No.0178
ずっと気になっていたイギリス・イタリア合作映画「おみおくりの作法」をついに観ました。映画館は、「シネスイッチ銀座」です。
「出版寅さん」こと内海準二さんと一緒に鑑賞しました。
イギリス版「おくりびと」として話題になっている映画です。映画公式HPの「イントロダクション」には、「世界中の映画祭が絶賛! ある新聞記事から生まれた実力派人間ドラマ」の見出しで、以下のように書かれています。
「本作はウベルト・パゾリーニ監督が読んだガーディアン紙の記事に着想を得て生まれた。たったひとりで亡くなった方の葬儀を行う仕事――。その記事を読んだパゾリーニ監督はそこになにか深く、普遍的なものを感じたという。孤独、死、人と人のつながり・・・・・・。そして、ロンドン市内の民生係に同行し、実在の人物、出来事について綿密な取材を重ね、几帳面で誠実な地方公務員ジョン・メイの物語、『おみおくりの作法』は誕生した。
このくすっと笑えて、ちょっぴり切ない、心温まる静謐な物語は、 ヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門でワールドプレミア上映され、感動を呼び、監督賞含む4賞を受賞、9月に行われた、なら国際映画祭のジャパンプレミアでも観客賞を受賞するなど、現在もなお世界の映画祭を席巻している」
また、「ロンドン市、民生係メイ・ジェイ あなたの旅立ち、心を込めて見守ります」として、以下のように書かれています。
「ロンドン市ケニントン地区の民生係、ジョン・メイ。ひとりきりで亡くなった人を弔うのが彼の仕事。事務的に処理することもできるこの仕事を、ジョン・メイは誠意をもってこなしている。しかし、人員整理で解雇の憂き目にあい、ジョン・メイの向かいの家に住んでいたビリー・ストークが最後の案件となる。この仕事をしているにもかかわらず、目の前に住みながら言葉も交わしたことのないビリー。ジョン・メイはビリーの人生を紐解くために、これまで以上に熱意をもって仕事に取り組む。そして、故人を知る人々を訪ね、イギリス中を旅し、出会うはずのなかった人々と関わっていくことで、ジョン・メイ自身も新たな人生を歩み始める・・・・・・。仕事の枠を越え、死者に対しても敬意を持って真摯に向き合う、それがジョン・メイの作法。誰もが迎える死の時間を、ジョン・メイはあたたかく心を込めて見守る。たったひとりで死んでしまったとしても、誰もが誰かと関わった経緯がある。そして、人との出会いこそが新たな人生を歩みだすきっかけになる・・・・・・。ささやかで思いがけないラストシーンに胸が震える、かつてない感動作が誕生した」
さらに「長編初主演、エディ・マーサンの静かな熱演。『フル・モンティ』の名プロデューサー、ウベルト・パゾリーニ監督作」として、書かれています。
「主人公ジョン・メイを演じるエディ・マーサンはイギリスを代表する実力派俳優。近年では『ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!』『思秋期』『戦火の馬』に出演、マーティン・スコセッシ、スティーブン・スピルバーグ、マイク・リー、ブライアン・シンガーなど錚々たる監督たちと仕事をしてきた名優である。繊細な感情の機微を見事に表現した初主演である本作の演技により、数多くの映画祭で主演男優賞を獲得している。
また、NHKでも放送されている『ダウントン・アビー 華麗なる英国貴族の館』で本年もエミー賞の助演女優賞にノミネートされているジョアンヌ・フロガットがケリーを好演している。監督は『フル・モンティ』などの愛すべき作品を生み出してきた名プロデューサー、ウベルト・パゾリーニ。
プロデューサーとして高く評価され、すでに映画業界で確固たる地位を築いているパゾリーニ監督だが、本作でヴェネチア国際映画祭で監督賞を受賞するなど、監督としても高い評価を得ている」
映画公式HPの「ストーリー」には、「人と出会い、死と向き合い、人生は輝き出す」という見出しに続いて、次のように書かれています。
「ロンドンの南部、ケニントン地区の公務員、ジョン・メイ、44歳。ひとりきりで亡くなった人の葬儀を執り行うのが彼の仕事。几帳面で、何事にもきちんとしているジョン・メイは、孤独死した人の家族を見つける努力を怠らない。彼らのためにしかるべき葬礼の音楽を選び、その人ごとに弔辞を書く。亡くなった人々の魂が、品位ある方法で眠りにつくのをきちんと見届けるのが彼の作法だった。毎日同じ服を着て、遅れることなく仕事に行くジョン・メイ。まったく車が通らないような道であっても、渡る前には必ず左右確認。毎日同じ昼食をとり、帰宅すると同じメニューの夕食をとる。夕食後には、これまで弔った人々の写真をアルバムに収めるのが彼の日課だ。 規則正しい仕事と生活。・・・・・・彼はいつでもひとりだった。しかし、ジョン・メイは自分の仕事に誇りをもっていた」
続けて、映画公式HPの「ストーリー」には以下のように書かれています。
「ある日の朝、ジョン・メイの真向いのアパートで、ビリー・ストークという年配のアルコール中毒患者の遺体が見つかる。いつも亡くなった人の想いを汲み取り続けてきたジョン・メイだが、自分の住まいのすぐ近くでその人を知らぬままに孤独のうちに人が亡くなってしまった・・・・・・。小さなショックを受けるジョン・メイ。さらに、その日の午後、ジョン・メイは解雇されることを言い渡される。『君は仕事に時間をかけすぎだ』。
毎日の仕事がなかったら、毎日の決まりきった日課がなかったら、彼はどうしたらいいのだろう。 こうして、ビリー・ストークの案件はジョン・メイの最後の仕事になった。これまで以上に仕事に情熱をかたむけるジョン・メイ。彼はビリー・ストークの部屋から古いアルバムを見つける。そこには、満面の笑みで笑う少女の写真が貼られていた。ジョン・メイは写真を手掛かりに、ロンドンを飛び出してイギリス中を回り、ビリーの細切れの人生のピースを組み立ててゆく・・・・・・。旅の過程で出会った人々と触れ合ううちにジョン・メイにも変化が生まれる。これまで自然に自分で自分を縛ってきた決まりきった日常から解放される。食べたことのない食べ物を試し、いつも飲んでいる紅茶の代わりにココアを頼み、いつもと違う服を着て、パブで酒を飲み、知り合ったばかりのビリーの娘ケリーとカフェでお茶をする。
そして、まもなくビリーの葬儀が行われることになっていたある日、ジョン・メイはこれまで決してしたことがなかったことをするのだった・・・・・・」
さて、この映画には驚くべき結末が用意されています。その感動のラストについて書きたいのは山々なのですが、ネタバレになるので、それはできません。ともかく、主人公であるジョン・メイの誠実な生き方が心に沁みます。彼は孤独死した身寄りのない人を弔う仕事を誠実に取り組んでいる44歳の民生係です。彼もまた孤独な人生を送っており、家族がいません。映画の途中で、一瞬、彼の幸福な未来がイメージされるのですが・・・・・・。
そのジョン・メイですが、孤独死のお世話をするという仕事をしながらも、豊かな教養の持ち主として描かれていました。クロスワード・パズルなど、彼に解けない問題はありません。そんな該博な知識を誇る彼が他人の「死」と向かい合い続けているという事実に、わたしは「死生観は究極の教養である」という持論を改めて再認識しました。
ジョン・メイは、孤独死した人々の人生に想いを馳せます。
彼らが孤独死した部屋を訪れ、残された写真などから彼らの人生を辿ります。写真こそは死者の生き様を知る上での唯一無二のメディアであることを再認識しました。もともと、写真とは「死者と再会したい」という人間の想いが生んだメディアであると思います。ちなみに、すべての人物写真は遺影です。たとえ生きている人を撮影した写真であっても、それは将来必ず、遺影となります。なぜなら、死なない人はいないからです。
写真とは徹底して「死」と結びついたメディアであり、葬儀の際に遺影を飾るのはあまりにも当然と言えるでしょう。
ジョン・メイは、写真をはじめとした僅かな手がかりをもとに、死者の身内や知人を訪ねます。そして、「ぜひ葬儀に参列してあげてほしい」と頼み込むのです。彼は1つの案件が終了すると、ノートに「調査終了」と書き込みます。それを見て、彼の仕事は基本的に探偵なのだなと気づきました。
探偵は、依頼人のこれまでの人生や、死体が生きていた頃の様子などについて推理を働かせます。ジョン・メイの仕事もまったく同じでした。
探偵といえば、コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』に登場する名探偵が思い浮かびます。ちなみに、ホームズはロンドンの霧の中から生まれました。わたしは「おみおくりの作法」を観ながら、ブログ「シャーロック・ホームズ」で紹介した映画を連想しました。
シャーロック・ホームズには独特の推論形式があります。
ホームズは、やってきたクライアントの話を聞く前に、その人物の職業や来歴をぴたりと言い当てます。この映画にも、「あなたは家庭教師をしていて、教え子は8歳の男の子ですね」と的中させるシーンが出てきます。これは、どういう服を着ているかとか、その服のどこにインクの染みがあり、顔のどこに傷がついているかとか、具体的なデータを読んでいるわけです。そのような細部の情報を組み合わせて、ホームズはその人のパーソナル・ヒストリーを想像の中で構成しているのです。
思想家の内田樹氏は『邪悪なものの鎮め方』(文春文庫)において、探偵の仕事について鋭く分析し、次のように指摘しています。
「探偵は一見して簡単に見える事件が、被害者と容疑者を長い宿命的な絆で結びつけていた複雑な事件であったことを明らかにする。読者たちはその鮮やかな推理からある種のカタルシスを感じる。それは探偵がそこで死んだ人が、どのようにしてこの場に至ったのかについて、長い物語を辛抱づよく語ってくれるからである。その人がこれまでどんな人生を送ってきたのか、どのような経歴を重ねてきたのか、どのような事情から、他ならぬこの場で、他ならぬこの人物と遭遇することになったのか。それを解き明かしていく作業が推理小説のクライマックスになるわけだが、これはほとんど葬送儀礼と変わらない。」
「探偵の仕事は葬送儀礼と同じ」という考えには、つねに葬儀の意味を考え続けているわたしも膝を打ちました。内田氏は、さらに次のように書きます。
「死者について、その死者がなぜこの死にいたったのかということを細大漏らさず物語として再構築する。それが喪の儀礼において服喪者に求められる仕事である。私たちが古典的なタイプの殺人事件と名探偵による推理を繰り返し読んで倦まないのは、そのようにして事件が解決されるプロセスそのものが同時に死者に対する喪の儀礼として機能していることを直感しているからなのである。」
わたしは、この内田氏の文章を読んだとき、「行旅死亡人」と呼ばれる人々のことを思い浮かべました。氏名も職業も住所もわからない行き倒れの死者たちです。いわゆる「無縁死」で亡くなる人々です。そんな死者が、日本に年間3万2000人もいるといいます。明日、自宅の近くの路上にそんな死者が倒れている可能性がないとは言えません。その人が何者で、どのような人生を歩んできたのか。それを、みんなで推理しなければならないのが「無縁社会」です。わたしたちは、「一億総シャーロック・ホームズ」の時代を生きているのかもしれません。そして、「おみおくりの作法」こそは「探偵の仕事は葬送儀礼と同じ」という真実を見事に示した映画と言えるでしょう。
誰も参列者のいない葬儀のことを「孤独葬」といいます。わたしは日々、いろんな葬儀に立ち会いますが、中には参列者が1人もいないという孤独な葬儀が存在するのです。そんな葬儀を見ると、わたしは本当に故人が気の毒で仕方がありません。亡くなられた方には家族もいたでしょうし、友人や仕事仲間もいたことでしょう。なのに、どうしてこの人は1人で旅立たなければならないのかと思うのです。もちろん死ぬとき、誰だって1人で死んでゆきます。でも、誰にも見送られずに1人で旅立つのは、あまりにも寂しいではありませんか。故人のことを誰も記憶しなかったとしたら、その人は最初からこの世に存在しなかったのと同じではないでしょうか?
最近よく、そんなことを講演などで話すのですが、これはそのまま「実存的不安」の問題にほかなりません。つまり、その人の葬儀に誰も来ないということは、その人が最初から存在しなかったことになるという不安です。逆に、葬儀に多くの人々が参列してくれるということは、亡くなった人が「確かに、この世に存在しましたよ」と確認する場となるわけです。
「となりびと」は「おくりびと」でもあります。
わが社では、孤独な高齢者の方々を中心に、1人でも多くの「となりびと」を紹介する「隣人祭り」を開催するお手伝いをしています。この映画を観て、わたしは今後も「隣人祭り」を開催し続けていく決意を固めました。
ジョン・メイは、孤独死した故人の葬儀にたった1人で参列し続けました。
彼は仕事の範疇を超えて、多くの死者たちを見送ります。
葬儀で流す音楽を選び、自ら故人のための弔辞を書きます。
どんな社会的弱者であっても、生きている者が相手なら、いつかは感謝の言葉を与えられるかもしれません。社会的に大きな称賛を浴びる可能性だってあります。でも、孤独死した死者に尽くす生き方には、何の見返りもありません。これこそ真の隠徳というものでしょう。そして、映画のラストでジョン・メイの陰徳は無駄ではなかったことが示されるのでした。
わたしは、感動的なラストを観ながら、かつて丹波哲郎さんと交わした会話を思い出しました。ブログ「丹波哲郎の大霊界」に書いたように、わたしはかつて「霊界の宣伝マン」と呼ばれた丹波さんと親交がありました。
今からもう20年以上前のことですが、拙著『ロマンティック・デス~月と死のセレモニー』(国書刊行会)を読まれた丹波さんから連絡をいただき、新宿の中華料理店で会食したことがありました。そのとき、「こういう本を書くことによって人々の死の不安を取り除いてやることは素晴らしいことだ。でも、いつかは執筆だけではなく、大勢の人の前で直接話をしなくてはいけない。わたしが演説の仕方を教えてあげよう」と言われたのです。
その後、新都庁近くにあった丹波オフィスを十数回訪れ、話し方のレッスンを無料で受けました。現在、口下手なわたしが多くの講演や大学での講義などの活動ができるのも、丹波さんのおかげと心から感謝しています。大恩人です。レッスン後の「霊界よもやま話」も楽しい時間でした。
そして、そのとき、わたしは葬儀という仕事の意味について丹波さんに問うたのです。わたしは「人を見送るお世話をした人は良い世界へ行けるように思うのですが、いかがでしょうか?」と申し上げたところ、丹波さんは「その通り。人を素晴らしい世界へ送ってあげるというのは天使の仕事なんだよ。これはもう、神から使命を与えられた最高の仕事ですよ」と言って下さったのです。わたしは、それを聞いて涙が出るほど感激し、葬祭業という仕事に心からの誇りを持つことができました。なつかしい思い出であり、一生忘れられない思い出です。
丹波哲郎さんは、2006年に84歳でお亡くなりになられました。 数多くの映画やテレビドラマに出演した大俳優であり、死後の世界の真相を説く「霊界の宣伝マン」でした。霊界についての本を60冊以上出版し、映画まで製作して空前の霊界ブームを巻き起こしました。その人生を通じて、「人は死んだらゴミになる」という唯物論と闘い続けられました。丹波さんの立場はいわゆる心霊主義ですが、もともと唯物論と心霊主義は同時に生まれた考え方です。
1848年、アメリカで幽霊が大きな話題となる有名な「ハイズビル事件」が起こりました。ブログ『幽霊学入門』で紹介した本で、慶應義塾大学文学部助教授の巽孝之氏は以下のように述べています。
「ここで注目したいのは1848年、すなわち心霊主義勃興の起源ともいえるフォックス姉妹の事件とまったく同じ年に、かのマルクス=エンゲルス共著の『共産党宣言』(1848年)が発表され、その冒頭が誰もが知るとおり、こう始まっていることだ――『とある亡霊(specter)がヨーロッパに取り憑いている――共産主義という名の亡霊が』。この『亡霊』こそは、コットン・マザーが『生霊』と呼び、同書旧訳が『妖怪』と訳して来た存在ならざる存在である。心霊主義と共産主義の同時発生、いわば超自然思想と唯物論思想の同時発生は、偶然ではない。南北戦争前夜の時代、アメリカ北部にとって南部の黒人奴隷制はそれ自体が妖怪のごとき呪いであったし、いっぽう南部はといえば、そのころ勃興中の社会主義や共産主義やフーリエ主義などすべての言説を包含するアグレリアニズムという名の妖怪によって農地再分配が行われ、奴隷制という名の私的所有形態を震撼させる恐怖におののいていた」
結局、唯物論者には葬儀の意味はわかりません。
現在の日本には、「団塊の世代」という唯物論者集団がいますが、これから彼らがどのような葬儀を希望するのか、わたしは非常に注目しています。
そして、この映画の最大のテーマは「葬儀とはいったい誰のものなのか」という問いです。死者のためか、残された者のためか。ジョン・メイの上司は「死者の想いなどというものはないのだから、葬儀は残されたものが悲しみを癒すためのもの」と断言します。わたしは、多くの著書で述べてきたように、葬儀とは死者のためのものであり、同時に残された愛する人を亡くした人のためのものであると思います。
たとえ愛する人が死者となっても、残された人との結びつきが消えることはありません。その問題について深く考えた人物が、ドイツの神秘哲学者ルドルフ・シュタイナーです。彼は人智学という学問の創始者として知られていますが、よく「人智学を学ぶ意味は、死者との結びつきを持つためだ」と語ったそうです。 死者と生者との関係は密接であり、それをいいかげんにするということは、わたしたちがこの世に生きることの意味をも否定することになりかねないというのです。
わたしたちは、あまりにもこの世の現実に関わりすぎているので、死者に意識を向ける余裕がほとんどありません。それどころか、この世に生きている者同士の間でも、他人のことを考える余裕がないくらいの生活をしています。けれども、そうかといって、それでは自分自身とならしっかり向き合えているかというと、そうでもありません。
ほとんどの人は、完全に内に向いているわけでもなく、外の社会に適応しようとしているにもかかわらず、他者に対する関係も中途半端なままに生活している状態でしょう。死者と自分との関係がほとんど意識できなくなってしまった時代状況の中で、シュタイナーは、人智学を発表しなければならないと感じました。それによって、この世の人間があの世の人間と再び結びつきをもてるようになれば、そのとき初めて、現代文化の改革さえ可能になると考えたようです。
それでは、どうしたら、この世の人間は死者との結びつきを持てるのでしょうか。そういうことを考える前に、まず言えるのは、死者が現実に存在していると考えない限り、その問題は解決しないということです。つまり、死者など存在しないということになってしまえば、いま言ったことはすべて意味がなくなってしまいます。ところが、仏教の僧侶でさえ、死者というのは、わたしたちの心の中にしか存在していないという人が多いのです。そういう僧侶は、人が亡くなって仏壇の前でお経をあげるのは、この世に残された人間の心のために供養しているのだというのです。もし、そういう意味でお経をあげているのなら、死者と結びつきを持とうと思っても、当人が死者などいないと思っているわけですから、結びつきの持ちようがありません。死んでも、人間は死者として生きています。しかし、その死者と自分との間には、まだはっきりした関係ができていないと考えることがまず前提にならなければならないのです。
シュタイナーは多くの著書や講演で、「あの世で死者は生きている」ことを繰り返し主張しました。彼は、こう言いました。今のわたしたちの人生の仲で、死者たちからの霊的な恩恵を受けないで生活している場合はむしろ少ないくらいです。ただそのことを、この世に生きている人間の多くは知りません。そして、自分だけの力でこの人生を送っているように思っています。シュタイナーによれば、わたしたちが死者からの霊的恩恵を受けて、あの世で生きている死者たちに自分の方から何ができるのかを考えることが、人生の大事な務めになるのです。
以上のような考えを、わたし自身ずっと述べてきました。
最近では、「勇気の人」こと東大病院救急部教授の矢作直樹氏が積極的に発言をされています。矢作氏には、その名もこの映画のタイトルに通じるブログ『「あの世」と「この世」をつなぐ お別れの作法』で紹介した本、あるいはブログ『命には続きがある』で紹介したわたしとの対談本などで真の葬儀についても言及されています。
葬儀をテーマにした映画といえば、誰しも日本の「おくりびと」を思い浮かべることでしょう。わたしは、この「おみおくりの作法」と「おくりびと」は葬儀の真の意味を考える上で相互補完する内容であると思いました。すなわち、死者にとっての葬儀を描いたのが「おみおくりの作法」であり、残された人にとっての葬儀を描いたのが「おくりびと」ではないでしょうか。
日本では「参列者のいない葬儀を行う意味などあるのか」、「そもそも葬式は何のためにやるのか」、ひいては「葬式は、要らない」などという声も出ています。しかし、たとえ参列者がいなくとも、死者がいる限り、葬儀とは必要なものなのです。最後に、この映画の原題は"STILL LIFE"ですが、「おみおくりの作法」という邦題は見事であると思いました。
冠婚葬祭業に従事する方々はもちろん、「死者を弔う」ことの意味を見失いつつあるすべての日本人に観てほしい映画です。ぜひ単館系の上映だけでなく、全国のシネコンでのロードショーを希望いたします。