No.0163
日本映画「蜩ノ記」をTOHOシネマズ六本木ヒルズで観ました。
わたしは映画鑑賞が趣味なのですが、わたしのブログ記事「喰女―クイメ―」で紹介した作品を観た8月23日以来の鑑賞でした。ずっとバタバタしていたのです。
この映画、皇后陛下が御覧になったことで話題を呼んでいますが、最初に予告編を見て以来、「早く観たい!」と思っていました。ようやく観ることができました。「ヤフー映画」の「解説」には、以下のように書かれています。
「直木賞作家の葉室麟のベストセラー小説を、『雨あがる』『博士の愛した数式』の小泉堯史監督が映画化した人間ドラマ。無実の罪で3年後に切腹を控える武士の監視を命じられた青年武士が、その崇高な生きざまを知り成長していく姿を師弟の絆や家族愛、夫婦愛を交えて描き出す。過酷な運命を背負いながらもりんとした主人公に役所広司、その監視役の青年には『SP』シリーズの岡田准一。そのほか連続テレビ小説『梅ちゃん先生』の堀北真希や、ベテラン原田美枝子が共演を果たす」
また、「ヤフー映画」の「あらすじ」には、以下のように書かれています。
「7年前に前例のない事件を起こした戸田秋谷(役所広司)は、藩の歴史をまとめる家譜の編さんを命じられていた。3年後に決められた切腹までの監視役の命を受けた檀野庄三郎(岡田准一)は、秋谷一家と共に生活するうち、家譜作りに励む秋谷に胸を打たれる。秋谷の人格者ぶりを知り、事件の真相を探り始めた庄三郎は、やがて藩政を大きく揺るがしかねない秘密を知るが・・・・・・」
この映画を観終わって、わたしは「ああ、久々に日本映画らしい作品を観たなあ」という思いがしました。故・黒澤明監督の愛弟子である小泉堯史監督の「雨あがる」をはじめ、役所広治が好演した「どら平太」、あるいは「たそがれ清兵衛」といった数々の名画が心によみがえりました。
出演者の中では、なんといっても堀北真希が良かったです。主演の役所広治よりも岡田准一よりも存在感がありました。デビュー作の「ALWAYS 三丁目の夕日」では東京に集団就職してきた六子ちゃんを演じた彼女ですが、本当に綺麗になりました。わたしは、彼女の表情がときどき木村佳乃にそっくりになることを発見しました。木村佳乃といえば、今や東山紀之夫人です。わたしは、東山紀之 → 岡田准一 → 櫻井翔とすかさず連想してしまいました。美しく成長した六子ちゃんは、どうやらジャニーズ事務所と縁があるようですね。
その堀北真希演じる戸田秋谷の娘・薫は、父と密通の疑いをかけられた尼僧に面会し、事実を確認します。その尼僧の名は松吟尼で、もとは藩主の側室でした。寺島しのぶ演じる松吟尼は、秋谷の潔白を明言しますが、「秋谷さまとは人の縁を感じました」とも述べます。「人の縁とは何ですか?」と問う薫に対して、松吟尼は優しく答えます。「この世にはたくさんの人がいるけれど、縁のある方は一部です。縁のある方とは、自分が生きる上での支えとなる方です」と。この「縁のある人とは、生きる支えとなる人」という言葉には共感できました。
また、薫の弟である郁太郎は武士の子ですが、百姓の子である源吉と親友の関係にあります。心ない侍たちによって源吉がなぶり殺しにされたとき、郁太郎は復讐に燃えて、なんと首謀者である老中に一太刀浴びせるのでした。このシーンは、死ぬ少し前の源吉が「絶対に忘れてはならないものは家族と友達だ」と言う場面が伏線となっています。郁太郎は「友達を忘れない」と言った友の死を嘆き悲しみ、幼い身でありながら仇を討とうとするのです。わたしは、この場面を観ながら、現在はびこっている「友達申請」などという信じられないほど下らないものを連想していました。
なんでも、フェイスブックで「友達申請」とやらがあるそうなのですが、驚くことに一度も会ったことのない相手を「友達」と認めることもあるとか。「馬鹿な!」と思わずにはいられません。友達というのは、もしその相手が死んだら、葬式に参列して涙を流す関係でしょう。葬式はおろか、本人とろくな交流もないくせに何が「友達申請」ですか!(怒) そういう浅はかな人たちは、ぜひこの映画を観てほしいと思います。ほんとに。
さて、この映画、ただ単純に「感動した」というだけでは済みませんでした。
江戸時代の物語ですが、無実の罪で切腹を命ぜられるなど、理不尽な点が多々見られ、とても不愉快な気分になりました。過酷な年貢に苦しむ百姓たちの苦しみも伝わってきます。ついには強訴や一揆の話題なども出てきて、「一条真也の読書館」で紹介した百田尚樹氏の時代小説『影法師』を思い出しました。
じつは、わたしは最近、出口治明氏の著作を固め読みしています。出口氏はライフネット生命(株)の代表取締役会長兼CEOにして稀代の読書家として知られていますが、最新刊である『本の「使い方」』(角川oneテーマ21)を読んでいたところ、出口氏が江戸時代を酷評していました。
出口氏は、物事を考える際に「数字・ファクト・ロジック」で考えるクセをつけることを訴えています。そして、それらを根拠にすれば、本の主張などを鵜呑みにすることもなくなるとして、以下のように述べています。
「たとえば、わたしが『江戸時代』に最低の評価を下しているのは、江戸時代が『栄養失調の社会』だったことが数字でわかっているからです。
とくに江戸時代末期は、飢饉が起こっても鎖国体制で食料の輸入がままならなかったこともあって、日本人男性の平均身長は150cm、体重は50kg台まで低下したそうです。
江戸時代は戦争のない平和な時代だったと言われていますが、市民が幸せだったとは言い切れません。そもそも政治の役割は『みんなにごはんを食べさせて、安心して赤ちゃんを産める生活水準を守ること』のはずです。そう考えると、身長も体重も縮んだ江戸時代が豊かな時代だったとは思えないのです。少なくとも私は江戸時代に生まれたくはありません」
たしかに江戸時代以前のほうが身長・体重ともに日本人は体格が良かったようです。出口氏の言うように、江戸時代が「栄養失調の社会」だったというのも否定できません。しかし、この映画には江戸時代ならではの美しいシーンも出てきました。寺子屋で、武士の子も百姓の子もともに『論語』の素読をしている場面です。わたしのブログ記事「ともいき倶楽部」で紹介した平成の寺子屋「天道館」を思い浮かべました。同じくブログ記事「九国大で孔子を語る」で紹介したように、わたしは大学生を対象に『論語』について講義を行いました。この講義の中で「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉を紹介したのですが、「蜩ノ記」のメインテーマになっていて驚きました。映画では主人公の秋谷が子どもたちに『論語』を教えていましたが、いつの日か、わたしはこの天道館で地域の子どもたちを集めて『論語』を教えたいです。
あと、この映画を観て改めて感心したのは、日本人の儀式の美しさでした。
切腹を前にして死を覚悟した秋谷は、娘の薫を庄三郎に嫁がせ、祝言を挙げます。また、息子の郁太郎の元服を済ませます。その祝言や元服のシーンが、なんというか涙が出るほど美しいのです。わたしのブログ記事「文化の核」にも書いたように、日本には、茶の湯・生け花・能・歌舞伎・相撲といった、さまざまな伝統文化があります。そして、それらの伝統文化の根幹にはいずれも「儀式」というものが厳然として存在します。すなわち、儀式なくして文化はありえません。儀式とは「文化の核」と言えるでしょう。
結婚式ならびに葬儀に表れたわが国の儀式の源は、小笠原流礼法に代表される武家礼法に基づきますが、その武家礼法の源は『古事記』に代表される日本的よりどころです。すなわち、『古事記』に描かれたイザナギ、イザナミのめぐり会いに代表される陰陽両儀式のパターンこそ、室町時代以降、今日の日本的儀式の基調となって継承されてきました。
現在の日本社会は「無縁社会」などと呼ばれています。しかし、この世に無縁の人などいません。どんな人だって、必ず血縁や地縁があります。そして、多くの人は学校や職場や趣味などでその他にもさまざまな縁を得ていきます。この世には、最初から多くの「縁」で満ちているのです。ただ、それに多くの人々は気づかないだけなのです。わたしは、「縁」という目に見えないものを実体化して見えるようにするものこそ冠婚葬祭だと思います。
いま、「儀式とは文化の核」と言いました。儀式は冠婚葬祭だけではありません。この映画の大きなテーマとなっている切腹だって、立派な儀式です。じつはラストシーンは切腹の場面だとばかり思っていましたが、実際は切腹に向かう秋谷の後ろ姿しか映し出されませんでした。やはり、「血生臭い」切腹は、ハートフルな映画には似合わないのでしょうか。
しかし、この映画で最もわたしの心に響いたセリフは「死ぬことを自分のものとしたい」という秋谷の言葉でした。予告編には「日本人の美しき礼節と愛」を描いた映画という説明がなされ、最後は「残された人生、あなたならどう生きますか?」というナレーションが流れます。切腹を控えた日々を送る武士の物語ですが、ある意味で究極の「終活」映画と言えるでしょう。
じつは、この「蜩ノ記」という映画、『決定版 終活入門』(実業之日本社)を書いている間中、ずっと気になっていました。
終活読本「ソナエ」2014年秋号(vol.6)
「終活」といえば、日本初の終活専門誌である「ソナエ」(産経新聞出版社)の最新号の表紙には役所広治が登場しています。今や日本を代表する俳優となった彼は同誌のインタビューも受けていますが、「蜩ノ記」で「10年後の切腹を命じられる武士」を演じたことについて、「死が迫っているからこそ、非常に豊かな時間がある」と感想を述べています。
その「ソナエ」2014年秋号(vol.6)で、わたしは「一条真也の老福論」という新連載をスタートし、第1回目として「『終活』と『修活』」を書きました。
そこで、わたしは「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案しました。「修生」とは文字通り「人生を修める」ということ。
この映画を観て改めて思いましたが、かつての日本は美しい国でした。
しかし、いまの日本人は、どうでしょうか。日本人の美徳であった「礼節」を置き去りし、人間の尊厳の何たるかも忘れているように思えてなりません。
それは、戦後の日本人が「修業」「修養」「修身」「修学」という言葉に象徴される「修める」という覚悟を忘れてしまったからではないでしょうか。老いない人間、死なない人間などいなません。死とは「人生を卒業する」ことであり、葬儀とは「人生の卒業式」である。人生を卒業するという運命を粛々と受け容れ、老い支度、死に支度をして自らの人生を修める・・・・・・この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないかと思うのです。
そして、武士道こそは「人生を修める」「死ぬことを自分のものとする」思想の体系でした。『葉隠』に「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」とあるように、かつての武士たちは常に死を意識し、そこに美さえ見出しました。生への未練を断ち切って死に身に徹するとき、その武士は自由の境地に到達するといいます。そこでもはや、生に執着することもなければ、死を恐れることもなく、ただあるがままに自然体で行動することによって武士の本分を全うすることができ、公儀のためには私を滅して志を抱けたのです。
「武士道といふは死ぬ事」の一句は実は壮大な逆説であり、それは一般に誤解されているような、武士道とは死の道徳であるというような単純な意味ではありません。武士としての理想の生をいかにして実現するかを追求した、生の哲学の箴言なのです!
そして、わたしはその「生の哲学」を先の戦争で神風特別攻撃隊として散っていた若者たちの生き様にも強く感じます。
わたしのブログ記事「永遠の0」で紹介した映画では、「蜩ノ記」でも好演した岡田准一が主人公の特攻隊員を演じています。
特攻隊員は自ら死を望んだのではなく、軍部によって殺されただけではないかという意見もあろうかと思います。しかし、おそらくほとんどが死の前日に撮影されたであろう彼らの遺影には、一切を悟った禅僧のような清清しさがありました。彼らは、決して犬死にをしたのではなく、その死は武士の切腹であったと確信します。いくら長生きしても、だらだらと腐ったような人生を送る者も多いけれども、彼らは短い生を精一杯に生き、精一杯に死んでいったのではないでしょうか。
この映画を観終わったわたしの耳には、いつまでも「死ぬことを自分のものとしたい」という秋谷の声が残っていました。
上映後のインタビューでは、黒澤組で長年活躍された野上照代さんが「「小泉、良くやったな。100点満点だよ。」と黒澤監督が言っているのが聞こえると言われたそうです。本当に、黒澤監督が自らメガホンを取りそうな良質の日本映画を観させてもらいました。
この映画は『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)で取り上げました。