No.0179


 Tジョイリバーウォーク北九州で日本映画「悼む人」を観ました。本当は現在『唯葬論』や『永遠葬』を執筆中なので忙しく、映画など鑑賞している余裕はないのですが、「死者を悼む」ことがテーマの作品なので、きっと参考になるのではないかと思ったのです。

 映画公式HPの「イントロダクション」には、以下のように書かれています。

「ベストセラー作家・天童荒太の直木賞受賞作『悼む人』を堤幸彦が映画化。亡くなった人が生前『誰に愛され、愛したか、どんなことをして人に感謝されていたか』。そのことを覚えておくという行為を、巡礼のように続ける主人公"悼む人"こと坂築静人と、彼とのふれ合いをきっかけに『生』と『死』について深く向き合っていく人々の姿を描いた小説に堤は心打たれ、映画化の前に舞台化を行うほど、この作品に思い入れを見せる」

 また、「イントロダクション」には次のように書かれています。

「天童が『悼む人』を書くに至った発端は、2001年、9・11アメリカ同時多発テロ事件、およびそれに対する報復攻撃で多くの死者が出たことだった。これらの悲劇だけではなく、世界は不条理な死に満ちあふれていることに改めて無力感をおぼえた天童に、天啓のように死者を悼んで旅する人の着想が生まれた。彼は実際に各地で亡くなった人を悼んで歩き、悼みの日記を三年にわたって記し、その体験を元に2008年、『悼む人』を刊行した。そして2011年、日本は再び大震災に見舞われ、我々は改めて不条理な死と向き合う事を余儀なくされた」

 続いて、「イントロダクション」には次のように書かれています。

「人はなぜ生まれ、なぜ死ぬのか。ふいに目の前から消えてしまった者に対して誰もが抱く行き場のない思いをどうしたらいいのか。病や事故のような逃れようのないことであれ、殺人という加害者によることであれ、かけがえのない『生』を損なわれた時、人は深く傷つき、苦しむ。静人は旅をしながら、『生』を奪い奪われる人たちと出会っていく。母を見殺しにした父を憎む男。愛という執着に囚われて夫を殺した女。末期癌療養に病院ではなく自宅を選ぶ母親・・・・・・。静人自身も、大好きだった者の死を忘れるという行為に自らを責め続けていた。『誰に愛され、愛したか、どんなことをして人に感謝されていたか』死者に対してこの3つを見つめ、記憶することで、逃れることのできない『死』を、『愛』によって永遠の『生』に変える。これが、人のできる最善なのではないか。静人の〈悼む〉行為はそう語りかけてくるようだ。その『愛』の記憶は、見た人の数だけ無数にある。静人が黙々と死者を訪ね歩き、その愛の記憶をひもとき、呪文のように言葉にし、祈る姿を見ながら、観客は個々の『愛の記憶』を呼び起こしていく。そして、自分は誰を、どんなふうに愛し、誰かに、どんなふうに愛されたであろうか。また、これから誰を愛していくだろうか。そんな思いにも繋がっていく」

 さらに、「イントロダクション」には次のように書かれています。

「『生』と『死』と『愛』。人間の根源的な営みに真っすぐ向き合った作品を、堤 幸彦は『これがデビュー作』という強い思いで挑んだ。 エンターテインメント作品を多く生み出す一方で、近年、『MY HOUSEMY』『くちづけ』『Kesnnuma,Voices.』 シリーズなど現代日本の問題を取り上げた作品も撮っている堤の現時点での到達点が『悼む人』である。笑いやトリッキーな演出は抑制し、登場人物の繊細な情感や、移り変わる日本の風景を静かに映し出す」

 そして、「イントロダクション」には次のように書かれています。

「この作品のために実力派俳優が集結した。出会う人たちの『死生観』のリトマス試験紙のような静人に高良健吾。夫を殺した罪に苛まれ続ける女・倖世に石田ゆり子。彼女を追いつめる夫の亡霊を井浦新、新たな命を授かる静人の妹を貫地谷しほり、生からも死からも目を背け偽悪的にふるまい続ける雑誌記者に椎名桔平。最後まで死と闘い続ける母・巡子に大竹しのぶ、ほか盤石なキャスティングだ。 〈悼む〉という人間のでき得る限りの行いとその涯にある救済を、堤が身を切るようにして見つめ続けた世界を、熊谷育美の主題歌『旅路』が包み込む。その時、観客の心には一筋の光が差し込んでくるだろう」

 さて、映画公式HPの「ストーリー」には、以下のように書かれています。

「坂築静人(高良健吾)は、不慮の死を遂げた人々を〈悼む〉ため、日本全国を旅している。〈悼む〉とは、亡くなった人の『愛』にまつわる記憶を心に刻みつけることだ。死者が生前『誰に愛され、愛したか、どんなことをして人に感謝されていたか、その生きている姿を覚えておく』ための静人なりの儀式は、傍からは奇異に映った。だが、この行為こそが、静人と関わった様々な人たちの『生』と『愛』に対する考え方に大きな影響をもたらし、誰もが抱える生きる苦しみに光を照らしていく」

 続いて、映画公式HPの「ストーリー」には、次のように書かれています。

「山形のとある事故現場で静人に出会った、雑誌記者・蒔野抗太郎(椎名桔平)には、余命幾ばくもない父親(上條恒彦)がいるが、子供の頃からの確執によって、袂を分かったままだった。偽悪的なゴシップ記事を書き続け"エグノ"と揶揄される蒔野は、静人に目をつけ、取材をはじめる。同じく山形。産業廃棄物処理場を埋め立てた展望公園で、静人と出会った奈義倖世(石田ゆり子)は、夫・甲水朔也(井浦新)をその手で殺した過去をもっていた。夫の亡霊に苦しむ倖世は、救いを求めて、静人の旅に同行する」

 また、映画公式HPの「ストーリー」には、以下のように書かれています。

「横浜にある静人の実家では、母・巡子(大竹しのぶ)が末期癌と闘っていた。折しも、妹・美汐(貫地谷しほり)は妊娠しているにもかかわらず、恋人に別れを切り出されてしまう。破談の理由には、静人の『悼む』行為への偏見も含まれていた。傷つき、苦悩しながら、それでも前を向こうとする母娘。ふたりを支えるのは、父・鷹彦(平田満)と従兄弟の福埜怜司(山本裕典)。彼らは、旅に出たまま帰ってこない静人のことも心配している」

 さらに、映画公式HPの「ストーリー」には、以下のように書かれています。

「謎の旅人と化している静人の身辺取材をはじめた蒔野は、その途中、父の愛人・理々子(秋山菜津子)から父の死の報を受ける。葬式に顔を出した蒔野は、見ないようにしていた父の思いに触れ、動揺する。その矢先、これまでの悪行のつけがまわったかのように、命を狙われるはめに陥ってしまう。一命を取り留めたものの視力を失った蒔野は、静人の実家を訪れる。そこで、巡子から明かされる、静人の〈悼む〉行為に秘められた真実。過去の出来事をひとり抱える息子に対して、巡子の願いはただひとつ、『誰かを愛してほしい』ということだった。〈愛〉を封印しひたむきに〈悼み〉続ける静人によって、死者とその関係者たちにまつわる知られざる愛の真実が浮き上がっていく」

 そして、映画公式HPの「ストーリー」には、以下のように書かれています。

「旅をするうち、静人と倖世は互いに心惹かれはじめるが、静人も倖世も、それぞれが過去に背負った罪の意識から、素直に人を愛することができない。『誰かを愛してほしい』という母の願いは静人に届くのか。ひたひたと巡子の死期が近づいてくる。怜司は、静人を"悼む人"と呼ぶ情報サイトから、静人にメッセージを発信する。その時、静人と倖世のとった行動は・・・・・・。静人、そして彼を巡る人々は、罪から解放され、生きる意味と、真実の愛をみつけることができるのだろうか」

 わたしは、この映画を観ながら、いろんなことを考えました。
 まず、こんなに暗い映画はありません。全編、とにかく暗い。
 でも、観ていると、心が癒されていくような気持ちになりました。
 わたしは、もともと「死は不幸な出来事ではない」と考えている人間であり、「死」を暗く描くことには違和感があります。でも、この映画を観ると、「癒しには暗さも必要なのだな」と感じました。

 さて、原作小説を読んだとき、わたしは非常に驚きました。わたしが常日頃から考え続けていることが、そのまま書かれていたからです。 それは、「死者を忘れてはいけない」ということ。そして、主人公の「悼む」儀式が、各地の名所旧跡で過去の死者たちのために鎮魂の歌詠みを続けるわたしの行いを連想させたからです。実際、この映画の主人公である静人ほどではないにしろ、それに近いことは今でも日常的に行っています。ある方から、「一条さんは、リアル『悼む人』ですね」と言われたこともあります。

 病死、餓死、戦死、孤独死、大往生・・・・・時のあけぼの以来、これまで、数え切れない多くの人々が死んで、死んで、死に続けてきました。わたしたちは、常に死者と共に存在しているのです。絶対に、彼らのことを忘れてはなりません。死者を忘れて生者の幸福などありえないと、わたしは心の底から思います。しかし、現代の日本社会はどうでしょうか。日本人では、通夜も告別式もせずに火葬場に直行するという「直葬」が増加し、遺骨を火葬場に捨ててくる「0葬」といったものまで登場しています。わたしは信じられない思いでいっぱいです。なぜ日本人は、ここまで「死者を軽んじる」民族に落ちぶれてしまったのでしょうか?

 「日本民俗学の父」と呼ばれる柳田國男の名著『先祖の話』の内容を思い出します。『先祖の話』は、敗戦の色濃い昭和20年春に書かれました。柳田は、連日の空襲警報を聞きながら、戦死した多くの若者の魂の行方を想って、『先祖の話』を書いたといいます。「この敗戦によって、日本人は先祖供養を忘れるのではないか」という柳田の危惧は、それから60年以上を経て、現実のものとなりました。日本人の自殺、孤独死、無縁死が激増し、通夜も告別式もせずに火葬場に直行するという「直葬」も増えています。 いつしか、日本人の多くは死者を「悼む」ことを忘れてしまったようです。

 家族の絆はドロドロに溶け出し、「血縁」も「地縁」もなくなりつつあります。『葬式は、要らない』などという本がベストセラーになり、日本社会は「無縁社会」と呼ばれるまでになりました。この「無縁社会」の到来こそ、柳田がもっとも恐れていたものだったのではないでしょうか。彼は「日本人が先祖供養を忘れてしまえば、いま散っている若い命を誰が供養するのか」という悲痛な想いを抱いていたのです。折しも今年は終戦70周年の年です。この大きな節目となる今年、「死者を忘れるな」というメッセージが込められた映画「悼む人」が公開されたことは意義があると思います。

 でも、原作と映画では印象が異なることも事実です。
 原作の小説では静人の行動や心情に深く共感できたのですが、正直言って、映画では少々違和感を覚えました。わたしの抱いた違和感は、見事なくらいに他の登場人物たちが代弁してくれていました。まず石田ゆり子演じる倖世は「すべての人を悼むことはできない」と言いますが、その通りです。静人は新聞記事で知った殺人現場や事故現場に行って死者を悼むわけですが、それはオール死者の中のほんの一部でしかありません。また、彼が新聞で悲劇を知ったからと言って、後藤健治さんや湯川遥菜さんを悼むためにイラクの砂漠に赴くことはできません。彼の行為は「中途半端」であると言われても仕方はないと思います。

 死者が亡くなった原因にはまったく関心を払わないという静人の主義にも違和感を覚えます。わたしは「死は最大の平等である」という信条を持っていますが、死に方は別です。殺人、自殺、孤独死などの死に方がいいはずはないでしょう。よく、スピリチュアリストなどに「死ぬ瞬間は、人間みな幸福感に包まれるのだから、死に方は関係ないのですよ」などという人はいますが、わたしは間違っていると思います。絶対に「殺人、自殺、孤独死もまた良し」などと肯定してはなりません。そんなことをすれば、社会が崩壊してしまいます。その意味で、何人もの罪のない人を殺して死刑になった殺人犯の死と、その殺人犯から理不尽にも命を奪われた幼児の死を同等に扱うという静人の「悼み」には違和感を覚えるのです。

 また、亡くなった人が生前「誰に愛されたか」「誰を愛したか」「どんなことをして人に感謝されていたか」を重んじるという静人の「悼み」にも疑問を感じます。最初の2つはまだいいでしょう。しかし、問題は3つ目です。はっきり言って、誰からも感謝されない人間というのは存在します。そういった人間でも他人から感謝されていたという口上を静人は述べますが、わたしには詭弁というか、彼自身の気休めとしか思えませんでした。そう、静人の「悼む」行為そのものが彼の気休めであり、さらには彼の自我が崩壊しないための心理的自衛行為のように思えました。映画では椎名桔平演じる雑誌記者の蒔野抗太郎から「なぜ、君には無関係の他人の死を悼むのか」と問われて、静人は「そう質問されたときは、ぼくは病気なのだと答えるようにしています」と言いますが、わたしは静人は本当に病気なのだと思います。

 というのも、わたしは今、『唯葬論』(仮題、三五館)という本を書いています。人間のすべての営みの根底には慰霊や鎮魂といった「死者への想い」があるという内容ですが、最近その参考資料としてフォイエルバッハの『唯心論と唯物論』(岩波文庫)とか岸田秀の『唯幻論物語』(文春新書)とか養老孟司の『唯脳論』(ちくま文庫)といった「唯○論」の類の本を固め読みしました。その中で、『唯幻論物語』の著者である岸田秀氏の告白に強い印象を受けました。岸田秀氏は「唯幻論」の著者として知られます。唯幻論とは「本能が壊れた動物である人間は、現実に適合できず、幻想を必要とする。人間とは幻想する動物である」という考え方です。

 『唯幻論物語』は岸田氏の半生を振り返りながら独自の理論へと至る思索のドキュメントですが、同書の中で岸田氏は、中学生の頃から日本兵の死体のイメージが浮かんで仕方がなかったといいます。最初は硫黄島で無残な死を遂げた日本兵の写真を見たことがきっかけだったようですが、みじめに死んだ日本兵のイメージがつねに心に迫ってきて、岸田少年は「うつ」状態となり、精神的に非常に危険な状態にあったそうです。精神的に追い詰められた岸田氏は、長じて「みじめに死んだ日本兵とはわたし自身のことではないかと考えるようになった。わたしは自分をこのみじめな日本兵と同一視しているようであった」と述べます。

 さらに、岸田氏は以下のように書いています。

「わたしの心のなかを彷徨っていた死んだ日本兵たちは、わたし個人の物語、そして、わたしが知る世界の歴史の物語のなかに曲りなりにも位置づけられ、一応の居場所を得ることになった。いまでも死んだ日本兵たちを思い浮かべると涙がにじんでくるけれども、居場所を得ると、彼らのイメージは、もはやわたしの自我にとって異物ではなくなった。異物ではなくなったのだから、追っ払おうとしなくなった。つまり、それは自我の統合された一部となり、もはや神経症的症状ではないのである。ついでながら言えば、史的唯幻論の骨格である集団的心理論、社会構造論は、死んだ日本兵たちを何とかどこかに位置づけようとして、彼らを死へと追い詰めていった背景を考えていた過程で形成されたものである」

 もう、おわかりでしょう。岸田少年にとっての日本兵こそ、静人が「悼む」行為を続ける死者たちのことでした。静人は彼が悼んでいる故人たちが彼らを死へと追い詰めていった背景を考えることによって神経症的症状から逃れていたのではないでしょうか。とうのも、故人が亡くなった原因には無関心などと言いながらも、彼が「悼む」人々はすべて殺人、自殺、事故死などの「ワケあり」のホトケばかりです。なぜなら、静人は彼らの死を新聞の社会面で知るからです。そこでは普通の自然死や病死の情報は知り得ません。新聞のニュースになる情報的価値がないからです。新聞に書かれる一般人の「死」とはいつだって「非業の死」であり「理不尽な死」なのです。ですから、「死の原因には関心がない」と言いながらも非業の死者ばかりを「悼む」静人の行為は矛盾しているのです。

 おそらく、静人は自分が知った非業の死を遂げた人々の存在が自分を神経症的症状に追い込むことを恐れているのでしょう。「彼らを悼まなければ、自分は狂ってしまう」と思っているのかもしれません。そうであるならば、新聞の死亡記事など読まなければいいのですが、逆に読まずにはおられない。だから彼は病気なわけですが、読むことによって、新たな非業の死を知ってしまう。知ったからには死者を悼まずにはいられない。静人の不可解な行動の背景には、こういった事情があるように思えます。そして、そのことを大竹しのぶ演じる静人の母・巡子は知っていたに違いありません。

 映画「悼む人」で静人の「悼む」行為を観ながら、は、以上のような感想を抱きました。小説を読んだときとは大きな違いです。これは小説と映画の違いというよりも、2008年の秋に小説が発表されてから、2015年になって映画公開されるまでの間、2011年3月11日に東日本大震災が発生したことが大きな原因かもしれません。ブログ「『生と死』を考える対談」で紹介した鎌田東二氏とのトークショーでも語りましたが、あの大災害は日本人の死生観を一変させました。

 大津波の発生後、しばらくは大量の遺体は発見されず、多くの行方不明者がいました。火葬場も壊れて通常の葬儀をあげることができず、現地では土葬が行われました。海の近くにあった墓も津波の濁流に流されました。拙著『のこされたあなたへ』(佼成出版社)にも書きましたが、葬儀ができない、遺体がない、墓がない、遺品がない、そして、気持のやり場がない。
 まさに「ない、ない」尽くしの状況は、「悼む」という行為さえ受け付ける余裕がなかったのです。まさに極限的状況でした。

 そんな大災害を経験した後の日本人にとって、静人の「悼む」行為にはどこかしらウソくささを感じるのではないでしょうか。東日本大震災の被災地では毎日、「人間の尊厳」が問われました。亡くなられた犠牲者の尊厳と、生き残った被災者の尊厳がともに問われ続けたのです。「葬式は、要らない」という妄言は、大津波とともに流れ去ってしまいました。まことに、東日本大震災ほど「葬儀の重要性」を痛感したことはありませんでした。

 当たり前の話ではありますが、最大の「悼む」方法とは、やはり葬儀ではないかと思います。わたしは、日々いろんな葬儀に立ち会います。中には参列者が1人もいないという孤独な葬儀も存在します。そんな葬儀を見ると、わたしは本当に故人が気の毒で仕方がありません。亡くなられた方には家族もいたでしょうし、友人や仕事仲間もいたことでしょう。なのに、どうしてこの人は1人で旅立たなければならないのかと思うのです。もちろん死ぬとき、誰だって1人で死んでゆきます。でも、誰にも見送られずに1人で旅立つのは、あまりにも寂しいではありませんか。故人のことを誰も記憶しなかったとしたら、その人は最初からこの世に存在しなかったのと同じではないでしょうか?

 静人は「あなたが確かに生きていたということを私は憶えておきます」と死者に語りかけますが、それと同じことを紫雲閣のスタッフはいつも心掛けています。「ヒト」は生物です。「人間」は社会的存在です。「ヒト」は他者から送られて、そして他者から記憶されて、初めて「人間」になるのではないかと思います。人間はみな平等であり、死は最大の平等です。その人がこの世に存在したということを誰かが憶えておいてあげなくてはなりません。血縁が絶えた人ならば、地縁のある隣人たちが憶えておいてあげればいいと思います。

 わたしは、参列者のいない孤独葬などのお世話をさせていただくとき、いつも「もし誰も故人を憶えておく人がいないのなら、われわれが憶えておこうよ」と、紫雲閣のスタッフたちに呼びかけます。でも、本当は同じ土地や町内で暮らして生前のあった近所の方々が故人を思い出してあげるのがよいと思います。そうすれば、故人はどんなに喜んでくれることでしょうか。わたしたちはみんな社会の一員であり、1人で生きているわけではありません。その社会から消えていくのですから、そんな意味でも死の通知は必要なのです。社会の人々も告別を望み、その方法が葬儀なのです。

 いま、「悼む人」と同じく「生」と「死」をテーマにした映画が世界的な話題となっています。ブログ「おみおくりの作法」で紹介したイギリス・イタリア合作映画です。「おみおくりの作法」の最大のテーマは「葬儀とはいったい誰のものなのか」という問いです。死者のためか、残された者のためか。主人公ジョン・メイの上司は「死者の想いなどというものはないのだから、葬儀は残されたものが悲しみを癒すためのもの」と断言します。わたしは、多くの著書で述べてきたように、葬儀とは死者のためのものであり、同時に残された愛する人を亡くした人のためのものであると思います。

 奇しくも、「おみおくりの作法」と「悼む人」が同時期に劇場公開されていることには何かの意味があるのでしょう。両作品のテーマは、わたし自身のテーマでもあります。わたしは、これからも、あらゆる死者を「送る」ことと「悼む」ことの意味と大切さを考え続け、かつ訴え続けてゆきたいと思います。

  • 販売元:TCエンタテインメント
  • 発売日:2015/09/04
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