No.0173
映画「天国は、ほんとうにある」をヒューマントラストシネマ渋谷で観ました。これも仕事の一環であります。
「未来医師イナバ」こと東京大学病院の医師である稲葉俊郎先生が自身のブログで紹介されていた記事を読んで以来、観たいと思っていた作品」です。じつは稲葉先生も原作本を読んだだけで映画は未見とのこと。わたしたちは待ち合わせて、一緒にレイトショー鑑賞をしました。
「ヤフー映画」の「解説」には、以下のように書かれています。
「アメリカの田舎町に暮らす家族が経験した奇跡の実話をつづったベストセラーを映画化。生死の境をさまよい奇跡的な回復を遂げた後、天国を見てきたと語る幼い男の子の臨死体験が周囲に巻き起こす波紋、そして彼が語る天国の話に人々が癒やされていくさまを描く。監督は『仮面の男』などのランドール・ウォレス。キャストには『恋愛小説家』などのグレッグ・キニア、『ロシアン・ドールズ』などのケリー・ライリー、『サイドウェイ』などのトーマス・ヘイデン・チャーチら実力派がそろう」
また「ヤフー映画」の「あらすじ」には、以下のように書かれています。
「ネブラスカ州の田舎町で牧師を務める傍ら小さな修理会社を経営しているトッド(グレッグ・キニア)は、3人の子どもに恵まれ幸せな毎日を過ごしていた。ある日、3歳の長男コルトン(コナー・コラム)が穿孔(せんこう)虫垂炎で生きるか死ぬかの瀬戸際だったものの、奇跡的に回復を遂げる。やがてコルトンは、両親に天国に行ってきたと言い始め・・・・・・」
「天国は、ほんとうにある」の映画パンフレットと原作本
この映画はいわゆる「臨死体験」をめぐる実話です。3歳10ヵ月のコルトン少年が手術中に生死をさまよい天国を体験したことを報告する書籍『Heaven is for Real』(英語版)は大きな話題になりました。
「ニューヨーク・タイムズ」紙ベストセラーリストに200週ランクインし、全世界で900万部以上が発行されています。ヒューマントラストシネマ渋谷の売店にはパンフレットとともに、原作本の邦訳書『天国は、ほんとうにある』(青志社)も売られていましたので、購入しました。
この原作本を読んだ稲葉先生は、ブログで次のように感想を述べます。
「コルトン君の素直な発言からは、色々と考えさせられることが多かった。それぞれの文化背景や宗教的背景で、あるイメージや体験を言語に変換するとき、そこで微妙な差異が生まれることも興味深かった。天国という表現自体がキリスト教でのコトバだから、日本では極楽、桃源郷、常世・・・・・・色んなコトバを各自がイメージすればいいのだと思う。映画化されるのがいまから楽しみ」
そう、稲葉先生が言うように、コルトン君の体験した天国には、キリスト教の世界観が色濃く反映されています。キリスト教でいう「天国」とは、すなわち「あの世」のこと。あの世を信じること、つまり「来世信仰」は、あらゆる時代や民族や文化を通じて、人類史上絶えることなく続いてきました。
紀元前3500年頃から伝えられてきた『エジプトの死者の書』は、人類最古の書物とされています。その中には、永遠の生命に至る霊魂の旅が、まるで観光ガイドブックのように克明に描かれています。同じことは『チベットの死者の書』にも言えますし、また、アメリカの先住民族のあいだでは、社会生活の規範として生者と死者の霊的な一体感が長く伝えられてきました。『聖書』や『コーラン』に代表される宗教書の多くは、死後の世界について述べていますし、世界各地の葬儀も基本的に来世の存在を前提として行なわれています。日本でも、月、山、海、それに仏教の極楽がミックスされて「あの世」のイメージとなっています。
人間は必ず死にます。では、人間は死ぬとどうなるのか。死後、どんな世界に行くのか。これは素朴にして、人間にとって根本的な問題です。人類の文明が誕生して以来、わたしたちの先祖はその叡知の多くを傾けて、このテーマに取り組んできました。哲学者たちも、死後について議論を闘わせてきました。古代ギリシャのソクラテスやプラトンは「霊魂不滅説」を説いています。その他にも、プロティノス、ライプニッツ、カント、フーリエ、ベルグソンといった高名な哲学者たちが、死後の世界を論じました。
スピリチュアルの歴史において最大の巨人とされる人物にエマニュエル・スウェデンボルグがいます。18世紀のスウェーデンに生まれた霊能力者ですが、彼の著書『霊界著述』や、さまざまな霊界通信は、死後の世界をいくつかの界層に分けています。そのほとんどは、わたしたちの住む地上界を含めて7つの界層に分類しており、それぞれの界層についての描写もほぼ同じと言えます。そして、この世に近い界層ほど、この世に似ているのです。すなわち、地面があり、山があり、谷があり、小川が流れ、草木が茂り、花が咲き、動物が遊び、地上と変わらない人間の家々があるというのです。
世界中の宗教においても、最初はスピリチュアルな人々が説くのと同じ死後の世界観をもっていました。アフリカなどの原始宗教でも、この世とあの世はほとんど変わらない世界です。しかし、宗教が国家宗教、世界宗教へと成長していくにつれ、あの世の姿も変化していきます。おそらく哲学や他の宗教の影響を受けるのでしょう。ある意味では、宗教が成長するにつれて、身近だった死後の世界が一般民衆のもとから遠ざけられていったと言えます。
その好例が、天国と地獄、あるいは地獄と極楽のような二元論的な死後の世界観です。多くの宗教、とくに仏教、キリスト教などの世界宗教は地獄を説きます。しかし、臨死体験者や霊界通信者の報告によれば、地獄という死者の霊が生前の悪行の報いとして責め苦を受ける場所など存在しません。あの世に入った初期の段階で、生前の行為に苦しめられる霊魂もいますが、それは自分の良心の反映としての幻覚に自ら苦しむのであり、審判者のようなものは存在しないのです。
さて、一方の天国はどうでしょうか。
多くの宗教では、天国は最も望ましい最終目標であり、霊的な旅の最終目的地とされています。しかし、ヒンドウー教、ジャイナ教、中央アメリカの宗教などでは、単に死と再生を永遠に繰り返すサイクルの一時的な場所であるにすぎません。天国を最も望ましい場所とする考えの中には、楽園のイメージが読み取れるものが多いことに気づきます。たとえば、仏教の極楽浄土です。そこには、底に金沙が敷きつめられた池があり、池には大きな蓮華が咲いており、池の周囲には階道があって、その上に金銀や宝玉でできた宮殿楼閣があるそうです。また、イスラムの天国には、木蔭の多い園、サラサラと流れる泉や池があるとのこと。
以前、宗教家たちが、天国についての考え方がこれほど浸透しているのは天国が存在することの一種の証拠であると主張したことがあります。それによれば、人は誰でも願望や欲求をもっていますが、何かを強く欲するということは、その欲求の対象となっているものがどこかに必ず存在していることだと考えることができます。物質的な世界ではそれを実証することが可能なので、この仮説を証明する証拠はたくさんあります。たとえば、人間に食欲があるのは食物というものがあることを意味しています。渇きを感じるのは水があることを、性欲があるのはセックスがあることを意味する。同じように、わたしたちが精神的な欲求や畏敬の念を抱くのは、神や天国が実在するということを意味していると考えられるというのです。
拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)でも紹介しましたが、有名なギャラップ世論調査では、アメリカ人の死後の世界観について調査したことがあります。それによると、実際に臨死体験をして死後の世界をかいまみた人々のうち、何人かは天国はエデンの園のようなところだったと報告しています。イリノイ州に住むある女性は次のように言いました。
「天国はまったく申し分のない世界で、目の見えない人は見えるようになり、足の不自由な人は歩けるようになるのです。そこには木々が生い茂り、環境汚染のようなものはまったくなく、水も清らかで、エデンの園がもっている特徴をいくつか備えているのです」
また、最南部に住むある年配の女性は次のように語っています。
「天国というのは、わたしたちが隠退したのちに行く永遠の隠居所です。神が地球をお造りになったとき、いろいろなものを天国に似せてお造りになったのでしょう。違うのは、天国には罪悪というものがないということです。神が地球をこのようにしたいとお思いになったように、すべてが申し分のない世界です。木も動物も天国にふさわしいもので、すべてが地上の世界と似ているけれども天国のものの方がはるかにきれいでしょう。わたしは、地上の世界は天国の複製のようなものだと思います。ただし、不正確で不完全な複製ですが」
さらに、ニュージャージー州のある若い男性は「天国はこの世を完全な状態にしたところである」としたうえで、こう語りました。
「天国のあらゆるものが、この世の最も美しいものの特徴を備えていると思います。人間は神の姿を模しているという感じがありますが、わたしはさらに、この世はある意味で天国に似せて造られたと言いたいのです。ですから、この世に咲いている美しい花は天国の完全な花を模しているわけです」
わたしのブログ記事「天国映画」で紹介した作品をはじめ、これまで天国を描いた映画は数えきれないほど作られてきましたが、ここまで「天国」そのものをテーマにしたものも珍しいですね。もっとも、日本には同ブログ記事「丹波哲郎の大霊界」で紹介した傑作がありますが・・・・・・。子どもの証言で霊的な世界の大人が知るという部分では、同ブログ記事「かみさまとのやくそく」で紹介した日本のドキュメンタリー映画にも通じます。稲葉先生はブログで「こうして海外でも映画化されて大ヒットしているのは、日本でも映画「かみさまとのやくそく」がジワジワと広がっている現象とシンクロしていると思う。この現象が何故今起きているのか・・・、その全体的な布置を把握することが大切だ。表面だけに惑わされずに。波ではなくて海を観察する」と書かれています。
少女が描いたイエス・キリストの顔
それから、この映画の最後にはコルトン君と同じく臨死体験によって天国を垣間見たアキアナ・カラマリックという少女が描いたイエス・キリストの絵が登場します。その絵を一目見たコルトン君は、「ボクが天国で会った人は、この人だ!」と言います。そのイエス・キリスト像は黒髪の凛々しい青年の姿ですが、翻訳本の中でも紹介されています。
わたしのブログ記事「イエスの顔」で紹介した2001年にイギリスBBCがドキュメンタリー番組で復元した「イエスの顔」を連想しました。そこで、「実際のイエスの顔は、もっと知性が浮き出ていたかもしれないし、意志の強さがあらわれた屈強な顔だったかもしれないし、逆に中性的な雰囲気をもっていたかもしれない。ローマ兵の落胤説だって、まったくありえないというわけでもない。そうだとすればイタリア人とアラブ人のハーフのような顔をしていたかもしれない」という専門家の言葉を思い出しました。いずれにせよ、イエスは白人ではなかったことは明らかでしょう。浅黒い顔をしていたことだけは間違いないように思います。わたしの書斎の机の右上に置かれているイエス・キリストの肖像画が置かれていますが、稲葉俊郎先生がわたしの書斎を見学されたとき、その肖像画を見つけて興味を持たれていました。
「未来医師イナバ」こと稲葉俊郎先生
それにしても今日は、稲葉先生と一緒に映画を観ることができて嬉しかったです。現役の臨床医であり、非常に多忙な中をわざわざ時間を作って付き合って下さいました。最初に都内の某ホテルのラウンジで待ち合わせして食事をし、それからタクシーで渋谷に向かいました。そのラウンジには今をときめく大作家も来店しており、驚きました。最近、わたしは彼の著書の書評を書いたばかりだったので、本当にビックリしました。「時の人」でもあるその作家は一心不乱に発売されたばかりの女性週刊誌を読み耽っていました。稲葉先生、今日は御一緒できて嬉しかったです。直前の連絡で、大変失礼しました。でも、これに懲りずに、また、連絡します!
この映画は『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)で取り上げました。