SF映画について

●怪獣映画の思い出

 わたしは、SF映画が好きです。
 小学生の図書室でベルヌの『地底探検』(創元SF文庫)、ウェルズの『タイムマシン』(同)、ドイルの『失われた世界』(同)を読んで以来のSFファンで、この三冊は今でもわが「三大名作SF」です。
 SF映画で最初に観たのは怪獣映画でした。わたしが4歳か5歳ぐらいのときに、父が小倉の映画館で上映されていた大映の「大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス」(67)に連れて行ってくれたのです。その後、同作品で監督を務められた湯浅憲明氏が、父が経営するサンレー東京の社員になられたときは驚きました。当時、六本木にあった事務所で大映ガメラ・シリーズのビデオ上映会を湯浅監督の解説付きで行った思い出があります。
 「大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス」の洗礼を受けて、怪獣映画好きになったわたしは、少年時代に多くの怪獣映画を観ました。大映が倒産して大好きなガメラ映画を観ることはできなくなりましたが、「東宝チャンピオンまつり」のゴジラ映画をほとんど観ました。
 大学生になってから、ビデオで「キングコング」(33)や「ゴジラ」(54)を観て、その幻想的な魅力に取りつかれました。この二作は観客の無意識に働きかける強い影響力を持った作品で、「キングコング」が上映された年に、作中に登場する首長竜が突如としてスコットランドのネス湖で目撃されました。今ではネッシーは「キングコング」から生まれた幻影であるという説は有名です。
 「ゴジラ」も、日本人の心に多大なインパクトを与えました。わが書斎には、ゴジラの大型フィギュアが置いてありますが、54年に製作された映画「ゴジラ」は怪獣映画の最高傑作などというより、世界の怪奇映画史に残る最も陰鬱で怖い映画だったと思います。それは、その後に作られた一連の「ゴジラ」シリーズや無数の怪獣映画などとは比較にもならない、人間の深層心理に訴える名作でした。ある心理学者によれば、原初の人類を一番悩ませていたのは、飢えでも戦争でもなく、「悪夢」だったそうです。「ゴジラ」の暗い画面と黒く巨大な怪獣は、まさに「悪夢」を造型化したものだったと言えるでしょう。
 ゴジラ・シリーズ最新作である「シン・ゴジラ」(16)は、東日本大震災を強くイメージさせる内容となっています。東日本大震災での福島第一原発事故の発端となったのは、同発電所の一号機の水素爆発でした。この「水素爆発」という言葉を聞いた瞬間に連想したのも、やはりゴジラでした。なにしろ、映画「ゴジラ」のサブタイトルは「水爆大怪獣映画」だったのです。
 この映画が作られた54年という年は、日本のマグロ漁船である第五福竜丸が、ビキニ環礁でアメリカの水爆実験の犠牲になった年です。当時の日本人には、広島、長崎で原爆を浴びたという生々しい記憶がしっかりと刻まれていました。
 ゴジラは、人間の水爆実験によって、放射能を自己強化のエキスとして巨大化した太古の恐竜という設定です。世界最初で唯一の被爆国である日本では、多くの観客が放射能怪獣という存在に異様なリアリティをおぼえ、震え上がりました。
 そして、ゴジラの正体とは、東京の破壊者です。アメリカを代表する怪獣であるキングコングがニューヨークの破壊者なら、ゴジラは東京を蹂躙する破壊者なのです。
 映画「ゴジラ」では、東京が炎に包まれ、自衛隊のサーチライトが虚しく照らされます。 その光を浴びて、小山のような怪獣のシルエットが、ゆっくりとビル群の向こうに姿を現わします。それはもう「怪獣」などというより、『旧約聖書』に出てくる破壊的な神そのものです。
 海からやって来たゴジラは銀座をはじめとする東京の繁華街をのし歩き、次々に堅牢なビルが灰燼に帰してゆくのです。
 その後には、不気味なほどの静けさが漂っています。
 でも、「ゴジラ」の怖さは、東京を破壊する怖さではありません。その怖さは、「核」そのものメタファーであるゴジラが東京に近づいてくるという怖さなのです。怪談でいえば、幽霊が登場してからよりも、登場するまでの心理的なストレスこそが怖いのです。
 「キングコング」や「ゴジラ」以外の怪獣映画では、「ジュラシックパーク」(93)、「クローバーフィールド」(08)、「パシフィック・リム」(13)といったところが、怪獣映画の名作であると思います。

●SF映画で「人間」を考える

 しかし、わたしにとってのSF映画とは、単なるエンターテインメントというよりも、物事の本質を考える見方を与えてくれる「哲学映画」としての要素が強いと言えるでしょう。わたしがSF映画を観て考えるテーマとは、「人間とは何か」「時間とは何か」「宇宙とは何か」です。
 まず、「人間とは何か」ですが、これは「人間そのもの」を扱った映画というよりも、「人間以上」あるいは「人間以下」の異形の存在を扱った映画のほうが、より「人間」の本質を浮き彫りにできるような気がします。
 いわゆるスーパーヒーロー・ムービー、超人映画というジャンルがありますが、わたしには子どもの頃に夢中になった漫画家の故・石ノ森章太郎が生み出した数多くのキャラクターたち、サイボーグ009、仮面ライダー、キカイダー、イナズマン、ロボット刑事Kなどがすぐ思い浮かびます。それらはサイボーグ、アンドロイド、ミュータントなど厳密には異なる存在でしたが、人間を超えた存在としてのパワーと悲しみが十分に表現されていました。
 アメリカを代表する超人といえば、スーパーマンとバッドマンです。
 2016年に「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」が日本で公開されましたが、全世界で最も有名な二大スーパーヒーローの対決と聞いて、男の子の血が騒ぎました。
 戦力は人間であるバットマンよりも宇宙人のスーパーマンのほうが明らかに上でしょうが、バットマンには知恵と科学力があり、なかなかの対決でした。
 それにしても、スーパーマンの破壊力はすさまじく、それが多くの無関係な人々にも危害を与える結果となり、彼は公聴会にまで呼ばれてしまいます。この破壊力がありすぎるスーパーマンというのは、完全に「軍隊」「兵器」「核」などのメタファーになっています。メタファーというのは、既知のもので未知のものを理解しようとする方法ですね。
 さらに、「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」を観て思ったことがあります。それは、スーパーマンは孟子的で、バットマンは荀子的であるということです。
 映画の中で両雄が議論をする場面があるのですが、それを観てそう思いました。
 孟子によれば、かわいそうだと思う心、悪を恥じ憎む心、譲りあいの心、善悪を判断する心も、人間なら誰にも備わっているものです。それらの心は「仁」「義」「礼」「智」の芽生えであるといいます。人間は生まれながら手足を四本持っているように、この「仁」「義」「礼」「智」の四つの芽生えを備えているというのです。孟子は「人間の本性は善きものだ」という揺るぎない信念を持っていました。これが、スーパーマンの楽観性というか、人間を無邪気に信じる姿に重なりました。
 また、映画ではスーパーマンが正義の味方として活躍した結果、街などを破壊し、周囲の人間に迷惑をかけることが批判されています。自分の恋人を守るために、悪者を殺すというのもいかがなものか的な問題も取り上げられています。
 この「万人を幸福にしなければならない」といった絵に描いた餅のような発想は、「兼愛説」を唱えた墨子の説そのものです。これに対して孟子は、自分の親しいものの幸福を願うことが何よりも大切であると説いたわけです。まさに、スーパーマンは孟子的であると言えるでしょう。
 孟子の「性善説」に対して、荀子は「性悪説」を唱えました。荀子によれば、人間は放任しておくと、必ず悪に向かいます。この悪に向かう人間を善へと進路変更するには、「偽」というものが必要になります。「偽」とは字のごとく「人」と「為」のこと、すなわち人間の行為である「人為」を意味します。具体的には「礼」であり、学問による教化です。
 両親を殺されたトラウマから、悪人の教化をめざすバットマンの姿は荀子に重なります。また映画の中でのバットマンの発言にもありますが、スーパーマンは両親から「この星に来たことには意味がある」と言われたのに対して、バットマンは親から「裏通りで理由もなく死ぬのが人間だ」ということを学びました。このあたりも、非常に孟子と荀子の香りがしてきます。
 よく荀子の性悪説は誤解されます。悪を肯定する思想であるとか、人間を信頼していないニヒリズムのように理解されることが多いのですが、そんなことはまったくありません。人間は放任しておくと悪に向かうから、教化や教育によって善に向かわせようとする考え方なのです。
 人間は善に向かうことができると言っているのですから、性悪説においても人間を信頼しているのです。ユダヤ教やフロイトが唱えた西洋型の性悪説とは、その本質が異なっています。孟子の性善説にしろ、荀子の性悪説にしろ、「人間への信頼」というものが儒教の基本底流なのです。
 他に「人間」について考える恰好のSF映画といえば、宇宙人を描いた「未知との遭遇」(77)、「第9地区」(09)、ロボットを描いた「アイ・ロボット」(04)、人造人間を描いた「ブレードランナー」(82)、「ターミネーター」(84)、そして「猿の惑星」(68)などが思い浮かびます。日本では、「美女と液体人間」(58)、「電送人間」(60)、「ガス人間第一号」(60)の東宝特撮・変身人間シリーズが「人間」について考えさせてくれます。

●SF映画で「時間」を考える

 SF映画を観て、わたしが次に考えるのが「時間とは何か」です。
 写真は一般に「時間を殺す芸術」と呼ばれます。その瞬間を「封印」するという意味です。しかし映画は「時間を生け捕りにする芸術」です。かけがえのない時間をそのまま「保存」します。 「時間を保存する」ということは「時間を超越する」ことにつながり、さらには「死すべき運命から自由になる」ことに通じます。写真が「死」のメディアなら、映画は「不死」のメディアなのです。だからこそ、映画の誕生以来、無数のタイムトラベル映画が作られてきたのでしょう。
 たとえば、「タイムマシン 80万年後の世界へ」(60)、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(85)、「バタフライ・エフェクト」(04)、「ミッドナイト・イン・パリ」(11年)、「アバウト・タイム~愛おしい時間について~」(13)、「オール・ユー・ニード・イズ・キル」(14)といったところが、タイムトラベルあるいはタイムループを描いた名作であると思います。日本では、「時をかける少女」(83)を忘れることができません。
 わたしは自分がタイムトラベラーになったときの心境を想像しました。
 日本が世界に誇るSFコミック『ドラえもん』には、ドラえもんとのび太がタイムマシンに乗って時間の流れの中を行く場面がよく登場します。彼らはどこか特定の時点を目的地とし、その時代にタイムトラベルするわけですが、自分ならどの時間を目指すか?
 例えば、わたしが車を運転していて人身事故を起こしたような場合は、確実に事故が起こる前の時点に帰りたいと思うでしょう。つまり、流れゆく時間の中でタイムトラベルの目的地とされるのは「事故」の直前といったケースが多いように思います。
 「事故」というのは出来事です。それもマイナスの出来事です。そして、流ゆく時間の中には、プラスの出来事もあります。その最大のものが結婚式ではないでしょうか?
 考えてみれば、多くの人が動画として残したいと願う人生の場面の最たるものは結婚式および結婚披露宴ではないかと思います。なぜなら、それが「人生最高の良き日」だからです。結婚式以外にも、初宮参り、七五三、成人式などは動画に残されます。それらの人生儀礼も、結婚式と同じくプラスの出来事だからです。
 わたしがタイムトラベラーだとしたら、プラスの出来事かマイナスの出来事か、どちらかを必ず目指すのではないかと思います。 わたしは、人生儀礼とは季節のようなものだと思っています。「ステーション」という英語の語源は「シーズン」から来ているそうです。人生とは一本の鉄道線路のようなもので、山あり谷あり、そしてその間にはいくつもの駅がある。季節というのは流れる時間に人間がピリオドを打ったものであり、鉄道の線路を時間に例えれば、駅はさまざまな季節ということになります。
 そして、儀式を意味する「セレモニー」も「シーズン」に通じます。七五三や成人式、そして結婚式とは人生の季節、人生の駅なのです。タイムトラベラーという「旅人」なら、「駅」を目指すのは当然でしょう。
 ここで、忘れてはならないことがあります。
 最大の人生儀礼とは、葬儀であるということです。葬儀は、まさに故人の人生の総決算です。
 リチャード・カーティス監督は、一連のラブコメ映画で幸福な結婚式の場面を描き続けてきました。しかし、彼は「アバウト・タイム~愛おしい時間について~」(13)では主人公の父親の葬儀を描きました。主人公は愛する父の死をどうしても受け入れられず、何度かタイムトラベルして生前の父に会いに行きます。
 『唯葬論』を書いたわたしは、すべての人間の文化の根底には「死者との交流」という目的があると考えています。そして、この映画で何度も生前の父親に会いに行く主人公の姿を見ながら、映画そのものが「死者との再会」という人類普遍の願いを実現するメディアでもあることに気づくのでした。
 映画というメディアは、時間は超越するタイムマシンです。拙著『遊びの神話』(東急エージェンシー、PHP文庫)で紹介したエピソードですが、1980年代の終わりに、わたしは映画の原点とされるD・W・グリフィス監督の「イントレランス」(1916年)を日本武道館で観賞したことがあります。たしかフジテレビのイベントで、オーケストラ付きでした。
 生まれて初めて観た「イントレランス」は衝撃的でした。徹底的にリアリズムを追求したセットと5,000人もの大エキストラによって、あたかもわたしは実際に古代バビロン時代に撮影されたフイルムを見ているかのような錯覚をおぼえました。
 そして、わたしはこの錯覚こそが映画の本質ではないかと思ったのです。すぐれた映画において、観客はスクリーンの中の時代や国にワープし、映画のストーリーをシミュレーション体験します。これは過去でも未来でも関係ありません。「イントレランス」以後の作品では、「風と共に去りぬ」(39)は南北戦争時代のアメリカに、「ベン・ハー」(59)は古代ローマに、そして「ブレードランナー」(82)では2019年、「ターミネーター」(84)では2029年の近未来都市に、わたしたちはタイム・トリップできるのです。
 わたしは子供の頃、黒澤明監督の「羅生門」(50)は平安時代に、溝口健二監督の「雨月物語」(53)は戦国時代に本当に撮影されたものだと思っていましたし、19世紀初頭のウイーンを描いた「会議は踊る」(31)など、もう完全に記録映画だと信じきっていました。
 それらはわたしにとって、モノクロの太平洋戦争のドキュメンタリー・フイルムとまったく変わらなかったのです。実際、エイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」(25)はハーフ・ドキュメンタリーでしたし、リヒテンシュタールの「民族の祭典」(38)は完全な記録映画でしたが、こうなるともう訳がわからなくなります。影像のトリックによって、わたしは本物とシミュレーションの区別がつかない迷路に入っていくのでした。
 まるで映画は魔術だと思えてきますが、かつて、本当に映画は魔術だったのです。
 19世紀のマジシャンたちはマジック専門の劇場で、人間の首をはねる「断頭術」や、その首がしゃべりだす「トーキング・ヘッド」などの芸で人気を集めていましたが、1896年には世界中のマジシャンたちが新たな演し物を舞台に乗せるようになりました。他のすべての驚異を色あせたものにし、世紀の大奇蹟、世界の大不思議と言われた「生きている絵」がそれであり、この「生きている絵」こそ、生まれたばかりの映画だったのです。
 映画は、エジソンが覗き孔から動く写真を見る「キネトスコープ」を、リュミエール兄弟がスクリーンに映写して大勢で見る「シネマトグラフ」をそれぞれ考案し、この二つの偉大な発明によって生まれたとされています。そして、マジシャンたちがトリックに使ったのはシネマトグラフの方だったのです。

●SF映画で「宇宙」を考える

 そして、哲学映画としてのSF映画で考えるテーマは「宇宙とは何か」です。
 このテーマでは、なんといっても「2001年宇宙の旅」(68)が最高傑作であると思います。その他、「惑星ソラリス」(72)、「コンタクト」(97)、「ゼロ・グラビティ」(13)、「インターステラー」(14)が強い印象とインスピレーションを与えてくれました。
 宇宙は、わたしたち人類にとって大いなる謎の宝庫です。2003年2月、米国NASAの打ち上げた人工衛星WMAPは、生まれてまだ38万年しか経っていない頃の宇宙の地図を描き出した。人類がいま、描くことのできる最も昔の姿であり、それを解析することによって、宇宙論研究の究極の課題だった宇宙の年齢が138億と求められました。
 この138億年という時間の長さは、人間の脳にとってイメージしやすいものではありません。気の遠くなるような宇宙の時の流れを考えるとき、理解を容易にするため、わたしたちにとって馴染みの深い時間単位に置き換える工夫があります。
 たとえば、ビッグバンの起こったときを1月1日の午前0時であったとした場合、1月16日の夜7時50分頃に地球が誕生します。そしてさらに一週間かかってようやく人類が登場するが、この時間の長さの中では、人類が文明を持ってから、まだ一秒とわずかしかたっていないことになります。
 また、地球の年齢を一週間とする方法もあります。この縮尺度では、ビッグバンに始まる宇宙の年齢は約2、3週間となります。肉眼で見える最古の化石は約6億年前のカンブリア紀初期のものとされていますが、それがちょうど一日前に生きていたことになります。人間は10秒前に出現し、農業は1、2秒前に始まったことになります。その他にも、直線の上に宇宙および地球のいろいろな出来事を印していくという方法もよく取られます。
 わたしは『ハートフル・ソサエティ』(三五館)において宇宙を一冊の古文書としてとらえました。古文書としての宇宙の解読作業は劇的に進行しています。それというのも、20世紀初頭に生まれた量子論と相対論という、現代物理学を支えている二本の柱が作られたからです。さらにこの二つの物理学の根幹をなす法則を駆使することによって、ビッグバンモデルと呼ばれる、宇宙の始まりの瞬間から現在にいたる宇宙進化の物語が読み取られてきました。
 宇宙はまず、量子論的に「有」と「無」の間をゆらいでいるような状態からポロッと生まれてきました。これは「無からの宇宙創生論」といわれているものです。そうして生まれた宇宙は、ただちにインフレーションを起こして急膨張し、インフレーションが終わると超高温、超高密度の火の玉宇宙になり、その後はゆるやかに膨張を続けます。その間に、インフレーション中に仕込まれた量子ゆらぎが成長して、星や銀河が生まれ、太陽系ができて、地球ができて、その上にわたしたち人類が生まれるという、非常にエレガントな一大叙事詩というか宇宙詩とでもいうべきシナリオができ上がってきたわけです。
 そこで宇宙と人間との関係について考えると興味は尽きませんが、いわゆる「人間原理の宇宙論」というものがあります。現在、わたしたち人類がこの宇宙の中に存在しているわけだが、物理的考察をすると、人類が宇宙の中に存在しうる確率は、ほとんどありえないものとする考え方です。
 つまり、あたかも神によって「人類が存在できる宇宙」が必然的に選ばれたかのごとくに、さまざまな事柄が調節されて、初めて人類が宇宙のなかで誕生し、存在することが可能である、いや、そうとしか考えられない、そのように宇宙をとらえるものが「人間原理の宇宙論」です。
 宇宙の中にある物質の量とか、宇宙の曲率とか、あるいは原子核同士が核融合反応を起こすときの核反応率とか、その他もろもろのあらゆる物理的諸条件の値が少しでも違っていたら、太陽も地球も誕生せず、炭素もできず、炭素型の生命体であるわたしたちの存在もなかったわけです。
 このように、現在の宇宙の様子をいろいろと調べると、わたしたち人間が存在するためには、きわめて計画的に、ものすごい微調整をしなければなりません。偶然にこうした条件が揃うようなことはまずありえないでしょう。ですから、人類のような高度な情報処理のできる生命が存在しているという事実を説明するときに、「これはもう、人類がこの宇宙に生まれるように設計した神がいたのだ」という発想が出てくるわけですね。このへんは、「2001年宇宙の旅」や「コンタクト」に通じる思想です。
 では、神という設計者なしで、わたしたちが存在する理由はどう説明できるのでしょうか。その主な考え方に「マルチバース」があります。マルチバースとは、ユニバース(世界、宇宙)の「ユニ」を「マルチ」に置き換えたものだ。つまり、宇宙というのは、一つ(ユニ)でなくてもいい、たくさん(マルチ)存在していい、宇宙はいくらでも無限に生まれるのだという考え方です。
 マルチバース理論は、量子論の「多世界解釈」にも通じます。現代物理学を支える量子論によると、あらゆるものはすべて「波」としての性質を持っています。ただしこの波は、わたしたちが知っている波とは違う、特殊な波、見えない波です。それで、この波をどう理解するかという点で解釈の仕方がいくつかありますが、その一つが多世界解釈というものです。SFでは「パラレルワールド」とか「もう一人の自分」といったアイデアはおなじみですが、わたしたちが何らかの行動を取ったり、この世界で何かが起こるたびに、世界は可能性のある確率を持った宇宙に分離していくわけです。
 キリがないので、宇宙について述べるのはこれくらいにしておきますが、最近の名作である「ゼロ・グラビティ」や「インターステラー」といった宇宙SF大作を観て、つくづく感じたのは「宇宙は人間の世界を超越している」ということ。「宇宙の果て」について説明できないことも、その理由の一つです。まさに宇宙とはサムシング・グレートそのもの、人間は「畏敬」の念を覚えずにはいられません。
 じつは、「映画で死を乗り越える」という本書のテーマからすれば、わたしは宇宙を舞台にしたSF映画が最もふさわしいと思います。なぜなら、スクリーン上に宇宙空間という圧倒的な絶景が展開されるからです。
 「死の恐怖」を和らげるためには、「圧倒的な自然の絶景に触れる」という方法があります。どこまでも青い海、巨大な滝、深紅の夕日、月の砂漠、氷河、オーロラ、ダイヤモンドダスト......。
 人間は大自然の絶景に触れると、視野が極大化し、自らの存在が小さく見えてきます。そして、「死とは自然に還ることにすぎない」と実感できるのです。さらには、大宇宙の摂理のようなものを悟り、死ぬことが怖くなくなるように思えます。
 その際、視覚的に最も凄いシーンとは宇宙空間を置いて他にありません。はるか地球を離れた宇宙空間を再現したCGを眺めているうちに、死ぬことへの不安がどんどん小さくなっていくのではないでしょうか。宇宙ほどスケールの大きなものはないのですから。