事の際のピエロメイクをそのまま施している。チェーンスモーカーで、タバコをフィルターまで吸いきるほど。ホアキン・フェニックスが演じる」

 主演のホアキン・フェニックスは最高でした!
 ジョーカーという世界最狂の怪人を見事に演じ切った怪演でした。これまで、ジャック・ニコルソンやヒース・レジャーといった怪優たちも半端ではない演技力でジョーカーに扮しましたが、ホアキン・フェニックスも彼らの仲間入りをしましたね。ジョーカーを演じたことでヒース・レジャーは一時的に精神を病んだそうですが、ホアキン・フェニックスもそうなるのではないかと心配してしまいます。彼をスクリーンで初めて観たのは、一条真也の映画館「ザ・マスター」で紹介した映画でした。トム・クルーズをはじめハリウッドのスターたちが入信していることで知られる新興宗教「サイエントロジー」の創始者をモデルにした問題作で、人間の深層心理に鋭く迫っていますした。第2次世界大戦後、精神に傷を負った元兵士が宗教団体の教祖と出会い、関係を深めていく様子をスリリングかつドラマチックに描きますが、ホアキン・フェニックスは主役の元兵士を演じていました。このときから、「なんか不気味な役者だな」と思っていました。

「ジョーカー」は、冒頭からピエロ姿のアーサーが不良少年たちから暴行されるシーンが展開され、その後もずっとアーサーに降りかかる災難が描かれるので、やりきれない暗い気分になります。ちょうど、この映画を観たとき、わたしはいろいろと嫌な出来事が重なってモヤモヤしていたのですが、アーサーの悲惨な状況をスクリーンで目にするうちに、自分の抱えている悩みのことは忘れていました。映画には、こういった効果もあることを再確認しました。世を恨むアーサーですが、彼の母親も「こんな暮らしをするなんて」と嘆き続けます。しかし、フレック母子の住むアパートはそんなに酷い部屋とは思いませんでした。ゴッサムシティの地価や物価が高いか安いかは知りませんが、あれだけの大都会の部屋にしては広さもあり、快適な住まいのように思えました。

 それにしても、「ジョーカー」は危険きわまりない映画です。特に銃にまつわる描写が危険視されているようで、アメリカでは上映前から「現実の暴力を誘発する可能性があるのではないか」と注目を集めていました。「ダークナイト ライジング」(2012年)公開時の銃乱射事件の犠牲者遺族が公開書簡を発表しています。「ジョーカー」の公開にあたっては、危険性についての話題が早くから取り沙汰されたこともあり、警察や米軍が警戒態勢を敷きました。映画館では、なんと手荷物検査なども実施されています。全米公開後初めての週末は、警察が映画館に出動するに至ったケースが複数確認されています。しかし、「ジョーカー」がここまで危険視されるのは、やはり上映される場所がアメリカだからであり、ジョーカーがアメコミの中から生まれたキャラクターだからだと思います。日本では、そこまでの影響力は及ばさないはずです。
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死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)



 わたしが「ジョーカー」の負の影響がアメリカに限定され、日本ではそれほどでもないと考える理由は、拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)にも書いたように、アメリカにおいて映画とは神話の代用品であり、映画の中の有名なキャラクターは神のごとき存在だからです。神話とは宇宙の中における人間の位置づけを行うことであり、世界中の民族や国家は自らのアイデンティティーを確立するために神話を持っています。日本も、中国も、インドも、アフリカやアラブやヨーロッパの諸国も、みんな民族の記憶として、または国家のレゾン・デトール=存在理由として、神話を大事にしているのです。ところが、神話という基幹文化を持っていない国が存在し、それはアメリカ合衆国という世界一の超大国なのです。建国200年あまりで巨大化した神話なき国・アメリカは、さまざまな人種からなる他民族国家であり、統一国家としてのアイデンティー獲得のためにも、どうしても神話の代用品が必要でした。それが、映画です。

 映画はもともと19世紀末にフランスのリュミエール兄弟が発明しましたが、他のどこよりもアメリカにおいて映画はメディアとして、また産業として飛躍的に発展しました。アメリカにおける映画とは、神話なき国の神話の代用品だったのです。それは、グリフィスの「國民の創生」や「イントレランス」といった映画創生期の大作に露骨に現れていますが、「風と共に去りぬ」にしろ「駅馬車」にしろ「ゴッドファーザー」にしろ、すべてはアメリカ神話の断片であると言えます。それは過去のみならず、「2001年宇宙の旅」「ブレードランナー」「マトリックス」のように未来の神話までをも描き出します。

 そして、スーパーマン、バットマン、スパイダーマンなどのアメコミ出身のヒーローたちも、映画によって神話的存在、すなわち「神」になったと言えるでしょう。 一条真也の映画館「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」で狂ったように暴れるスーパーマンは、まるで日本神話の「荒ぶる神」スサノヲのようでした。わたしは「アメリカにおいて、映画は神話の代用品」という考えを、これまで何度も述べてきました。アメリカの神々たちが一堂に会するのが一条真也の映画館「ジャスティス・リーグ」で紹介した映画です。これは、DCコミック(ディーシー コミックス、DC Comics)の刊行するアメリカン・コミックスに登場する架空のスーパーヒーローチームです。DCコミックスはアメリカの漫画出版社で、アイアンマンやスパイダーマンらが所属する「アベンジャーズ」のマーベル・コミックと並ぶ二大アメコミ出版社のひとつです。DCとマーベルは、まさに「アメリカの二大神話メーカー」と言えるでしょう。

 さて、「ジョーカー」という映画には、「悲しみ」が溢れています。では、グリーフケアの映画かというとそうではありません。アーサーの深い悲しみは「怒り」へと向かっていきます。その「怒り」のエネルギーはあまりにも大きく、そのためにこの映画は危険物扱いされているのです。冒頭のシーンでは民衆を怒らせるような深いなニュースばかり流れ、否が応でも観客のストレスはたまっていきます。わたしもこの映画を観たとき、あることに怒っていたので、自分の内なる攻撃性に火をつけられる気がして怖かったです。
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ホスピタリティ・カンパニー』(三五館)



「ジョーカー」ことアーサー・フレックの巨大な怒りを目にして呆然としながら、わたしは自分の仕事のことを考えていました。わが社はいわゆるサービス業ですが、わが社の冠婚葬祭やホテルの現場で働く社員たちのことを考えたのです。拙著『ホスピタリティ・カンパニー』(三五館)の「感情労働のプロとして怒りをどう扱うべきか?」にも書きましたが、現代は、モノを生産したり加工したりする仕事よりも、人間を相手にする仕事をする人、すなわち「感情労働者」が多くなってきました。感情労働とは、肉体労働、知識労働に続く「第三の労働形態」とも呼ばれます。

「感情社会学」という新しい分野を切り開いたアメリカの社会学者アーリー・ホックシールドは、乗客に微笑む旅客機のキャビンアテンダントや債務者の恐怖を煽る集金人などに丹念なインタビューを行い、彼らを感情労働者としてとらえました。ホックシールドは言います。マルクスが『資本論』の中に書いたような19世紀の工場労働者は「肉体」を酷使されたが、対人サービス労働に従事する今日の労働者は「心」を酷使されている、と。現代とは感情が商品化された時代であり、労働者、特に対人サービスの労働者は、客に何ほどか「心」を売らなければならず、したがって感情管理はより深いレベル、つまり感情自体の管理、深層演技に踏み込まざるをえない。それは人の自我を蝕み、傷つけるというのです。

 冠婚葬祭業にしろホテル業にしろ、確かに気を遣い、感情を駆使する仕事です。お客様は、わたしたちを完全な善意のサービスマンとして見ておられます。もちろん、わたしたちもそのように在るべきですが、なかなか善意の人であり続けるのは疲れることです。みなさんは、感情労働のプロとして、ホスピタリティを提供しているのです。よく、高齢者の介護施設などで働く人々が高齢者を虐待した、などという事件が起きます。報道によれば、容疑者は普段は優秀な介護者で、評判も高いようです。もちろん彼らの行為はけっして許されませんが、やはり、善意の人であり続けるのは大変なことのようです。

 接客業で一番辛いのは、お客様の理不尽な態度に接する時ではないでしょうか。中にはクレーマーと呼ばれる人もいますが、サービスを提供する人間に罵声を浴びせ、人間性を否定するような暴言を吐く者もいます。それでも相手はお客様ですから、怒ってはならない。我慢しなければならない。 怒りをこらえるというのは、本当に辛いですね。わたしも相当に気の短い人間なので、気持ちは良く理解できます。しかしながら、わたしは怒りっぽい自分の性格を恥じてもいます。

 では、「怒り」をどう扱うべきか。
スリランカ初期仏教長老のアルボムッレ・スマナサーラ氏によれば、仏教では、怒りを完全に否定しているそうです。ブッダは、「たとえば、恐ろしい泥棒たちが来て、何も悪いことをしていない自分を捕まえて、面白がってノコギリで切ろうとするとしよう。そのときでさえ、わずかでも怒ってはいけない。わずかでも怒ったら、あなた方はわが教えを実践する人間ではない。だから、仏弟子になりたければ、絶対に怒らないという覚悟を持って生きてほしい」と言ったそうです。

 なぜなら、怒りは人間にとって猛毒だからです。その猛毒をコントロールすることが心の平安の道であることをブッダは告げたかったのでしょう。ブッダは、「怒るのはいけない。怒りは毒である。殺される瞬間でさえ、もし怒ったら、心は穢れ、今まで得た徳はぜんぶ無効になってしまって、地獄に行くことになる」とさえ言っています。つまり、怒ったら、自分が損をするのです。

 わたしたちのような俗人は、なかなかブッダのような境地に至ることはできません。なにしろ、ブッダとは「悟った者」という意味なのです。代わりに、わたしが現在重要視しているのは、アンガー・マネジメントという手法です。1970年代にアメリカで生まれた感情制御のノウハウで、怒りを予防し制御するための心理療法プログラムです。怒りを上手く分散させることができると評価されています。怒りはしばしばフラストレーションの結果です。また、自分にとって大事なものを遮断されたり妨害された時の感情でもあります。さらに、怒りは、自分の根底にある恐れや脆弱感に対する防衛機制でもあります。

 アンガーマネジメント・プログラムでは、怒りは定義可能な理由によって生じる、論理的に分析可能な強い感情であり、適切な場合には前向きにとらえてよいものだと考えられています。自分の怒りをしっかりと理解することでその暴発を避け、冷静な判断を助けることがアンガーマネジメントの目的です。その有効性の高さから、現在では大企業が積極的に導入している例も多いといいます。そこで、わたしが注目しているのが「6秒ルール」というものです。

 誰かに何か嫌なことを言われ、ついカッとなって言い返す、というようなことは誰にでもありますが、そのときはぜひ「6秒ルール」を試すといいでしょう。どういうことかというと、人間が怒りを覚えるとき、脳内では興奮物質のアドレナリンが激しく分泌されているそうです。そのことによって興奮してしまい、冷静ではいられなくなってしまうのです。しかしながら、アドレナリン分泌のピークは、怒りを発してから6秒後と言われています。つまり、その最初の6秒間をやり過ごしてしまえば、その後は徐々に冷静さを取り戻すことができるというのです。

 もちろん、怒り心頭のときに「6秒をやり過ごす」ことは簡単ではありません。 そんなときには、「他のことに意識を向けること」が大事だそうです。最も簡単な方法は、心の中で6秒を数えることです。数を数えるといった単純な作業を行うことで、意識を自然とそちらに向けられるわけです。他にも、「朝からの自分の行動を順番に思い出す」とか「パソコン、コーヒーカップ、時計、書類など、目に見えているものの名前をひとつずつ心の中で読み上げる」なども有効だといいます。アンガー・マネジメントは「あおり運転」の防止などでも注目されていますが、「カッとなったら、まずはこうする」というルールを自分なりに作っておくことで、突発的な怒りに任せた行動を未然に防げます。
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ミッショナリー・カンパニー』(三五館)



 わたしの場合は、冠婚葬祭業、特に葬儀の仕事を侮辱されたときなどに激しい怒りを感じます。若い頃は相手に議論を吹っ掛けたりしていましたが、50代も半ばを過ぎた今では馬鹿は相手にしないことにしています。なによりも、わたし自身が葬儀という行為の重要性や意義を誰よりも理解しているつもりですし、それをさまざまな形で発信していくというミッションを感じていれば、腹も立ちません。「ああ、この人は葬儀の大切さもわからない教養のない人なのだな。福沢諭吉は『世の中で一番みじめな事は人間として教養のない事です』といったけれども、この人はかわいそうな人だな」と思うことにしています。わたしにとって、ミッション・マネジメントはアンガー・マネジメントそのものです。

 もっとも、ジョーカーに変身したアーサーの怒りは、わたしの怒りなどの比ではない巨大なものですが、彼の怒りや悲しみは痛いほど共感できます。映画には小人症の男性も登場しますが、ことあるごとに差別的暴言を吐かれる彼の悲しみを見るのも辛かったです。他人から理解されずに、差別され続ける、この世のありとあらゆる虐げられし人々の代弁者として、ジョーカーは生まれました。自らの血をもって笑う道化師となった彼の姿を見てしまった今、もうバットマンなどに感情移入することはできませんね。それにしても、とんでもない映画が作られたものです。台風19号の猛威も恐ろしいですが、「ジョーカー」も恐ろしい!