No.1247


 4月10日、沖縄から北九州に戻りました。その夜、この日から公開のイギリス映画「ハムネット」をローソン・ユナイテッドシネマ小倉で観ました。シネマネジメントの一環として、わが社の上級グリーフケア士も一緒でした。ずっと観たかった作品ですが、やっと鑑賞できました。もう腰が抜けるほど感動しました。第98回アカデミー賞の主演女優賞に輝いたジェシー・バックリーが素晴らし過ぎる!
 
 ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「マギー・オファーレルの小説を原作に描くヒューマンドラマ。16世紀のイギリスを舞台に、アグネス・シェイクスピアと、ロンドンで劇作家として活動する彼女の夫ウィリアム・シェイクスピア、そして彼らの3人の子供たちを描く。監督などを務めるのは『ノマドランド』などのクロエ・ジャオ。『フィンガーネイルズ』などのジェシー・バックリー、『グラディエーターⅡ 英雄を呼ぶ声』などのポール・メスカルのほか、エミリー・ワトソン、ジョー・アルウィンらがキャストに名を連ねる」
 
 ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「1580年、イギリス。革手袋を扱う店の息子として小さな村で生まれたウィリアム・シェイクスピア(ポール・メスカル)は、子供たちに語学を教えていた。ある日、彼は鷹を操るアグネス(ジェシー・バックリー)という女性を教室の窓から見かけ、心奪われる。恋に落ちた二人はアグネスの妊娠をきっかけに、両家の反対を押し切り結婚する」
 
 ウィリアム・シェイクスピアの妻であるアグネス・ハサウェイは、アン・ハサウェイとも呼ばれます。2人が結婚したのは1582年でしたが、当時のシェイクスピアは18歳、ハサウェイは26歳でした。シェイクスピアは1616年に死去し、ハサウェイはその7年後の1623年に死去しています。ハサウェイは法的文書にわずかに名前が残っているだけで、その生涯はほとんど伝わっていません。しかしながら、ハサウェイの人物像やシェイクスピアとの関係性は、長年にわたって多くの歴史家や作家の研究対象となっており、映画やテレビドラマなどでも大きくとりあげられています。「ハムネット」を観て初めて知ったのですが、彼女は森を愛する女性で、未来を予見する不思議な能力も持っていたようです。「魔女」のような存在だったのかもしれません。この映画は、「魔女映画」として観ることもできます。
 
 シェイクスピアとアグネスは3人の子どもに恵まれました。長女のスザンナ・シェイクスピアは医師のジョン・ホールと結婚。長男のハムネット・シェイクスピアと次女のジュディス・シェイクスピアは双子でした。ハムネットは11歳で夭折します。生まれたときはジュディスがなかなか泣かず、最初は死産かと思われたそうです。その後、11歳になったジュディスは重病になって死にかかったのですが、奇跡的に回復。亡くなったのはハムネットの方でした。生き残ったジュディスは結婚して、3人の男の子を産みますが、長男は1歳になる前に夭折。次男は20歳で、三男は19歳で亡くなっています。このようにジュディスの人生とは、兄であるハムネットとの死別をはじめ、グリーフの連続でした。
 
「ハムネット」を観て、まず圧巻だと感じたのは、ジェシー・バックリーが演じるアグネスがハムネットとジュディスの双子を出産するシーンでした。長女のスザンナを森で産んだアグネスですが、双子は婚家で産みます。ものすごい形相でいきんで出産し、子どもが泣かなかったら「わたしの命をかけて守る」と誓う姿はもはや無敵です。ヒトの赤ちゃんは自然界で最も弱い存在です。すべてを母親が細心の注意でケアしなければ死んでしまいます。こんなに生命力の弱い生き物は他に見当たりません。わたしはずっと「なぜ、こんなに弱い生命種が滅亡せずに、残ってきたのか?」と、不思議で仕方ありませんでした。あるとき、その謎が解明しました。それは、ヒトの母親が子どもを死なせないように必死になって育ててきたからです。
「サンデー毎日」2016年5月22日号


 
 そもそも出産のとき、ほとんどの母親は「自分の命と引きかえにしてでもこの子を無事に産んでやりたい」と思うものでしょう。実際、母親の命と引きかえに生まれた新しい命も珍しくありません。また、たとえ無事に出産しても、産後の肥立ちが悪くて命を落とした母親も数えきれません。まさに、母親とは命がけで自分を産み、無条件の愛で育ててくれた存在なのです。ある意味で、自然界においてヒトの子が最弱なら、ヒトの母は最強と言えるかもしれませんわたしの生まれた日は、たまたま5月の第二日曜日で「母の日」でした。そのため、両方とも、母に心からの感謝をする日だと昔から思ってきました。わが社の全社員の誕生日には、お祝いのバースデーカードとプレゼントを贈っています。そのとき、「誕生日は、お母さんに感謝して下さい」とお願いしています。「ハムネット」でのアグネスの出産シーンを見て、そんなことを思い出しました。
 
 そして、「ハムネット」はわが子を亡くした悲嘆を描いたグリーフ映画です。息子を亡くして絶望の淵にあったアグネスは、家族から離れてロンドンで芝居の脚本を書いている夫のことが許せませんでした。「あの子が苦しんで死んだとき、あなたはいなかった」とシェイクスピアを罵ります。しかし、グローブ座で上演された戯曲「ハムレット」を観たとき、その根底にハムネットの死を悼むシェイクスピアの悲しみがあることを悟ります。いくつもの障害とグリーフを抱えた夫婦でしたが、彼らにとって前向きといってよい方向に向かっていたときに訪れたハムネットの死という残酷な出来事。そこから生まれた罪悪感、怨み、孤独、孤立、無気力・・・・・・ありとあらゆる種類のグリーフを見せつけられたような気持ちでした。
 
 映画のラストシーンは、「ハムレット」が初演されたグローブ座が舞台でした。この場面は「グリーフケアの名シーン」などというレベルを超えて、映画史に残る感動のラストでした。死を迎える者に観衆が手を差し伸べる場面は背中がゾクリとするほど印象的で、「こころ」に強く焼き付きました。アグネスの隣の年配の女性も泣いていました。きっと、彼女もアグネスのように愛する者を失った経験があるのでしょう。いや、このときグローブ座にいた観衆のすべてが「愛する人を亡くした人」だったのではないでしょうか。一緒に鑑賞したサンレーのグリーフケア推進室の市原泰人室長(上級グリーフケア士)は、「それぞれに異なった人生を送ってきた全ての人が手を差し伸べる、ここには救い、いたわり、慰めや様々な思いが込められていたように感じます。ただそれぞれが手を差し伸べる姿に人間の本能として備わっている他者に対する優しさを感じたように思います」とのLINEメッセージを送ってくれました。彼は、アグネスの最後の表情から「グリーフと共に生きていくという意思の表れと未来への眼差し」を感じたといいます。
愛する人を亡くした人へ』 (PHP文庫)


 
 わが子を亡くすというグリーフを共有したウィリアム・シェイクスピアとアグネス・ハサウェイの夫婦。夫は「ハムレット」という戯曲を書くことによって、妻はそれを鑑賞することによって、そのグリーフをセルフケアしました。改めてグリーフケアにおける物語の持つ力の大きさを痛感します。 拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林・PHP文庫)にも書きましたが、愛する人を亡くした人の「こころ」は不安定に揺れ動いています。しかし、そこに葬儀のような儀式というしっかりした「かたち」のあるものが押し当てられると、不安が癒されていきます。親しい人間が死去する。その人が消えていくことによる、これからの不安。残された人は、このような不安を抱えて数日間を過ごさなければなりません。「こころ」が動揺していて矛盾を抱えているとき、儀式のようなきちんとまとまった「かたち」を与えないと、人間の「こころ」にはいつまでも不安や執着が残ります。

この不安や執着は、残された人の精神を壊しかねない、非常に危険な力を持っています。この危険な時期を乗り越えるためには、動揺して不安を抱え込んでいる「こころ」に、ひとつの「かたち」を与えることが求められます。まさに、葬儀を行う最大の意味はここにあります。そして、この儀式という「かたち」は、「ドラマ」や「演劇」にとても似ています。死別によって動揺している人間の心を安定させるためには、死者がこの世から離れていくことをくっきりとしたドラマにして見せなければなりません。ドラマによって「かたち」が与えられると、「こころ」はその「かたち」に収まっていきます。すると、どんな悲しいことでも乗り越えていけるのです。それは、いわば「物語」の力だと言えるでしょう。わたしたちは、毎日のように受け入れがたい現実と向き合います。そのとき、物語の力を借りて、自分の心のかたちに合わせて現実を転換しているのかもしれません。つまり、物語というものがあれば、人間の心はある程度は安定するものなのです。逆に、どんな物語にも収まらないような不安を抱えていると、心はいつもぐらぐらと揺れ動いて、愛する人の死をいつまでも引きずっていかなければなりません。
唯葬論』(サンガ文庫)


 
 拙著『唯葬論』(三五館・サンガ文庫)にも書きましたが、仏教やキリスト教などの宗教は、大きな物語だと言えるでしょう。「人間が宗教に頼るのは、安心して死にたいからだ」と断言する人もいますが、たしかに強い信仰心の持ち主にとって、死の不安は小さいでしょう。中には、宗教を迷信として嫌う人もいます。でも面白いのは、そういった人に限って、幽霊話などを信じるケースが多いことです。宗教が説く「あの世」は信じないけれども、幽霊の存在を信じるというのは、どういうことか。それは結局、人間の正体が肉体を超えた「たましい」であり、死後の世界があると信じることです。宗教とは無関係に、霊魂や死後の世界を信じたいのです。幽霊話にすがりつくとは、そういうことだと思います。父王の幽霊が登場する「ハムレット」は、世界の幽霊文学を代表する存在となっています。ウィリアム・シェイクスピアという天才劇作家の本質は偉大なるグリーフケア作家だったのだと気づきました。グローブ座での「ハムレット」の初演とは、11歳で亡くなったハムネット・シェイクスピアを弔う儀式、すなわち葬儀でした。そして、「ハムネット」は世界の映画史に燦然と輝く大傑作です!!