No.0174


 東京に来ています。16日の夜、この映画勘で紹介した「天国は、ほんとうにある」に続いて、「神は死んだのか」をヒューマントラストシネマ渋谷で観ました。これは趣味ではなく、れっきとした仕事の一環として鑑賞しました。

 「ヤフー映画」の「解説」には、以下のように書かれています。
 アメリカの大学で実際に起きたさまざまな訴訟事件を基に、神を信じる学生が神の存在を証明すべく、無神論者の教授と対決するさまを描いたドラマ。『カウントダウン 合衆国滅亡の時』などのハロルド・クロンク監督が、知的刺激に満ちた娯楽作に仕上げた。信仰心と自身の将来のどちらを取るかという難しい選択肢を突き付けられた学生役に「ハイスクール・ミュージカル2」などのシェーン・ハーパー、彼を追い詰める教授を『ビッチ・スラップ 危険な天使たち』などのケヴィン・ソーボが演じる。

 また「ヤフー映画」の「あらすじ」には、以下のように書かれています。


「大学に入学したばかりのジョシュ(シェーン・ハーパー)は哲学クラスの授業初日、ニーチェなどの無神論者を信奉するラディソン教授(ケヴィン・ソーボ)から神はいないという宣言書を提出するように言われる。単位が取れないと危惧した生徒たちは宣言書を提出するものの、納得できないジョシュだけは拒否。そんなジョシュに対して教授は、生徒たちの前で神の存在を証明して見せろと迫り・・・・・・」

 最初は「こんなテーマで映画を作るとは!」と思ったものですが、いや、この映画、じつに面白かったです。主人公の学生ジョシュとラディソン教授の白熱の議論は、さながら法廷ドラマのようでしたし、クライマックスに至るドラマも緊迫感があってドキドキしながら観ました。
 登場人物たちのキャラクターもよく描けており、知的刺激に満ちた娯楽作に仕上っています。ただ、イスラム教徒の描き方があまりにステレオタイプというか偏見に満ちているという印象を持ちました。「神」を信じるのはキリスト教徒のみならず、イスラム教徒でもユダヤ教徒でも同様なはずですが、この映画ではあくまでもキリスト教の「神」が最重要のようです。
 あと、無神論者もステレオタイプな描き方をされており、本物の無神論者はおそらく大きな不満を抱くのではないでしょうか。

 この映画を観て、わたしは久々に宗教の本質について考えました。
 拙著『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)では、「神とは何か」という命題を掲げ、わたしは以下のように述べました。


「原初に人間は、万物の第一原因であり天地の支配者である神を創造した。その神は、イメージで表現されてもいなかったし、神に仕える神殿も祭司もいなかった。その神は、あまりにも高められていたので、不十分な人間の祭儀など受けつけなかったのだ。その神は、次第に人間の意識から消え去ってしまった。あまりにも疎遠になってしまったので、人間たちはもはやそのような神は欲しないと決めてしまった。そして、ついに消えてしまったのだそうだ」

 この理論は、1912年に出版されたヴィルヘルム・シュミット神父の著書『神という理念の起源』によってポピュラーになったものです。シュミットは、人間が多くの神々を崇拝し始めた以前に、原始的な唯一神崇拝が存在したと提案していました。人間は元来、世界を創造し人間のもろもろの事件を遠くから統治するという最高神を認めていたというのです。そのような「いと高き神」は、天と結びついていたゆえに「空の神」と呼ばれていました。「空の神」への信仰というのは、いまだにアフリカの多くの土着部族の宗教的生活の特徴であるといいます。彼らは神に憧れ、神に向かって祈る。神が彼らを見守り、彼らの悪行を罰すると信じています。しかし不思議なことに、この神は彼らの日ごとの生活のなかでは不在であり、特別な祭儀もなければ画像で描かれることもありません。部族の者たちに言わせれば、この神は表現不可能であり、人間によって汚されることはありえないそうです。

 ある人々は、この神が「どこかへ行ってしまった」と言います。人類学者たちによれば、この神はあまりにも高められ遠くなってしまったので、事実上より小さな神々や、もっと近づきやすい神々に取って替わられてしまったのだそうです。古代においてもそうで、いと高き「空の神」は、もっと魅惑的な異教のパンテオンの神々に取って替わられてしまったのです。それゆえ原初に唯一の神が存在したのです。もしそうだとすれば、一神教というのは、人生の神秘や悲劇や説明するために、人間が発明し、人間が発展させてきた最初期のアイデアの1つであったのですね。

 日本人に限らず、およそありとあらゆる民族において、神というのは普通、幸福をもたらす存在です。「神様がいるから、われわれは守られ、幸福に生きていける」のであり、それゆえに神を祀らなければなりません。逆に、何か不幸があったら、「この不幸を取り除いてくれるのも神様である」から、神にすがらなければなりません。神にすがれば不幸は消え、また幸福が訪れます。神とは心が広く、人間を優しく守ってくれる存在だ・・・・・・と、人類一般は考えます。ところが、古代イスラエル人はそうは考えませんでした。彼らの神は決して心が広くもなければ、優しくもありません。むしろ不幸をも与える恐るべき神です。苦難はすべて神からの授かり物、災いはすべて神の計らいです。もちろん、その一方で神は幸福も与えてはくれますが、人の世は不幸の方が多いと相場が決まっています。

 しかも、このイスラエルの神は、仏教の「法」(ダルマ)や儒教の「天」のような抽象的存在ではありません。それは人格を持った神、すなわち人格神なのです。しかも、その人格ときたら、途方もなく狭量で、嫉妬深く、かつ理不尽。ちょっとでも、何か気に食わないことがあれば、たちまち人間に苦しみを与えます。大洪水を起こしたり、バベルの塔を破壊したり、町を消滅させてみたり、きわめて暴力的な方法で人間を脅して、自らに従わせる。まるで、暴力団の親分そのものではありませんか!
 だからこそ、イスラエルの民は神を一生懸命に信仰しました。もし、神を怒らせてしまったら、自分たちはさらに不幸になり、下手をすれば絶滅させられてしまうかもしれないと恐怖したのです。ユダヤ教もキリスト教も、基本的に性悪説に立っていますが、それは彼らが信仰した唯一神の性格によるところが大きいのではないでしょうか。

 心優しい神から、理不尽な神へ・・・・・・古代イスラエル人は、まさに神の観念を180度逆転させました。社会学者のマックス・ヴェーバーは、この「逆転の発想」なくして一神教は生まれなかったと述べています。ユダヤ教やキリスト教の神は、人類にとって容赦なき力をふるう神ゆえに、たとえ神を崇めていようとも、その怒りに触れれば即座に殺されてしまいます。ましてや異教徒はなおさらのこと。神にとって異教徒は「隣人」ではなく、皆殺しにしても、奴隷にしてもかまいません。「財産はすべて没収せよ」というのが、神がヨシュアに与えた指令です。だからこそ、大航海時代のキリスト教徒たちは人類史上、例のないほどの虐殺や略奪を各地で繰り返しても平気だったのです。アフリカの黒人は人間ではないのですから、奴隷にしても殺しても良心は痛まなかったのです。この当時の白人たちは、決して宗教心を持たなかったわけではありません。むしろ、聖書に忠実であろうとした熱心なキリスト教徒だったのです。

 ところが、この恐るべき神は「ヤハウェ」から「アッラー」と名前が変わったとたんに、その性格までも一変してしまいます。ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教の神は名前こそ違いますが、同一の存在です。『コーラン』にも、同じ神が、かつてアブラハムの前に現われ、イエスを預言者として派遣し、ムハンマドに啓示を与えたと明記してあります。ですが、その人格は、かつての恐ろしさの面影はどこにもなく、同じ神であるとは思えないほどです。信者が少々の過ちを犯したぐらいでは、アッラーの神は怒りません。改悛の情しだいでは、優しく許してくれる神なのです。

 「神は死んだのか」では、イスラム教を非常に偏見に満ちた視点で描き、キリスト教の素晴らしさを強調しました。
 しかしながらイスラム教においては、キリスト教のように人間を「異教徒である」という理由だけで殺したりはしません。また、異教徒に対して、イスラム教への改宗を強制したりもしません。なぜなら、「宗教に強制なし」と書いてあるからです。慈悲深いアッラーは、異教徒に対しても慈悲を垂れるのです。イスラム教は、ユダヤ教、キリスト教の後に生まれたものですから当然ですが、教理の整合性や合理性に関しては、イスラム教は他の二宗教と比較して一段も二段も上です。そして、他の二宗教に比較して一段も二段も寛大です。イスラム教は全世界に爆発的に広まりました。いや、現在においてもその信者を世界一のスピードでどんどん増やしています。しかし、そのプロセスにおいて、イスラム教はキリスト教徒のような異教徒虐殺をしませんでしたし、強制的改宗も行いませんでした。これは決して忘れてはならない歴史的事実なのです。

 いずれにせよ、わたしには一神教の「神」には違和感があります。この映画でジョシュは「神の存在証明」をする上で、ビッグバンによる宇宙創造を持ち出します。「神なくしては宇宙は誕生しなかった」というわけですが、たしかに宇宙創造の問題には大きな説得力があります。しかし、わたしには「神」という言葉よりも、筑波大学名誉教授の村上和雄氏が唱える「サムシング・グレート」という言葉の方がしっくりときます。「サムシング・グレート」とは「神」や「仏」や「天」などと呼ばれる人間の世界を超えた偉大な存在です。

 村上氏いわく、この宇宙に1個の生命細胞が偶然に生まれる確立は、宝くじを買って1億円が100万回連続で当たるくらい奇跡的なことだそうです。その細胞を、わたしたち人間は1人につき60兆個も持っています。さらに、ヒトの遺伝子暗号は、約32億の科学の文字で書かれています。これは本にすると、1ページ1000字で、1000ページある大百科事典にして、計3200冊分にもなります。そんな遺伝子暗号を書いたのは誰か。その正体を、アインシュタインは「宇宙の真理」といい、マザー・テレサは「サムシング・ビューティフル(美しい何ものか)」と呼びました。それを村上氏は「偉大なる何ものか」という意味で、「サムシング・グレート」と名付けたわけです。
 それにしても、なんと素晴らしい言葉でしょうか!

 さて、この映画のパンフレットには宗教学者の島田裕巳氏が「驚くべき映画だ。」という文章を寄稿しています。わたしのブログ『映画は父を殺すためにある』で紹介したように、島田氏には優れた映画論がありますが、この「驚くべき映画だ。」の最後に、以下のように書いています。


「日本では到底こんな映画は生まれないとも思えるが、若者が禅寺で修行する周防正行監督の初期の映画『ファンシイダンス』などは、案外、この作品に近いかもしれない」

 島田氏は、さらに「一つ注目して欲しいのが、コンサートシーンに登場する『ニュースボーイズ』というバンドのことである。オーストラリアの出身だが、映画には本人たちが出演している。このニュースボーイズのことは、日本ではほとんど知られていないと思うが、アメリカでは人気のある『クリスチャン・ロック』のバンドだ」と述べています。

 続けて、島田氏は「保守的なイメージのあるキリスト教と、社会に対する反抗的な姿勢をモットーとするロックの結びつきは、日本人には予想外かもしれないが、アメリカでは、このジャンルの音楽がかなり浸透し、流行している。この映画を見ると、改めてそのことがよく分かる。その点では、アメリカ社会におけるキリスト教について知ることができる格好の映画でもあるのではないだろうか」と述べています。

 この「クリスチャン・ロック」というものの存在、わたしはジョン・ネズビッツの『トウェンティハンドレッド』(日本経済新聞社)を読んで初めて知りました。アップデートを果たすアメリカのキリスト教に大いに驚いたものでした。拙著『ハートビジネス宣言』(東急エージェンシー)でも「クリスチャン・ロック」を紹介しました。そういえば、『ハートビジネス宣言』を書いた頃にわたしは宗教マーケティング・プランナーのような仕事をしていました。あの頃の自分が「神は死んだのか」を観たら、さぞコーフンしたことでしょう。

 最後に、ヒューマントラストシネマ渋谷では「天国は、ほんとうにある」と「神は死んだのか」の2本が同時上映されていました。このような宗教(キリスト教)色の強い映画を2本並べるというのも驚きましたが、2本とも観ている人が多いことに気づきました。その多くは高齢の御婦人でしたが、どこかの教会の信者さんか何かでしょうか。

日本にも、よく映画を製作することで有名な新宗教の団体がありますが、関係者がこの2本を観れば、きっと多大なヒントが得られるのではないでしょうか。かつて、日本にも創価学会の「人間革命」といった作品がありましたが・・・・・・。この「神は死んだのか」は、アメリカの特定の教会のプロパガンダ映画のような気もしました。いずれにせよ、これで今年観たい映画はすべて観ることができました。いま、とても充実した気分です。できれば、来年は『死が怖くなくなる映画』というタイトルの本を書きたいと思います。

  • 販売元:アメイジングD.C.
  • 発売日:2015/06/03
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