No.0167
Tジョイリバーウォーク北九州で日本映画「想いのこし」を観ました。前日の22日が公開初日で、その日に観たかったのですが時間が合わなかったのです。わたしのブログ記事「トワイライト ささらさや」で紹介した映画と同様に、幽霊が登場するヒューマン・コメディです。
「ヤフー映画」の「解説」には、以下のように書かれています。
「岡本貴也の小説を、テレビドラマ『リーガルハイ』でも共演した岡田将生と広末涼子を迎えて実写化したヒューマンコメディー。金と女に目がない青年が、ひょんなことから現世に未練を遺(のこ)した幽霊たちを成仏させようと奔走しながら騒動を巻き起こしていくさまを、涙と笑いを交えてつづる。メガホンを取るのは、『ROOKIES』シリーズや『ツナグ』などの平川雄一朗。幽霊たちとの出会いを機に遂げていく青年の内面的成長を岡田が見事に体現、広末はポールダンサーの幽霊にふんしてセクシーなダンスを披露する」
また「ヤフー映画」の「あらすじ」には、以下のように書かれています。
「考えることは金と女のことばかりで、お気楽に毎日を過ごすことがモットーの青年・ガジロウ(岡田将生)。そんなある日、交通事故が縁となって幽霊となったユウコ(広末涼子)ら、3人のポールダンサーと年配の運転手に出会う。小学生の息子を残して死んだのを悔やむユウコをはじめ、成仏できぬ事情を抱える彼らは遺(のこ)した大金と引き換えに無念の代理解消をガジロウに依頼。それを引き受けた彼は、花嫁姿で結婚式に出席したり、男子高校生に愛の告白をしたりと、それぞれの最後の願いをかなえていく」
この映画を観た感想ですが、「ツナグ」と同じく複数のエピソードがうまく絡み合っていました。「トワイライト ささらさや」に比べると、こちらのほうがストーリーの展開に無理がありませんでした。奇しくも現在同時上映されている2つの映画は、死者と生者との交流を描いています。
わたしたちの周囲には、目には見えなくとも無数の死者がいます。
「死者を忘れて、生者の幸福などありえない」が、わたしの口癖です。
「トワイライト ささらさや」も「想いのこし」も、いわゆる「ジェントル・ゴースト・ストーリー」と言えるでしょう。「一条真也の読書館」で紹介した『押入れのちよ』、『怪談文芸ハンドブック』の書評にも書きましたが、「ジェントル・ゴースト・ストーリー」とは日本語に直せば「優霊物語」とでも呼ぶべき怪談文芸のサブジャンルです。
これまで多くのジェントル・ゴースト・ストーリーが映画化されてきました。
わたしのブログ記事「天国映画」で紹介したように、ハリウッドでは「オールウェイズ」、「ゴースト~ニューヨークの幻」、「奇跡の輝き」などが有名です。
また、わたしのブログ記事「ラブリー・ボーン」で紹介した映画などが代表です。
日本でも、山田太一原作「異人たちとの夏」、浅田次郎原作「鉄道員(ぽっぽや)」、東野圭吾原作「秘密」といった名作をはじめ、「黄泉がえり」、「いま、会いにゆきます」、「ツナグ」、さらにわたしのブログ記事「ステキな金縛り」で紹介した映画などが代表です。
ところで、「トワイライト ささらさや」にも、「想いのこし」にも、当然のように満月が登場していました。このブログを読んで下さっている方々に説明の必要はないと思いますが、月は死後の世界のシンボルです。他のジェントル・ゴースト・ストーリー映画にもすべて満月が大映しになるシーンがあります。これは、もはや定番と言ってよいでしょう。昔はスクリーンに満月が映るたびに「おおっ、ロマンティック・デスだ!」と喜んでいたわたしですが、今ではすっかり慣れっこになってしまいました。
話は変わりますが、ジェントル・ゴースト・ストーリー映画に出てくる幽霊の死因は交通事故が多いです。「秘密」も「黄泉がえり」も「ツナグ」も「トワイライト ささらさや」も、そして「想いのこし」も、すべてそうです。日本における交通事故による死者の数は減少傾向にあるのですが、「不慮の死」といえば、今でもやはり交通事故死が代表的なのかもしれませんね。
不慮の死で亡くなった人には、当然なからこの世に「想い」を残します。
「想いのこし」に登場する幽霊たちは、この世での「想いのこし」つまり未練が何らかの形で解決されないと成仏できません。たとえば、結婚式を目前に控えたルカという女性は、交通事故死したことにより、ずっとウエディング・ドレスを着て教会で結婚式を挙げる夢が叶いませんでした。彼女は、幽霊と接触できるガジロウの力を借りて、ある方法で婚約者と結婚式を挙げます。このシーン、馬鹿馬鹿しくも感動的でしたが、わたしは「ああ、実際に結婚式を挙げられるというのは、その日まで新郎新婦ともに生きてこれたという証でもあるんだなあ」としみじみ思いました。だから、人生最高の日に、自分を産んでくれ、育ててくれ、見守ってくれた両親に対する感謝の想いが強く湧いてくるのですね。
また、広末涼子演じるシングルマザーのユウコは、小学生の息子をこの世に残したことが「想いのこし」となります。この映画でも描かれているように、結婚をはじめとして、円愛、仕事・・・・・・想いのこしの種はたくさんありますが、中でも子を残していく母親の想いのこしほど強いものはないでしょう。
出産のとき、ほとんどの母親は「自分の命と引きかえにしてでも、この子を無事に産んでやりたい」と思います。実際、母親の命と引きかえに多くの新しい命が生まれました。産後の肥立ちが悪くて命を落とした母親も数えきれません。母親とは命がけで自分を産み、無条件の愛で育ててくれた人なのです。そして、死んだ後は霊的存在として子どもを見守るのが親というものではないでしょうか。前日に観た「インターステラー」には、「親というのは子どもの未来を見守る幽霊」というセリフが出てきますが、「想いのこし」のユウコはまさに「子どもの未来を見守る幽霊」でした。
いま、『殉愛』百田尚樹著(幻冬舎)という本が大いに物議を醸していますが、この本には関西の大物芸能人やしきたかじんが自分の実母と絶縁関係にあり、その母親は息子たかじんの死に目にも遭えなかったと書かれています。でも、死の瞬間まで憎しみ合う母子など絶対にいないと思います。最近観た「トワイライト ささらさや」、「インターステラー」を鑑賞したときと同様に、わたしは今回も映画を観ながら『殉愛』のことを考えていました。
もう、この本のことが頭から離れません。そして、この本が、やしきたかじん氏にとっての「想いのこし」になっているような気がしてなりません。
あと、この映画には500円硬貨が重要な小道具として登場します。
わたしのブログ記事「かみさまシンポジウム」で紹介した座談会で、「勇気の人」こと矢作直樹先生が発言された内容を思い出しました。
矢作先生は、「息子さんを亡くして自殺直前の母親の目の前に500円硬貨が落下したことがあるそうです。その母親は、いつも息子さんに500円のお小遣いを渡していたそうです」という話を受けて、わたしは「ふつう、死者のメッセージは光、音、香りといった軽いものが使われることが多いようです。しかし、映画『ゴースト』でもそうでしたが、死者の存在証明として硬貨が使われることもあります。硬貨というのは硬くもあり、経済という生の世界のシンボルであることから、最も『この世』的な物体です。死者は本気を出したら、硬貨を使うのかもしれません」と述べたのです。
それから、亡くなった母親のポールダンサーという仕事を「あんな仕事」と恥じていた少年に対して、ガジロウが「世の中には、いろんな仕事がある。そして、ポールダンサー人を感動させる素晴らしい仕事だ」というメッセージを身を持って伝えた場面が、この映画のクライマックスになっています。わたしは、職業への誇りを訴えた場面を観ながら、日本映画の名作「おくりびと」を連想しました。あの映画で「私の夫は納棺師です!」と胸を張って叫んだ主演女優こそは広末涼子でした。
献花台の上には「想いのこし」の看板が・・・
そして、広末涼子といえば、忘れられない感動の日本映画があります。
浅田次郎の原作を映画化した「鉄道員(ぽっぽや)」です。言わずと知れたジェントル・ゴースト・ストーリーの大傑作で、広末は鉄道員の娘の幽霊を演じましたが、これぞまさに「優霊」そのものの素晴らしい演技でした。
そして、この映画で広末演じる娘の父親を演じたのが今月10日に亡くなった高倉健さんでした。
北九州でも健さんの御冥福を祈りました
わたしのブログ記事「健さんに献花しました」に書いたように、わたしは19日に東京の「丸の内TOEI」前に設置された献花台を訪れ、高倉健さんのご冥福を心よりお祈りしました。
その献花台の上には「想いのこし」の看板が掲げられていました。
そしてTジョイリバーウォーク北九州の入口にも献花台が設置されており、わたしはここでも北九州が生んだ大俳優の死を悼みました。
『鉄道員』といえば、映画化から15年が経過して、広末涼子が朗読の活動をしているそうです。きっと、彼女にとっても忘れられない物語なのでしょう。わたしは、もともと女優・広末涼子の才能を高く買っており、早稲田大学に入学したときは「吉永小百合以来の早稲田のマドンナが誕生した」と喜んでいました。その後の中退を含めた人生には心配もしましたが、本当に立派な女優になりました。高倉健が日本映画界を代表する俳優であったように、広末涼子も日本映画界を代表する女優になることを信じています。
この映画は『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)で取り上げました。