No.0063
ついに大晦日ですが、所用で街に出ました。
その帰りに、日本映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」を観ました。
山本五十六といえば、誰よりも戦争に反対し続けた軍人でありながら、真珠湾攻撃によって自ら開戦の火ぶたを切って落としたことで知られます。
この映画は、その「悲劇の連合艦隊司令長官」の実像を描いたヒューマン大作です。
「孤高のメス」や「八日目の蝉」で知られる成島出監督がメガホンを取りました。
日本映画界を代表する名優の役所広司が、主役の山本五十六を演じます。
また、海軍大臣・米内光政を柄本明、軍務局長・井上成美を柳葉敏郎、新聞社のデスクを香川照之、その部下の新聞記者を玉木宏といった豪華俳優陣が演じます。
正直言って、「なぜ、今頃、山本五十六の映画なの?」と思ったのですが、CGを駆使して、これまでにない感動の戦争映画となっていました。刻一刻と変わる情勢の中、愛する者を守るために突き進んだ日本人の姿を壮大なスケールで描いています。
連合艦隊とは、2個以上の艦隊で編成された日本海軍の中核部隊です。
ブログ「白い雲と紫の雲」に書いたように、日露戦争の際には東郷平八郎が司令長官を務め、日本海海戦で奇跡の大勝利をあげました。山本五十六は太平洋戦争時の連合艦隊司令長官であり、東郷平八郎の後輩に当たります。
『坂の上の雲』を書いた司馬遼太郎は、「明治という国家」を非常に高く評価する一方で、「昭和という国家」をきわめて低く評価していることで知られます。「明治という国家」の最大の事件こそ、大国ロシアを破って日露戦争に勝利を収めたことでした。
その日露戦争の本質について、司馬は『坂の上の雲』で「要するにロシアはみずからに敗けたところが多く、日本はそのすぐれた計画性と敵軍のそのような事情のためにきわどい勝利をひろいつづけたというのが、日露戦争であろう」と書いています。
そして、さらに司馬は日露戦争以後の日本が、せっかく一度はのぼりつめた坂の上から転がり落ちていった理由について、次のように書いています。
「戦後の日本は、この冷厳な相対関係を国民に教えようとせず、国民もそれを知ろうとはしなかった。むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴呆化した。日露戦争を境として日本人の国民的理性が大きく後退して狂躁の昭和期に入る。やがて国家と国民が狂いだして太平洋戦争をやってのけて敗北するのは、日露戦争後わずか四十年のちのことである」
このように、司馬遼太郎は昭和を「痴呆」と「狂躁」の時代と見ているわけですが、昭和にも東郷平八郎や秋山真之のように時局を的確にとらえ、非凡なリーダーシップを発揮した日本人がいたのです。その1人こそ、山本五十六でした。
昭和14年夏、日本では開戦ムードが盛り上がっていました。日独伊三国軍事同盟の締結を強く主張する陸軍だけではなく、国民の大半も同盟に大きな期待をかけていました。そんな中、海軍次官の山本五十六、海軍大臣の米内光政、軍務局長の井上成美らは、同盟に反対の立場をとり続けます。
彼らは陸軍の圧力や世論にも負けずに、信念を貫こうとしますが、時代の流れを止めることはかなわず、ついに第2次世界大戦が勃発してしまいます。
連合艦隊司令長官となった山本五十六は、ハワイの真珠湾を攻撃し、米軍の空母を破壊することによって、一気に講話に持っていき、戦争の早期終結をめざします。
もちろん、彼の計画した真珠湾攻撃は奇襲ではありませんでした。
「武士が夜討ちをする時でも、枕を蹴って相手を起こしてから斬る。騙まし討ちをしたとあっては、日本海軍の名がすたる」と考える山本は、くれぐれも攻撃前にアメリカに開戦を告げることを外務省に何度も念押しします。
しかし、外務省の不手際で開戦告知は攻撃の1時間後となり、彼は呆然とします。 そこで彼が吐いた「これは長い戦いになるな」というセリフが印象的でした。
この映画には、一貫して山本五十六の無念が描かれています。
オープニングは、焼け野原のシーンです。五十六の故郷・長岡は戊辰戦争に敗れたため焦土となり、五十六少年はその物語を聞きながら成長していったのです。
そして、この映画のエンディングも、焼け野原のシーンです。
太平洋戦争の敗北によって、首都・東京は焦土と化したのでした。
この光景を見た誰もが、東日本大震災の被災地、特に津波の被害に遭った三陸沖の街や福島第一原発の周辺地を連想することでしょう。
映画評論家の清水節氏は、「先見性のあった五十六は何に敗れたのか。統率力なき政府か、組織の暴走か、メディアと国民の共犯関係か。それら全てが融合し肥大した『無謬性の神話』という魔物に葬られたのだろう。この国の体質は何ら変わることなく、70年目にして再び、原発事故という未曾有の人災を引き起こしてしまった。このままでは何度でも廃墟を見ると、映画は告げている」と「映画com.」で述べています。
清水氏も指摘していますが、この映画の画期的なところはメディアの戦争責任を問うている点でしょう。もちろん当時の内閣や軍首脳部の責任は大ですが、日本は勝ち目のない戦争を行った責任は、戦争を煽るマスコミ、そして一般大衆国民にもあったのです。そんな中で光ったのが、山本五十六の先見性、そして人間尊重の精神でした。
あの時代、部下に対し威張り散らす高級軍人がほとんどでしたが、山本はけっして威張りませんでした。部下思いで情に厚い彼は、「九死一生」の作戦は行っても、後の特攻作戦のような「十死零生」の無謀な作戦はけっして認めませんでした。その一方で、締めるべき要所では、部下を厳しく戒めました。「この人についていきたい」と前線の海軍将兵からは絶大な信頼が寄せられたのも当然です。
「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」というあまりにも有名な山本五十六の言葉は、戦後多くの経営者に影響を与えました。 山本五十六こそは、真のハートフル・リーダーだったと思います。
彼は、家庭人としても「良き父」でした。妻や3人の子どもたちに対しても家長として抑圧するのではなく、優しく語りかけ、思いやりを示しました。
わたしは、「こんな父親になりたい」と心から思いました。
映画の中で、山本一家が食事をするシーンがあるのですが、1尾の煮魚を家族全員で仲良く分け合います。戦傷で指が2本欠けた五十六が箸で器用に魚を取り分けると、みんなが「ありがとうございます」と礼儀正しく言う姿に涙が出ました。
「現代の日本の家族が失ってしまったものが、ここにある」とさえ思いました。
この映画は、いわゆる戦争映画らしくありませんでした。
はっきり言って、戦争映画としては静かすぎるのです。戦闘シーンも迫力がありませんし、作中の登場人物も涙を流しません。
戦争という極限状態を表現する上で、ふつうは泣いたり喚いたりします。
この作品では、感情を全面に表現する演出を避けているようでした。
そのぶん戦争映画としてのカタルシス感が少ないです。
しかし、ヒューマンドラマとしては優れていたと思います。
親しい仲間や可愛い部下の戦死の報告を聞く度に、指している将棋の手を休めず、顔色を変えなかった彼の姿に、かえって深い哀しみを感じることができました。
山本五十六は、とにかく最後の最後まで、戦争の終結だけを考えていました。
彼が昭和18年4月ブーゲンビルに散る場面は、一種の叙事詩のような静かな映像で、無常観を感じさせました。ちなみに彼の死後、太平洋戦争における日本軍の戦死者数は、全体の中の9割にも及ぶそうです。
山本五十六の早すぎる死こそ、日本の最大の悲劇でした。
じつは、わたしは小学生の頃から山本五十六に憧れていました。
1971年に放映されたアニメ「決断」の主役だったからです。
タツノコプロの製作でしたが、子ども向けながら、しっかりと作られた太平洋戦争の戦記でした。今から考えれば、あんな学生運動全盛の時代に、このような戦記アニメが製作され、テレビで放映されたことが信じられません。
おそらく、そこには政界や財界の何らかの思惑もあったのでしょう。
そんなことは関係なく、当時8歳だったわたしは「決断」に夢中になりました。
特に主題歌がカッコ良くて、レコードも買って何度も繰り返し聴きました。
「勝つも負けるも決断ひとつ~♪」というサビのフレーズが今も耳にこびりついています。 その後、小学校の3年生ぐらいで、学校の図書館で『山本五十六機、帰らず』という少年向けのノンフィクションを見つけて読みふけった思い出もあります。
最後に、この映画を観て、わたしは「絆」ということを思いました。
山本五十六と彼の部下たちには、強い絆がありました。
言うまでもなく、「絆」は今年を代表する一字に選ばれた文字です。
「隣人愛の実践者」こと奥田知志さんが語っていましたが、「絆」という字の中には「傷」という字が入っています。長年のホームレス支援の現場で、奥田さんが確認し続けたことは、「絆」には「傷」が含まれているという事実だというのです。
本当の絆は、傷を共有した者、すなわち辛苦を共にした者しか持ち得ないのです。
その意味で、戦友という関係には最高の「絆」があります。
また、わたしはわが社にも「絆」があると思っています。
会長も社長も役員も社員も、辛苦の時期を共有したからです。
わたしは、山本五十六の生涯に触れて、真のリーダーについて考えさせられました。
そして、「自分は、いま何をすべきか」を考えました。結論は、本業である社長業に打ち込むことでした。来年からは、出版や教壇での活動を大幅に制限して、社長業に打ち込みたいと思います。そして、会社や業界の「絆」のために全力を尽くす覚悟です。