No.1259


 金沢に来ています。5月14日の夜、イギリス・フランス・ベルギー合作映画「オールド・オーク」をユナイテッド・シネマ金沢で観ました。シネマネジメントの一環で、サンレー北陸の幹部社員と一緒の映画鑑賞です。ラストシーンは、葬儀というものが「世界平和」や「人類平等」といった崇高な理念の実現に絶大な効力を発揮していたので驚きました。本来なら拍手喝采したいところですが、正直「これは、やりすぎでは?」と思ってしまいました。
 
 ヤフーの「解説」には、「さびれた町の住民と難民のいざこざや理解を描き、第76回カンヌ国際映画祭で上映されたドラマ。シリア難民を受け入れたことで揺らぐイギリス北東部の町を舞台に、パブを営む男性とあるシリア人女性が友情を育む。メガホンを取るのは『わたしは、ダニエル・ブレイク』などのケン・ローチ。デイヴ・ターナー、エブラ・マリ、クレア・ロッジャーソンらが出演する」とあります。
 
 ヤフーの「あらすじ」は、「かつて炭鉱の町として活気のあったイギリス北東部の町で、TJ・バランタインが経営するパブ『オールド・オーク』は、人々の安らぎを与える場となっていた。だが、町でシリア難民を受け入れることになり、それをめぐってパブの客同士がいさかいを起こすようになる。TJは店の先行きに不安を抱くが、シリアから来たという女性ヤラと出会い、次第に心を通わせていく」です。
 
 イギリス映画界の巨匠であるケン・ローチは、1936年6月17日生まれなので、来月には90歳になります。に英ウォリックシャー州出身。オックスフォード大学時代から演劇に熱中し、卒業後は劇団で演出補佐を務めました。その後、BBCでドキュドラマの演出を手がけ、なかでも都市部のホームレスの実態を描いた回は、ホームレスに関する法律を改正させるほどの大きな反響を呼びました。1967年、「夜空に星のあるように」で映画監督デビューし、続く「ケス」(1969年)が絶賛されます。その後20年ほど不遇の時代を過ごしますが、90年代に入って再び脚光を浴び、英国の労働者階級や移民を描くことで定評を得ました。「麦の穂をゆらす風」(2006年)、および「わたしは、ダニエル・ブレイク」(2016年)の2作品でカンヌ映画祭の最高賞パルムドールを受賞しています。
 
「わたしは、ダニエル・ブレイク」は、社会の片隅で必死に生きようとする男の奮闘に迫る人間ドラマ。病気で働けなくなった主人公が煩雑な制度に振り回されながらも、人との結び付きを通して前進しようとする姿を描きます。59歳のダニエル(デイヴ・ジョーンズ)は、イギリス・ニューカッスルで大工の仕事に就いていましたが、心臓の病でドクターストップがかかります。失職した彼は国の援助の手続きを進めようとしますが、あまりにもややこしい制度を前に途方に暮れます。そんな中、ダニエルは二人の子供を持つシングルマザーのケイティと出会うのでした。
 
「わたしは、ダニエル・ブレイク」に続いて、イギリス北東部を舞台にした映画が「家族を想うとき」です。働き方の変化と時代に振り回される家族の姿を描いたヒューマンドラマ。ニューカッスルを舞台に、懸命に生きる家族の絆を映し出します。マイホームを持ちたいと考えている父のリッキーは、フランチャイズの宅配ドライバーとして独立。母のアビーは、介護士として働いていました。夫婦は家族の幸せのために働く一方で子供たちと一緒に居る時間は少なくなり、高校生のセブと小学生のライザ・ジェーンはさみしさを募らせます。ある日、リッキーが事件に巻き込まれるのでした。
 
「わたしは、ダニエル・ブレイク」「家族を想うとき」、そして本作「オールド・オーク」はイギリス北東部三部作だそうです。本作が最後の作品だと公言するローチ監督は生粋のリベラリストですが、正直な感想を言うと、三部作のどれもが弱者の悲惨な現実を描いてはいますが、その具体的な解決策は描いていないということです。「オールド・オーク」には、隣人祭りを発展させたような共同食堂(大人も子どもも無料で食事ができる場所)が登場しますが、ある事件で途中から消えてしまいます。本当は、この共同食堂をなくさずに、「その後」を見てみたかったです。それと、ある人物の葬儀で世界が変わるシーンが出てきますが、「儀式バカ一代」と自任するこのわたしでも「葬儀にそこまで力があるとは!」と仰天するほどの過剰な描写でした。ローチ監督はリアリズム(現実主義)からロマンティシズム(理想主義)に完全にシフトしましたね。
 
「オールド・オーク」を観て、わたしは一条真也の映画館「シンプル・アクシデント/偶然」で紹介した2日前に観たイラン映画を連想しました。かつて理不尽に投獄された人々が、その復讐を果たそうとする物語です。ジャファル・パナヒ監督が、自身の投獄経験とともに刑務所で出会ったメンバーらの体験に着想を得て撮り上げました。かつて正当な理由のないまま投獄されたワヒドは、自分の一生を台無しにした義足の看守を偶然見つけます。その看守を拘束したワヒドが荒野に掘った穴に看守を埋めようとすると、相手は人違いだと主張します。実は看守の顔を見たことがなかったワヒドは復讐を一旦やめ、看守を知る人々を訪ねることにするのでした。
 
「シンプル・アクシデント/偶然」にも、「オールド・オーク」にも、わたしが提唱する「CSHW」が描かれていました。これは、Compassion(思いやり)⇒Smile(笑顔)⇒Happiness(幸せ)⇒Well-being(持続的幸福)と進んでいくサイクルです。そして、Well-being(持続的幸福)を感じている人は、Compassion(思いやり)をまわりの人に提供・拡大していくことができます。これが「CSHW」のハートフル・サイクルです。この反対が、Hatred(憎悪)→Violence(暴力)→Revenge(復讐)→Grief(悲嘆)という「HVRG」のハートレス・サイクルです。残念ながら、イラン・アメリカ・イスラエル・ガザ・ウクライナ・ロシアなどの戦争当事国を中心とする世界は、まさにこの最中にあります。
 
 ハートレス・サイクルとしての「HVRG」はGrief(悲嘆)で一区切りとなります。ここからまたHatred(憎悪)に向かっていって負の連鎖に進むことが多いのですが、じつはGrief(グリーフ)はCare(ケア)を呼び寄せることができます。そして、Care(ケア)からはCompassion(コンパッション)が生まれるので、ここから「CSHW」を起動させることも可能なのです。つまり、グリーフというものはハートレス・サイクルはもちろん、ハートフル・サイクルにも進みうる両面性を持っているのです。そして、「オールド・オーク」では、主人公の1人であるシリア難民のヤラの父親の遺体が見つかったことから巨大なコンパッションの輪が拡がっていったのでした。
 
「オールド・オーク」の舞台であるイギリス北東部の町の住人たちは、シリアからの難民受け入れに難色を示します。それどころか、露骨な差別や嫌がらせもするのですが、じつは町の住人たちのほとんどは廃坑となった炭鉱労働者の家族で、貧困にあえいでいました。つまり、彼らも難民と同じように社会的弱者だったのです。炭鉱労働者の家族たちは、炭鉱の事故で夫や父親を亡くすという悲嘆を経験していました。それがヤラの父親の葬儀で呼び起こされ、突如として彼らの「こころ」は連帯するのですが、それは悲嘆による縁としての「悲縁」を思わせました。とはいっても、ちょっと無理がある展開なのですが。この葬儀のシーンからラストに至る展開は、もっと丁寧に描いてほしかったですね。
 
 それでも、巨匠ケン・ローチ監督が人生最後に訴えたのは映画史上でも空前の「葬儀力」とでもいうべきものでした。それは、一気に世界を平和にし、人類を平等にするほどの途方もない共感のエネルギーであり、ここは弱者にずっと寄り添ってきたローチ監督の気骨を見た気はしましたね。確かにラストシーンは強引でしたが、国籍、人種、宗教などを超えて、誰もが「大切な人を亡くした人に寄り添う」という人間の本能を描いていると思いました。信じられないほどの多くの弔問者が花を携えてヤラの家に続々と集まってくる光景を見ていると、 一条真也の映画館「ハムネット」で紹介したイギリス映画で舞台上で絶命したハムレットに観客が次々と手を差し伸べる感動のシーンが重なりました。