No.0106
映画「華麗なるギャツビー」を観ました。F・スコット・フィッツジェラルドの小説を、「ムーラン・ルージュ」のバズ・ラーマン監督が3D映像化した話題作です。
このアメリカ文学の金字塔はすでに5回も映画化されています。
今回、謎の大富豪ギャツビーを演じたのはレオナルド・ディカプリオ。
トビー・マグワイアやキャリー・マリガンらが共演しています。
物語の舞台は、第1次大戦後の狂騒の1920年代アメリカです。ニック(トビー・マグワイア)が暮らす家の隣には宮殿のような豪邸が建っていました。そこには謎の若き大富豪ジェイ・ギャツビー(レオナルド・ディカプリオ)が住んでおり、彼は毎晩のように盛大なパーティーを開きます。ギャツビーと言葉を交わす仲になったニックの心の中では、次第に疑問が大きく膨らんでいきます。ギャツビーはどこからやって来たのか、いかにして巨額の富を得たのか、そして、なぜ彼は毎晩パーティーを開催し続けるのか。やがて、ギャツビーの口から、彼は名家の出身であるが身寄りがないこと、戦争でさまざまな勲章を受けたことなどが明かされます。しかし、ニックはこの話に疑念を持つのでした。
わたしは原作も読んでいますし、1970年代にロバート・レッドフォードが主演し、フランシス・フォード・コッポラ脚本で製作された映画も観ました。今回のディカプリオ版ギャツビーは、レッドフォード版よりも原作に忠実に作られています。
改めて思ったことは、「華麗なるギャツビー」という作品は恋愛ものでありながら、サスペンス性も強いということでした。
特に、前半部分は謎に満ちた緊迫感のある物語になっています。
3Dメガネの中で動くディカプリオを見ていたら、わたしの一条真也の映画館「タイタニック3D」で紹介したディカプリオの出世作を思い出しました。
「タイタニック」といえば、最近読んだ『荒木飛呂彦の超偏愛! 映画の掟』(集英社新書)という本に、恋愛ドラマの超大作として知られる「タイタニック」はじつはサスペンス映画の名作でもあると書かれていました。
著者である漫画家の荒木飛呂彦氏は、次のように述べています。
「まず、おばあさんの語りで現代から過去に誘い、ディカプリオが乗りこむシーンを描いて、乗船した感覚を共有する。そして甲板の様子やパーティー・シーンなどを映し、臨場感を盛り上げます。さらに船室、船底の部屋、エンジンルームまでこまかく観せて、船内のどこに何があるのか、観る者に船の全体像が把握できるようにします。さらに船首でディカプリオがケイト・ウィンスレットを支え、飛んでいるような気持ちにさせてくれるあの名シーン。それらがじっくりと描写されているうち、僕らはタイタニック号で実際に航海しているような気分になるのです」
このように丁寧に下準備を施されてから、タイタニックが氷山に衝突して沈没が始まるわけです。船内に水が溢れていく場面は緊迫感に満ちており、観客はあたかも自分は乗客になったかのような錯覚に陥ります。荒木氏は述べます。
「こうして巧妙に作品の世界に導かれた結果、僕は映画を観ている時間と、タイタニック号が実際に沈んでいく時間がリンクしている感覚になりました。自分もタイタニック号と同じ時間を共有して、一緒の運命を歩むようなスリルなのです。これ以上のサスペンスはありません」
なお、荒木氏は同じくディカプリオの主演作である「ザ・ビーチ」(2000年)もサスペンス映画の傑作として賞賛しています。
「華麗なるギャツビー」に話題を戻します。
この映画はとにかく衣装とか室内装飾が豪華で、一言でいうと「ド派手」です。
バズ・ラーマン監督は「ムーラン・ルージュ」でも派手な意匠を見せてくれましたが、その過剰なる演出マインドは本作にもしっかり受け継がれています。
特に夜毎繰り広げられるパーティーを描いた場面の豪華さは圧巻で、映画評論家の佐藤睦雄氏は映画com.で「フェリーニ風の過剰な祝祭性ともいうべきパーティシーンが現出される」と表現しています。たしかに、「甘い生活」など一連のフェリー二映画の香りが「華麗なるギャツビー」の画面から漂ってきます。
フラッパーヘアーの踊り子たちがチャールストンをリズミカルに踊り、ヒザ丈のシャネルのドレスを着た美女たちがピンヒールを履いて踊る。シャンパンの栓が次々に抜かれ、紙吹雪が舞い、花火が打ち上げられる。そして、ジョージ・ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」が流れる・・・・・。まさに「狂騒の20年代」を象徴する名場面であると思いました。佐藤氏はこの作品自体について、「華美に過ぎる意匠に目をつむれば、及第点の出来といえるのではなかろうか」と書かれていますが、大のフェリー二・ファンで過剰な演出が大好きなわたしとしては、ただただ「目のごちそう」を味わう至福の時間でした。
そして、パーティーが派手であればあるほど、その後の「祭りのあと」の静けさが寂しく感じられます。そこには、運命の女性デイジー(キャリー・マリガン)をひたすら想うギャツビーの孤独がよく表現されていました。
この作品では、ディカプリオの存在感が際立っていました。
わたしのブログ記事「ジャンゴ 繋がれざる者」にも書きましたが、今もオスカーとは縁のない無冠の帝王ですが、ディカプリオは本当に良い役者になりましたね。どんな問題作でも、その鬼気迫る演技力で並みいる曲者俳優たちにも負けません。
「華麗なるギャツビー」での絢爛豪華なパーティーでタキシードを着てシャンパンを飲むギャツビーの姿は「タイタニック」で生まれて初めてタキシードを着用しシャンパンを口にするジャックの姿と重なりました。どうやら、レオナルド・ディカプリオという人は、どこまでもタキシードとシャンパンが似合うようですね。
それにしても、この物語が救いようのないほどの悲劇です。ある意味で、これほど完璧な悲劇は、ギリシャ悲劇あるいはシェイクスピアさえも彷彿とさせます。シェイクスピアといえば、『ロミオとジュリエット』をバズ・ラーマンが「ロミオ+ジュリエット」で映画化していますが、主役はディカプリオが演じています。
この「華麗なるギャツビー」は人生の哀愁が漂う、まさに大人のための映画という気がします。ネタバレになるので詳しくは書けませんが、ラスト近く、ある人物の葬儀の場面が出てきます。その葬儀には誰も参列者がおらず、あまりにも哀れでしたが、ある人物だけが唯一参列して故人のために涙を流します。この場面を観て、わたしは「隣人こそ、おくりびと」という持論を再確認しました。
また、この映画を観て改めて痛感したことが2点あります。
それは、「女は、気の短い男が嫌い」ということと「女は結局、優しい男が好き」ということです。この2つを教訓として心に刻みながら、映画館を後にしました。
最後に、「THE GREAT GATSBY」という英語は「華麗なるギャツビー」ではなく、「偉大なるギャツビー」と訳すべきだと思います。
正直、ものすごく感動しました。いろんな意味で人生を学べる名作です。